第17話 さくら

如何なる物に於いても『評』という物は重要であり

特に此の明治の文壇に於ける大家の影響と云うものは大きく

彼等の論評が世に出た作品の人気を左右すると言っても過言ではなかった


故に、大家を怒らせるという事が如何に大変な事であるか

文士である青年も重々、知り得て居た


知り得て、居たというのに


以降、青年は縦覧所に行く事も無く、未だ出入りしている編集者が持参した新聞を見る事も無かった


新聞を見る気にもなれなかった

否、見る事が恐ろしくあった


作品への酷評

大家の會合からの別離


報道に於てさぞ、色々と書き立てられている事であろう

悪い方向にて



「息抜きをなさったらどうですか」

以前より付き合いのあった、青年が駈け出しの作家であった頃から目を掛けてくれていた支援者が様子を見に来て言う


気分転換-其の様な軽い行いで何かが晴れるとは思えぬも

其れでも、と青年は家から外へと出掛けた



街を歩けばちらちらと、桜の花弁が何所からともなく舞い落ちて来る

知らぬ間に景色はすっかりと春模様となっており、明るく軽い空気が道行く人々から漂うのが感じられた


季節の移り変わりに青年は今初めて気付き

己が如何に心の余裕を欠いていたかを此処にして漸く自覚した



-気付かなかった


青年は舞う淡い桃色に惹かれる様、街の外れへと向かう

楼閣も無くなり、家も疎らとなり青々とした匂いに交える淡い花咲の薫り感じる頃合い

至極、開けた景色が

桜並ぶ見事な其の場所が青年の視界へと入った


其の場では既に多くの人が御座などを敷いて桜の花へと見入って居る


心地の良い風が吹く


立ち尽くし、其れ等の光景を眺めている青年の頬に舞い散る淡く、薄く色付いた花弁がひら、と触れ

其の柔らかな心地好い感触に、青年の顔は知らず綻んだ


「-桜は、儚く。美しいものですね」

聴こえた声に、綻んだ表情は曇る


静かに、歩を踏み出すと背に感じる不快な気配は其の動きに伴う


「また、私を付けておられたのですか」

振り向く事無く青年が言うや、密やかな笑みの音が

「いいえまさか。本日は本当に偶然で-ああ、貴方が私に追われたいと御思いでしたらば御存分に」

「酷い冗談ですね」

「どうも」

喧々とした青年の声に返されるのは愉し気な声色


青年は振り返り、声の主を-報道屋の男を睨み付けた


乱れ散る淡い花弁の合間に見える男の顔は、何故だろうか酷く優しい様相であり

-まるで、愛おしい物を見つめるかの様で


「嗚呼、やはり愛らしい御顔をなさって」

男がゆっくりと、青年に歩み寄り

其の肩に軽く触れた

青年はちらと肩に触れる手を見て其の眼を男へと真っ直ぐに向けた

「馴れ馴れしく触れないで頂きたい」

「おやおや、手厳しい-本日は随分と気丈ですね」

男が肩を竦めくつりと笑った

「先日、私にあの様な目に遭わされたと云うのに」

青年は男を睨み付けたまま、肩に触れる手を叩く様にして払い除けた


男は余裕めいた笑みを湛えている


花見の和気藹々とした声が聞こえる中

二人は花吹雪の中に佇んでいた


「本日は御逃げにならぬので」

「逃げる道理がございますか」

青年が苦く眉を顰める

「貴方も此の場にて不埒な行いは致さぬでしょう」

「確かに。相違御座いませんな」

男はからからと笑った

青年は男から眼を逸らす


花見客は変わらず楽しそうで

誠に愉しそうで


「如何ですか先生、御茶でも。其処に茶屋が出て居ります、宜しければ御茶と桜餅でも御一緒に」

「御断り致します」

「桜餅は御嫌いでしたかな」

「御分りではございませんか、私が何故に御断り致すかを」

「イイエ、存じておりますとも」

「では」


