第13話 絡みつく蛇

報道屋の下から逃げ出し、家に飛び込んだ時には

何があったのかと祖母と母に心配され、問われたものである


同じく友人にも、泣いたのかと、心配を掛けたものである

心の震えをどうにかしようと我儘に、帰ろうとする彼を引き止めるなどしてしまったものである

理由も話さずに


誰にも、話せる訳がない

あの様な事


唇に、肌に

男の感触を未だ覚えている


仕事の為に筆を走らせる中ふっと、其れを思い出しては

酷い嫌悪感に襲われるなどする


手元不如意

変わらず、口に糊する様な生活は続いている


自分独りであったなら、まだ耐えられただろうか

しかし、祖母と母を其の背に負っている


其の心の圧は、至極大きい




「先生」

夜道にて、既にもう振り向かずとも分かり

そして今や嫌悪さえ覚える声が青年の背に掛かる


青年は其の言葉を聞こえなかった物とし、急ぎ歩いた


「先生、御待ち下さい。先日の御仕事の話の続きを」

声の主-報道屋の男は、青年の背を追う

青年は決して振り向かず、冷たく声を返した

「必要ございません」

「しかし、働き口が御入り用なのでしょう」

「貴方から頂きたくはございません」

「何故です、私ならば貴方へ最上の条件にて御仕事を提供させて頂けると云うのに」

「御理解出来ぬ、茶釜の様な頭を御持ちですか」

付き纏う男に苛立ちも露と、青年が振り返り

何時に無く乱暴な言葉を男へと向けた

「あの様な、気色の悪い-変質的な事をなさる方から仕事など要りません」

睨む青年の顔を見遣り、男は笑む

「ですが、貴方はあの時、私を受け入れかけたではありませんか」

ぐ、と青年が言葉を呑む

「其れは」

「新書を出しても良い、何なら全集でもと申し上げたら、貴方は大人しくして居たではありませんか」

「……」

「私の甘言に、其の身体を差し出そうとしたではありませんか」

青年は言葉を返さず男に背を向け、再び歩き始めた

その背を、男が追う

「先生」

青年は何も答えず、足早になる

途端、男が其の腕を掴み捕え、青年の身体を自分の方へと強く引く

青年は引かれるままに後方へ倒れ

男の腕の中へと其の身を預けた

「誰-」

声を上げようとする青年の口を男の手が塞ぎ、男は片腕で青年を抱き締めた


掌の下で、青年が懸命に声を出そうとする

「先生」

身動ぐ青年を強く抱き、男は耳元に囁いた

「御嫌ですか、先生」

囁き、青年の耳を柔らかく食む

男の腕の中で、青年が震えた


暗い夜道には、誰一人通らず

青年は只、男に声も身体も封じられたままで


「ネエ先生、私にとって貴方は高嶺の花でした。貴方の美しい文章に焦がれ、御本人を知ってからは益々其の思いは募ったものです」

気狂いの様に青年は頭を振り、男の掌から、腕から逃れようとする

「同時に、貴方が憎くもございました。作品が世に出るや高く評価され、若くして文壇へ上り、大衆の心を惹き付けた貴方が」

男の手の力は強く、青年が幾らもがいても動かず

「陽の当らぬ場所で、私が作家として如何程に苦心致した事か」

口を覆う掌に噛み付こうとするも、しかと抑えられた口は、唇は動かせず

青年は只、意味の無い声を漏らす

「其の様な思いが、想いが泥の様に混濁し、何時しか私は貴方に異常な気持ちを抱く様になったのです。貴方と云う美しい青年を手に入れ-思うが儘とする欲を」

男の腕の中で青年がカタカタと小刻みに震える

男は薄ら笑い、青年の耳に再び唇を触れさせ、舌先を滑らせた

「しかし先生。貴方と対面して暫くは、もっと貴方に優しく触れたいものだと思うていたのですよ-貴方があの、芸姑を囲うまでは」

耳孔を蹂躙する様な男の囁きと濡れた感触に、青年は只々体を震わせた

「女の味を知って足繁く女を求めに通う貴方は何とも卑しく-嗚呼、あの様な先生の御姿は本当に見たくなかった……貴方は美しく、清らかな儘で居て頂きたくあった」

男の舌から逃れようと青年は再び顔を動かそうとするも、口を塞ぐ大きな手が其れを許さない

「劣情を知り得た體であればもはや、壊れ物と扱う必要も感じません。私は只、己の欲を充たすだけ……此の儘、貴方の御召し物を引き千切り、無体な行いを致しても其れは成せるのでしょうが、其れでは私の心は充たされません」

囁きを続け、青年を抱く腕の先で、手先で男は青年の身体を撫ぜた

「暴漢としてではなく、文士として貴方を『汚し』たかったのです、私は-文士として貴方より上となり、思うままに、好い様に貴方を嬲り者にしてやりたかった」

漸く、男が青年から手を離す

青年は其の場に座り込み、只震えて居た

「残念ですよ、先生」

男は震える青年の前に屈み込み、其の顎を掴み己の方を向かせる

「あの時、私に抱かれて下さったならば。全てはもう、終わっていたというのに」

「……手を、御離し、下さい」

かち、と小さな歯の音混じりの青年の声

「先生、何故貴方に全てを御話致したか、御分りですか」

「……分かり、ません」

「貴方を逃さぬと云う宣言ですよ」

「……どういう、意味なのです」

「貴方はもう、私に近付かぬでしょう」

「当たり前です」

「しかし何時か、貴方自ら私の元を再び訪れる事となる筈です」

「其の様な事は、絶対に」

「でしょうな、其の様に御思いでしょう。此れ程に物騒な話を打ち明けたのですから……貴方は今、相当に恐怖を抱いていらっしゃるでしょうに」

「二度と、貴方と相見える事などございません」

「ええ、ええ。其の反応が良いのです、貴方は私を嫌悪し、恐れながらに-何時か、私の元へとやって来る」

「決して、ありません」

「申した筈です、『逃さぬ』と」

「ですから、決して-」

男がぐい、と青年の顎を引き寄せ、唇を重ねた

「-ッ」

鋭い痛みを覚え、男は直ぐに唇を離す

「此れは、なかなか手厳しい」

クックッと笑いながら男は自身の口許を拭い、立ち上がった

「さようなら、先生-」

別れの挨拶と、片手を上げて男は背を向け、去って行く

「決して、逃がしませんよ」


暗い夜道

青年は地面に座り込んだまま、じっと項垂れていた


ぽつぽつと、砂地に雫が落ちる


青年は一人、長い長い間

其の儘で居た

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