第20話 止まぬ疑念

大家の酷評に対する友人の反論が上がり

そして大家と友人が対談を致して数日を経た頃-


大衆の間でも、文壇に於いても其の反論はちょっとした騒ぎとなり

文士の幾人かは友人の反論に対して、更なる反論や賛同の論を綴り


今一度、青年の件の作品に向けて良くも悪くも注目が集まる事となった


漸く新聞を目に通す気になった頃合い、青年は其れを知り

只、只驚きの色を浮かべた


(ああ-彼、がまた)


友人が亦、自分を救ってくれた-護ってくれた


此れで、また自分は少しずつ、文士としての生業を取り戻す事が出来るのではあるまいか。

其う薄々と思いながらも、全く安堵は出来なかった


-彼奴は、僕が上向けば、また


青年の心に深く、傷を刻み付けた彼の蛇の様な報道屋の男

安穏とした一時が訪れるや必ずと云って良い程に、彼の男が暗躍をし

青年の無防備な喉首に噛み付いて、其して泥の底へと叩き落す


(何もかもは彼奴の仕業で-おそらくは、違い無くあの、芸姑の時の記事も)


青年は、不安で堪らなかった

-もう、口に糊する程度の生活に留まる方が良いのではと

いっそ、文士としての自分を手放した方が良いのではないかと云う思いさえ、ふつふつと沸き起こり


青年は、差した一筋の光明に一切の安堵を覚える事も出来ずに居た


殆ど黒の色見の無い原稿用紙、殆ど手に付かぬ執筆



白の世界と戦おうとする中、コツリ、コツリと遠慮がちな窓の音が聞こえ

見れば窓の外、少し離れた場所に友人が居る


本日は、小石を窓にぶつけて合図を致したらしい


青年はそっと窓を開けて友人を迎え入れる

「よう-調子はどうだい」

友人は何時もの様、青年を安心させるかの様な明るい笑みを以て

部屋の中へと入って来た


「驚いたよ。反論文を出してくれていたんだね」

青年が其う言うや、友人は遠慮ある笑いを以て頬を掻く

「ああ、まあなあ」

「ありがとう」

「別に……俺は只、あれは大家にあるまじき批評だと思ったんでな、それだけさ」

「其んな風に思ってくれたのは、僕にとっても本当に有り難い事だよ」

「嗚呼、もういいや、むず痒い。ホラ、呑むぞ」

ドスン、と

友人がトンビのマント下から酒瓶を取り出し畳に置いた


青年は微笑み頷いた

「うん」


湯呑を二つ並べて並々酒を注ぎ入れ

小さく乾杯を致して共に口を付ける

「どうした」

「何がだい」

「何やら元気がねえ」

「そんな事は無いよ」

「もう、心配事は無い筈だぞ。後はまた、上向くだけだ」

「うん……」

「何だ、歯切れが悪りいナア」

「御免」

「景気悪い顔してたら気運も逃げちまうぞ、ホレ」

「うん」


不安を見透かされていたか、不安が顔に出てしまっていたか。

青年は、友人を心配させまいと出来得る限りの好き笑みを湛えて頷いた



「もう、桜は皆散ってしまったね」

「そうだな。お前、花見には行ったかい」

「うん、一人でね-もう少しゆっくり見ておけば良かったよ……君は?」

「ああ、俺は……連中と一緒に行ったよ」

「連中って……ああ」


誰と行ったのかを察し、青年は頷く


「-俺は、お前も誘いたかったんだ」

ぽつりと友人が呟き言った言葉に

青年は微笑んで小さく首を振った

「でも、無理だったんだろう」

「……ああ」

「分かるよ、駄目だよ。僕は皆を裏切った様な物だから」

「其んな事言うんじゃねえ」

「でも、本当だろう」

「莫迦、言うな。二度と言うな」

「……でも」

俯く青年の背を友人の手が、強くバンと叩いた

青年が友人を見遣ると、友人は真剣な面持ちで青年を見ている

「元は絆繋いだ仲なんだ、何時かは皆、分かってくれる。お前が人道に違った事をした訳じゃあねえって-事情も皆々汲んで、また元の絆が繋げると、俺は思ってる」

「……そう、成ると良いな」

「成るさ」

「うん」

強く語る友人に青年は儚く微笑んだ



其れからは此れ迄通り

酒を酌み交わしては他愛ない言葉を交わして平穏に時を過ごす


其んな中、友人が密やかにそうっと自らの上腹を撫ぜた


「どうしたんだい」

目敏く所作に気付いた青年が、心配気に問う

