蛇ノ参
(彼の容態は、如何なのだろうか)
あれ以来、見舞いに行く事も出来ず
日々只、友人の身を案じるばかりであり
悶々とした心持を抱えた儘に青年は筆を走らせて居た
(桜)
友人への心配を抱え乍も青年の其の綴りには、其の文章には迷いは無かった
(約束をしたのだから)
来年の、桜の季節には凡て片付いて居るだろうと
其の頃には亦、二人文士として並んで居る筈なのだからと
だから
二人で、桜を見に行こう、と-
友人は、病気を治し
自分は、文士として再び其の名を、綴りを馳せる
其うする事で-
二人は、約束を果たす事が出来る
ならば、今の自分が出来る事は
約束を果たすべく行う事は
(一緒に、桜を見ようと。約束をしたのだから)
今、手元に在る仕事、微々たる執筆業に
青年は全力で取り組んだ
「未だ、載っては居ないか」
友人は面持ち苦く、手にした新聞を軽く叩いた
「如何致しました」
傍らに居た後輩が小首を傾げる
友人はじ、と後輩を見遣り言った
「確か俺はお前に口述を筆記させたが」
後輩が頷く
「エエ、一言一句、違い無く記述を致しました」
「其れを、新聞社へと送る様にと」
「無論、送りました-イエ、持ち込んだのです」
「持ち込んだ。何件かの社を周ったのか」
「イイエ、持ち込んだ際に居らした他社の御方が、平素先生の原稿に支払われる値よりも更に高額で-何ならば倍の値で買い取りたいと」
「其ういう理由で、俺が指示した新聞屋には原稿を渡さなかったのか」
「はい-此の先を考え其の様に致したのです」
「此の先、とは」
「……此の入院、何時まで続くかは未だ分かりません……何かと御入り様でしょう」
「…………ああ、其う、だな」
言い辛そうな後輩の言葉に友人は深く頷くと、ひそと溜息を漏らして自身の額に手を添えた
刹那と、友人の顔が酷く憂う
其して、後輩の面持ちも亦
「其れで、何処の新聞社が俺の原稿を買ったのだ」
「ええ、其れは」
後輩が新聞社の名を口にするや、友人は眉を顰めた
「お前、其処の社は」
「-先生が御嫌いな、報道屋の方が居られる社です」
「よもや彼奴が、原稿を買い取ったのか」
「はい。彼の御方が原稿料を私に御聞きになられて、其うして」
「……其うか」
友人は頷き、再び静かに深く息を吐く
「申し訳御座いません、先生。私は復、先生の御嫌な事を致しましたか」
「否、其うでは無いさ。お前は俺の事を思うてくれたのだろうに」
「ええ、はい」
「感謝こそすれ、責める腹など無いさ」
「先生」
「有難うな」
短い礼の言葉
後輩は深々と頭を下げて、病室から出て行った
其れから少しばかり時間が経った頃
「御加減は如何ですか」
扉を開けると恭しく一礼し、報道屋の男が病室へと入って来た
「ああ、先生。本日は顔色が宜しい様で」
「モルヒネが効いてるんだろうよ」
友人は男を一瞥して其う答えると、わざとと分かる程、あからさまに男から視線を背けた
男は其の様な所作を気に留めぬ様子で椅子に腰掛け、そうっと友人の掛け布団の上-脚であろう膨らみの在る其処へ紙の袋を置く
「何だい、此りゃア」
「金飩ですよ。御好きだと伺いましたので」
「其いつはどうも」
「イエイエどう致しまして-ああ、併し。再び斯うして御見舞い出来るとは思うて居りませんでしたよ。二度と面通り叶わぬ様な御指示を皆様に与えられて居るかと」
「何故其う思ったんだい」
「エエ、先日-」
「嗚呼、矢張り言うな。此の紙袋をアンタの面にぶつけちまいそうだ」
男はふ、と小さく笑い口を閉ざす
友人は早速、と心に燻る話題を口にした
「あんた、俺の原稿を随分高値で買ったらしいな」
「-ああ、あの御方に聞かれたのですか。確かに、持ち込みに為られた社の原稿料の倍額を御支払い致しましたが」