青年が再び男に背を向けるや、ぽつりと声が掛かった


「例の-文壇の大家である彼の先生が御開きになられていた會から、除籍となられたのでしたかな」

去り行こうとした背に受けた言葉に、青年は振り返る事無く苦く言葉を返す

「-報道屋である貴方が御存知無い筈はないかと。何をわざわざ問うのですか」

「問うたのではございません。只、確認を致したく」

「分かりませんか」

「いいえ、貴方の其の御様子を見れば」

「ならばもう良いでしょう」

「何處へ行かれるのです」

「貴方が此処を去らぬのならば、私が」

「折角桜を愛でにいらっしゃったのでしょうに、ごゆっくりなされば宜しいのに」

「では、私から離れて頂けますか」

「ヤレ、随分と嫌われてしまったものですな」

「貴方を好きになる理由等何処にございますか」

「ございませぬかな」

「御分りでしたら、もう私に関わって下さる事の無き様」

「折角御逢い出来たのです、今少し御話など致したく」


最早、返す言葉すら不要と青年が歩を踏み出すや

其の手を男が掴んだ


即座振り向き青年が叫ぼうと云う腹で息を吸うや

其の唇に、男が人差し指を添えた


「無粋な事をなさいますな」

「……何、ですか」

「分かりませぬか、美しき文字を綴る御方でいらっしゃると云うのに」

男は青年の唇から指をそ、と離して囁いた

「御覧なさいな、周りの藹々とした姿-」


花見を喜々と満喫する人々の姿。


-叫べば、此の花咲の空気を壊してしまう事となる


青年は口を噤んだ

男は微笑み頷くと、彼の手を軽く引いた

「貴方が仰った通り、不埒な行いは致しませぬとも。少し、ほんの少し-花見がてらに御話を致しましょう、先生」


元より在ったか、此の時節だけに置かれるのか

二人は手近な緋毛氈の掛けられた縁台へと腰を下ろす


「本当に驚いた物ですよ、先生の新作への酷評を見て」

語る男を、青年は不快に見遣る

男は心底憂う様な面をしていた

「何故、あの様な美しい作に其の様な評が、と」

「世辞は必要ございません」

「世辞ではございません。何度も申しているでしょうに」

縁台の上、随分と離れ腰を下ろしている青年に、男はぐ、と身を寄せて言った

「御美しい、と-其の文章も、御尊顔も」

「貴方に其の様に言われても」

「彼の大家に言われれば、御悦びになりましたかな」

「下衆びた御言葉ですね」

「此れは失敬」


言葉は止まり、二人は桜へと視線を移す

柔らかく吹く風に淡い桜の花弁はふわり、ひらりと舞い

青年に触れ、男に触れ、そうして地面を桜の色へと染めて行く


「貴方が會を除籍となり、そして作を酷評された-其の理由は一体」

「皆まで言わねば分かりませんか」

「では、考察を口にしても宜しいですか」

「出来ましたらば、御遠慮願いたい。大凡、其れが正答でしょう」

「相分かりました」

男は頷くと一旦言葉を止め、そうしてから再び青年へと話を向けた

「-また、御仕事にお困りとなるのではございませんか」

青年は俯き、小さく首を振る

「だとしても、貴方に關係ございません」

「イエ、関係ございますとも」

青年が縁台に置いている手に、男が自身の手を重ねる

青年がばっと手を引いた


男が笑う

「貴方に御仕事を提供させて頂いても良いのですよ」

「復、私にあの様な事をなさるのでしょう」

「サテ、如何しましょうか」

クックッという喉の音を聴き、青年は男から顔を背けた


「-始めに御話致しました新聞記事程度であれば、御身体を差し出せなどとは申しませぬが」

愉快気な旋律を以て男が言う

「……其れは、本当ですか」

「エエ、口吸い程度で手を打ちましょうか」

青年が鋭く男を睨み付ける

「下衆な御言葉ですね」

