第14話 快哉

人の噂も七十五日

其の諺通り、青年の芸姑囲いの話題はもうすっかり世間から消え

其れに併せる様、青年の仕事も少しずつ増えて来た


噂が消えたが故、だけではない

青年の日々の努力が遂に実を結んだのである


生活もどうにか立て直し、再び祖母と母にも窮屈な思いをさせる事無く暮らせる様になった


表面上は、順風満帆と言えよう


だが、青年の胸中には黒い影が付き纏っていた

-あの、夜からずっと


『逃がさない』

あの夜、男はそう言った


文士として、青年を敷くのだとも-


男は云った『何時か私の元を再び訪れる』と

青年は彼の人物に再び近付こうとは決して思わない、思えない

逃がさぬとは如何な意味であるのか


分からぬ、言葉

其れは見えぬ縄に常に心と體が縛り付けられているかの様で


最後に彼の男を見た時-

其の悪辣とした笑顔が、蛇の様に見えたものだ


一夜を思い出しては青年は一人震える


誰かに相談出来たなら、此の気持ちも少しは晴れるのかもしれないが

誰にも、云えない


せめての気晴らし、と昨日購入した雑誌を開き、読み始める

雑誌には連載小説や評論が載っており

其の中には、文壇の大家に賞賛される友人の記事もあった


(-嗚呼、やはり君は凄いね)