「胃の腑でも痛むのかい」

友人は小さく頷いた

「ん……ちょいとな。胃が荒れているのかもナァ」

「じゃあ、酒はもう止めておいた方が良いのかもしれないよ」

「ああ、そうかもしれねえな……最近、呑みの席が多かったからな、少々控えるか」

「え、其んなに呑んでいるのかい」

「誘われたら、断れねえしな」

「そう、仕事関係なのかい」

「マア、それに近いと言や近いか」

「近い?」

「ああ、報道屋-新聞社の人間がよく誘うんでな」


『報道屋』の一言に、青年の表情がふっと強張る


「どうした、恐い顔して」

「其れは、何て報道屋だい-何て、新聞社の人なんだい」

「ああ」


友人の口が報道屋の名を紡ぐや

青年の頭の中に過去の記憶が-嫌悪や恐怖ばかりの其れが甦る


あの、男の厭らしい笑みも、手の感触も、唇の感触も


友人は其んな青年の頭の内を、胸の内を知らぬままに明るく話す

「何だろうナァ、特に仕事の依頼に近い話は出てねえんだよな。酒と雑談が好きなのかねえ」


青年の頭の中、男が笑う


-亦、彼奴が


ぐらり、と青年の身体が揺れた


「おい、大丈夫か」

青年の身体を支えようと、友人が肩に触れる


青年は震えていた


「どうしたんだ、急に。具合が悪かったか」

「どうして」

「何」

「どうして、其んな奴と」

声さえも震わせて、青年が友人を弱い眼で見る


友人は只、心配気に青年を見て彼の身体をそっと揺すった

「おい、どうしたよ本当に。何を言ってるんだ」


只、只身を案じる様な友人の姿、面

変わらぬ友人の優しい其の面


其れはあの人好きのする笑顔の、大家に可愛がられていた文士の其れにも重なり


-よもや、嗚呼まさか


ぐるぐる、ぐるぐると脳裏を駆け巡る過去の出来事


-嗚呼、きっと彼もあの時の様に。僕が、大家に対する暴言を吐いたと責を問われた時の様に


また、追い詰められるのだ

安穏とした此の刻から、如何な理由かで、また叩き落とされるのだ


-彼の、男の何らかの策に依り


「おい?」

友人が酷く心配気に青年の腕に、背に触れる


青年は其の手を払い、友人を突き飛ばした


「っ……何だよ」

「君も……同じ、なんだ……」

「何がだ、何を言ってるんだよ」

「君も、彼奴に何かを言われて、僕を」

「おい」

「僕を、陥れようとしているんだろう……!」


険しくなる友人の表情

潤む眼で友人を睨む青年


「……何で、其う思うんだお前は」

声色低く友人が言う

青年は震え、俯く

「だって……君は、彼奴と繋がっているんじゃないか……」

「彼奴?」

「彼奴……彼の、報道屋と……!君も僕を亦、陥れる為に……!」

「……」

友人は口を閉ざす

其の眼は只、真摯に青年を見ていた


青年は震えて、声を搾り出す

「信じていたのに……!どうして……あんな奴……と……!」

「……もう、俺は信じられないか」

静かに、友人が問いを向ける

青年は俯いたまま強く、強く幾度も、幾度も頭を振った

頭を抱え、酷く苦悩する様に頭を振った

「だって……!だって、君は彼奴と……」

「……」


ふう、と友人は大きな溜息をつくと立ち上がり

青年に背を向けた


「-分かったよ」

一言残すと、友人は窓を開け、さっさと外へと出て行き

其の儘立ち去った


一度も青年を振り返り見る事も無く



青年は自分の頭を抱えた儘

衝動的に髪を毟り、其うして畳に伏した


-自分の事を助けてくれた、友人に、自分は-


彼だけは、如何あっても彼だけは自分の味方であるのだと

其う思っていた筈なのに


(けれど)


無二の親友である彼へ疑念を抱く程に、男が自分に及ぼした影響は大きく


(僕は、如何したら)


胸を突く罪悪感、全身を蝕む疑念


分からない、何も分からない

何もかもから逃れたいという衝動の儘、青年は畳に伏し、泣いた





友人が病に倒れ、其うして入院致し筆を止めたとの報を聞いたのは

其れから暫く経ってからの事であった。





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