「そうでしょうか。行く行く、先生は御仕事に困窮なさるでしょうに、他社で扱わぬ御方を受け入れ、持ち上げるとならば其の綴り以外にも、と考えるが道理では」

「困窮など-其の様にはならぬやもしれません」

「如何でしょう、大家に睨まれたのです。世の論は浅はかです、大家の言葉一つで美しくも立派な作が駄作と叩き落されたり、処されたりと」

青年は僅か、唇を噛み締める

男は目を細め、青年へと手を伸ばした

「御分りでしょうに。先生-私が、私めが貴方を護って差し上げましょう。御身を委ねなさいな」

「……御分りでは御座いませんか。貴方は私を、作品を評価して下さる訳ではなく、卑猥な眼でしか視ておられません。其の様な御方が幾ら仕事を与えて下さると御云いでも、其れは文士として屈辱でしか御座いません」

「まさか、まさか。私は先生の作に魅入られ-そうして、貴方という御方に魅入られたのですよ。其れだけはしかと其の胸に置いて下さいな」


再び、青年に触れる男の手

青年は其れを払い、頭を振った


「必要御座いません-貴方から仕事など」

「オヤ、そうですか」

「ええ、貴方は仰ったでは御座いませんか。文士として敷く、と-私を嬲り者にすると。其の様な御方から、仕事など」

喧々とした青年の言葉に男は小さく肩を竦めた

「分かりました、其れでは是にて失礼致しましょうか」


男はゆっくりと縁台から立ち上がると、ふっと思い出したかの様に言った


「アア、そうだ。先生、御存知ですか、あの大家に可愛がられていた文士の事を」

「ええ、彼が何か」

「私はつい近く、彼にも仕事を提供致しましたよ」

「そうですか」

「新作の発刊を-そうして、大々的に広告を出す、とね」

「……其れで、何だと言うのです。私が羨むとでも」

「イイエ、彼は本当に報酬に見合う良き仕事をして下さったと思いましてね」


男は青年に背を向けたまま、言った


「-貴方を、陥れる為に、実に良き御仕事を」

「-」


青年はハッと、息を呑んだ

漸く、全てを解した


男はゆっくりと振り返り、悪辣とした笑みを-

宛ら、蛇の様な笑みを浮かべて、言った

「申し上げたでしょうに『逃がしません』と」


驚愕に、青年の身体は強張る

強張る儘に只、男の背が至極遠く、消え行くのを見送り

青年は只、縁台に座ったままで項垂れた


桜の花弁が淡い香りと共に優雅に舞い散り

優しく辺りを彩り、花見の皆々を暖かく、愉しませる


「-オヤ、御兄さん。どうしたね、顔が真っ青だよ」

花見客の一人が青年を声を掛ける

青年は首を横に振った

「大丈夫です、何でもございません」

「そうかね。しかし随分と元気が無い-」

「本当に、本当に大丈夫ですから」


青年の目の前に、桜餅が差し出された


「此れは」

青年が桜餅と、其れを差し出す相手を見遣ると

相手は何とも快活に笑って見せた

「何があったか知らねえが、折角の桜の下だ。其んな顔をしてちゃあ楽しくねえだろうに、サア、ほら取りな」


青年は遠慮がちに桜餅を手に取る


相手はポン、ポンと青年の肩を叩いた


「甘い物でも食って、そうして花を見て-ナア、そうすりゃあチイとは気分も晴れるってモンだ」

「はい……」

「茶が要るなら持って来るぞ。嗚呼、酒が好いなら其れでも良い、好きな物を言いな」

「いえ、其れは……御気遣い頂き申し訳ございません」

「何を他人行儀な。ホレホレ、桜は楽しまなきゃ損だ。桜を見て、笑って-」

「はい」


促され、青年は桜を見上げた


桜の花弁がちらりちらりと降り注ぐ


青年の頬に一つ、二つと其れ等が張り付き、白い顔を彩って行った

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