記事を見つめながら、青年は寂しく微笑み

そうっと、本を閉じた


そして、一人先日の辛い思い出を掻き消しながらに

原稿用紙へ筆を走らせ続けた


暗い気持ちを心の片隅に抱え、毎日を過ごす


そんな或る日

思い掛けない手紙が、青年の元へと届いた




「やあ、待たせたね」

柔らかな、優しい笑みを湛えて熟年の男性が部屋へと入って来る

文壇の大家の一人であり、あの雑誌にて友人への賞賛を綴っていた人物である


「いいえ、此方こそ。御呼び頂き有難うございます」

「そう固くならなくて良いよ、君とは初対面でも無いだろうに」

「はい」

青年は緊張の儘、大家へ頭を下げた


手紙は、大家からの物であったのだ

青年と会って話がしたい、と云う誘いの物である


「近頃、執筆活動の方はどうかね」

「以前程ではございませんが、困窮していた頃より余程御仕事は増えました」

「ああ、其れは何よりだ。君が手元不如意であると文壇で噂を聞いて、少し心配をしていたよ」

「はい。ですが今はもう、問題ございません」

「うん、良かった。処で」

「はい」

「或る雑誌社に、君を紹介しようと思うのだがね」

大家から雑誌社の名を聞いて、青年は困った様に眉を下げる

「如何したね」

「其方には以前、仕事を頂きに伺ったのですが、断られてしまいましたので」

「ああ、ああ、問題無いよ。私が一筆紹介状を書くから、其れを持って行きなさい」

「宜しいのですか」

「うむ。けれど其れには一つばかりの条件があるんだ」

ビクリ、と青年が震え、身を堅くする

「む、どうしたね」

「いえ-其れで、条件とは」

「うん」

大家が薄く笑って、青年に顔を近付ける

青年は思わず反射的に大きく身を退いた

「ああ、これこれ。其れ程驚かなくとも」

「申し訳ございません、其れで」

「新たな試みにね、君にも加わって欲しいんだよ」

「私が、先生の試みに?」

「そうだ、此れはちょっとした-云わば、芸術性の改革という処かな」

「其の様な大きな事に、私などが加わって宜しいのですか」

「無論だとも。君の様に美しい文章を綴る文士に加わってくれたならば有難い物だよ-それで、どうだね。加わってくれるかい」

「謹んで御受け致します」

青年は深く深く、頭を下げた

「いや、しかし良かった。此の試みの話をしている時に君の名が出て、そうだ。と思ったんだ」

「私の名前が、出たのですか」

「うん、随分と君を推していてね」

「何方が」

「ああ」

推薦した人物の名を、大家の口から聞き

青年ははっと驚いた



大家より紹介状を認めて貰い

そうして雑誌社を訪問して、無事に新たな仕事を-小説連載の口を手に入れ

青年は喜々と、久方振りに晴れやかな気持ちで家へと戻った



其の日の夜

コツリ、と窓に小石が当たる音がした


「今晩は」

「よう、今日は元気そうだな」

「うん。上がってよ」

「おう」

馴染みの所作で友人が窓から部屋へと入って来る

「呑もうよ」

腰を落ち着けた友人に、青年が酒の瓶を取り出して見せた

「何だい、随分良い酒じゃないか。何か目出度い事でもあったのか」

「うん、大家に呼ばれてね。僕に新しい試みに参加して欲しいと云ってくれてね。雑誌社への紹介状も書いて貰ったんだ」

「へえ、そいつは良かったな」

「君だろ」

「何がだい」

「君が僕を推薦してくれたと聞いたよ」

「さあ、どうだったかな」

「有難う」

友人は素知らぬ顔で、自らもトンビのマント下から酒の瓶を取り出した

「ま、祝いだ、祝い酒。呑もうぜ」

「二本も、呑み切れないんじゃあ」

「其れこそ朝まで呑めば良いじゃねえか」

「今日は御祖母様に見付かると、心配しないんだね」

「見付かっても云ってやるさ『祝いの席の邪魔をしないでくれ』ってな」

友人は明るく笑って云う

青年も笑った

久方振りに、心から、笑った


和気藹々、酒を傾け

二人は楽しく語り合った

-無論、祖母や母には気付かれぬ様に或る程度の静けさを保ちながらに


「羨ましいと思ったよ」

「何をだい」

「君が、大家から賞賛の文を贈られているのを見てね」

「其れなら、俺は随分と前からお前が羨ましかったよ」

「どうして」

「早々と文壇に上がって、本なんて其れこそ飛ぶ様に売れちまって」

「でも、今は」

「此れからまた、そうなるだろ。大家との繋がりも出来たんだ」

「君の御蔭でね」

「俺は-只少しばかり、お前の話をしただけだ、只、其れだけだ」

「其れが良かったんだよ、有難う」

「何だい、むず痒いナァ。ほら、呑むぞ」


深く、心地好く酒に浸り

酔いに任せ青年がゴロリと床に横になる

続いて友人も


気持ち良くうとうと微睡み、暫く

唇に柔らかい感触を覚え、青年は目を開けた


近く、友人の顔が在る


「何を、やっているんだい」

青年が訊ねると友人は遠慮がちな笑みを以て答えた

「-多分、酔っているんだ」

「そう」

畳に身を横たえたままで、青年が頷き

友人の方へと両手を伸ばした


「そうだね、酔っているんだ」


友人の首の後ろに腕を回し

青年は、友人を己の方へと抱き寄せた





何故であろう、と青年は友人の腕の中で思う

共に蒲団へ入り、身を寄せくっつけ眠る事も、何故に平気なのであろうか、と


彼の蛇の様な報道屋に触れられる事には只の嫌悪しか生まれなかったと云うのに


-嗚呼、もしかして

口にしてはいけない考えが、青年の頭を過る


する、と友人の手が青年の背中を撫でた

ふと友人を見ると、彼も己の方を真っ直ぐに見つめて居た


「眠れないか」

「否、眠たいさ。ただ」

「ただ、何だい」

「考えていたんだ」

「何をだい」

「言えない」

「何だい、此の前から其ればっかりだナア」

「うん、其れは御免」

「まあ、良いよ」

友人がポンポンと青年の背中を叩く

「ほれ、御休みだ」

「御休み-ああ、待って」

「どうした」

「もう少しだけ-」

青年何かを云い掛けて、一旦口を閉ざす

「否、やっぱり止めておくよ」

「またか」

「御免よ、御休み」

「御休み」



-もう少しだけ、酔っている事にしておいて欲しい


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