「随分な破格で買い上げてくれた物だな。其れで、魂胆は。如何云う腹積もりだい」
「オヤマア、魂胆だなどと。何、凡て善意に依る物ですが」
「あんたが一度として善意で動いた事が有るかネェ」
「おや、冷たき御言葉で。此度は善意も善意ですとも、其れだけは信用して頂きたいですな」
友人は即座何事かを返そうとするが音が言葉と成り得る前に一度口を閉ざし
其うしてふっと息をつくと、苦味浮かぶ面持ちをしながら言葉を紡いだ
「高値で買ってくれた事には感謝するさ。其れで、あれをアンタの所の新聞に載せるのかい」
「まさか、掲載する訳には参りませぬ」
友人の眉間に皺が寄る
「そんなら何で、原稿を買い上げた」
「先生の御言葉を、私めの処にて留めるべく」
「何故其んな必要がある。お前、矢張りあいつを追い詰める腹なんじゃあねえか」
「いいえ、いいえ先生。何もかもを其処へと御繋げなさりませぬ様」
ふつ、と怒り膨らませる様相の友人の肩に触れ
男は静かに頭を振ると、優しく-
至って優しく友人を見遣り男は言った
「先に新聞へと上がりました彼の人に対する批難の綴り……先生はあれに対する反論を綴った訳ですが。考えてもみなさいな、先生の後輩たる御方への批難、批判を公に致す-先生の門下とも云える皆々様の綴りに対する其の御言葉。世は何と云うでしょう」
「問題あるまいよ。俺の門下たると思われて居るのならば、其れを俺が咎め何が悪いと云うんだ」
「只の咎めでは御座いませんでしょうに-拝読致す限りでは、あれではまるで彼の人の擁護。世にさんざに叩かれた彼の青年を赤子を護り包む様な綴り-同じ文學結社たる皆よりも彼の人を選んだかの様な其の綴り。貴方が其れを世に出しても構わぬと申しましても、世は貴方様を如何に思われるか」
友人の顔は刹那と強張るが
苦く、ゆるりと頭を振る
「其れでも、何を言われたとしても。あいつの尊厳を護れるのであれば」
「あらぬ疑いを掛けられ、貴方ごと、地に堕ちたとしても」
「-其れでも」
「何と愚鈍。愚かなる選択なのでしょう-仁義を欠いた物とはなりませぬか。かように彼の人を護りたいと仰るのであれば、件の記事を上げた皆様に訂正文を出す様にと仰えば良ろしいでは御座いませんか」
「-奴等は、首を縦に振らねえ」
「アア、無理も御座いませんな。何しろ件の彼は仁義を欠いた人物ですから」
「おい」
「失言でしたかな、申し訳無い。併し私は何ら偽りを口にしたとは思えませぬが」
「……」
「先生、此度の反論文は、貴方が大家へ対して向けた其れとは又、違う意味を持った-大変に危険な、文學結社の皆々様の結束に亀裂を及ぼす危険性さえ孕んだ其れと成り得る物です。……大家に次ぐ寵児たる貴方が其れを御理解出来ぬとは思えませぬ」
「だが、併し-」
友人は男に言葉を返そうと口を開き、口を閉ざす
其の反応に男は瞳を細める
「-先生、如何か。如何か今は、御静かに」
優しく言葉を紡ぎ、男は友人の背を撫ぜる
「今は、見守りの刻です-先生が表立ち、彼の人を擁護したとして、好天致す事は御座いません。ただ、只、彼の敵を作るだけでしょうに、貴方様の立場を悪くするだけでしょうに」
「併し……」
「先生。私めは先生を思い、申し上げて居るので御座います」
「……」
友人は溜まった息を吐き出し、其うしてかく、と布団に額を押し付ける
「先生」
男が声を掛けるも、友人は即座言葉を返す事は無い
暫し、震え
腹部を抑え、友人は絞る様に男へ声を向けた
「……悪い。医者を、呼んでくれねえか」
「エエ、急ぎ呼んで参りましょう。如何か御大事に」
男は-蝮は
友人を唯、労わる様に撫で擦り
彼の身を横たえ、寝かせて席を立ち
薄く笑みを浮かべ、病室を後にした。
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