第19話 魔族カイン
木々の隙間から、にょろにょろと地を這うようにしてそれは現れた。
てっきり獣を想像していたが、なるほどこれも確かにモンスターだ。頭は二股に分かれ、それぞれ獰猛な牙が口元から覗いている。伸びている舌は、先が槍の穂先のようにとがっていた。胴体はといえば、その全長は優に数メートルはありそう。太さは大人の人間一人を楽に丸呑みできるくらい。鱗がてかてかと妖しく光っている。
これでいてアレンの話によれば、スピードもあるというのだから、手強いモンスターといえる。距離を保ったまま、敵の攻撃に備える。気を抜いたら、一発でもっていかれる恐れすらある。なにせ、今の俺はただの一魔族にしか過ぎないのだから。
「アレン、こいつか?」
「……うん」
さっと彼は俺の背中の後ろに回った。そのまま身体にしがみついてきた。小さな身体が震えているのが伝わってくる。
向こうも、どうやらこちらを警戒しているらしい。現れた矢先ぴたりと動きを止め、その縦長の瞳だけをせわしなく動かしている。
じわじわと重たい緊張感がお互いの間に広がっていく。一つ息を呑んだ。その音が思いの外大きくて、後ろにいる少年が感じ取ってしまうと思えた。そっと、俺は彼の方に腕を回した。
「怖いよな。でも大丈夫だ。俺に任せてくれ」
「で、でも、カインさん、こいつ意外と手強いよ?」
「俺は、お前の魔法の師匠だぞ。色々な魔法を知ってるさ」
彼を勇気づけるように、たっぷりともったいつけて話す。少しだけ、背中越しに伝わってくる振動が弱まった気がした。
そう、もし全てが万全なら、この程度のモンスター大したことはない。これよりももっと巨大で、さらに翼の生えた蛇だって相手にしてきた。そもそも俺はあの魔王を倒したさえもした。
しかし、正直な話をすれば、今絶対の自信を持っているわけではなかった。確かに、火炎魔法は使える。火球を最大出力でも放てるだろう。でもそれだけだ。果たして、致命的な一撃となるかどうか。火炎魔法はそこまで高等なものではない。
こいつを倒すためにはほかの魔法が必要だ。しかし、俺はそれを使えるのかどうか。試したことはない。きっかけがなかった。そもそも、差し迫った危険というのが今日までの間一度もなかった。すっかり俺は、最近の穏やかな生活に慣れきってしまっていた。
それでも、やらざるを得ない。この子どもだけは守る。無事に村に帰してやらなければ。覚悟はとっくの昔に決まっている。そこに躊躇いはない。
「アレン、お前は今のうちに逃げるんだ」
「そんな、カインさんを置いてなんて――」
「いいからっ! みんな、心配してる。ボルテスたちだって、お母さんだって! 早く行って安心させてやるんだ」
後ろ手に、俺は彼の肩を少し強く押した。
こちらの妙な気配でも察したか、魔物はその頭部を大きくもたげた。威嚇するような唸り声を出し、双頭が舌を小刻みにちらつかせる。
「早く!」
「……わかった」
「きっと、救助隊がどこかをうろついているはずだ。そこまで頑張って走るんだ」
「おにいちゃん……死なないでね」
ずっと感じていた温もりが、途端に離れて行った。草木を踏みしめる音が、早いペースで耳に届く。
それと、モンスターが動き出したのはほぼ同時のことだった。得物を逃すまいと、ぐっとその身体を後ろに引いた。そしてその反動を利用して、勢いよく頭を突き出してきた。
俺はぐっと前方に腕を伸ばす。掌は敵に向けたまま。魔力の練り上げは、もう済んでいる。後は一つ、言霊を口にすれば、魔法は起こる。俺が知る限りで、一番強力なもの。ダメだったら、火炎魔法に切り替えるだけだ。
「
掌の中心にエネルギーの奔流を感じる。何かの形を成していくのが、はっきりとわかる。
成功だ。この身体でも培った数々の魔法は使えるんだ。確かな手応えと共に、魔法を発現する。
やがて放たれたのは、太い一筋の雷。轟音が鳴り響き、バチバチと何かがはじけるような音がこだまする。
それは容易く迫りくる大蛇の身体を飲み込んだ。そして。どこまでも真直ぐ林の中を突き抜けて行く。射程内の木々は、問答無用に倒れていく。それは、破壊的な一撃だった。
その光が消え失せる頃には、目の前の見通しはかなり良くなっていた。あの魔物は、微塵にもその痕跡を残していない。
「……やりすぎたかもな」
眼前に広がる光景に、俺は思わず苦い顔で首を振った。太い円柱状に、ぽっかりと林に穴が空いている。もう少し、出力を弱めた方がよかったかもしれない。
あの領主の不機嫌そうな顔が浮かんだ。これを目撃した時、何を言われることやら。助かるために必死だったんだから、大目に見て欲しい。
とりあえず、目下の脅威は去った。後やるべきことは一つだけ。空を見上げたところで、薄い雲が広がっているばかり。決して、雨雲とは呼べるものではない。
だから俺は、空に向けてぐっと両手を突き出した。この身体に残る全ての魔力を練り上げる。山中に今も広がる炎、それを消化して初めて俺の仕事は終わりだといえる。
「
水に変換した魔力をぐっと空に注ぎ込み続ける。全ての魔力を使い切った時、辺り一帯に雨が降ってきた。雨粒は大きく、その勢いは激しい。打ちつけてくる音が、弾けるように響く。
きっと山全体を覆えたはずだろう。先に行ったカインや、救助隊の面々はずぶぬになるかもしれない。それだけは申し訳ない。
俺はくるりと身を翻した。最後の心残りは、無事に下山できるかどうかだな。薄く笑いながら、俺はゆっくりと歩きだした。雨の幕の中、いいようのしれない達成感を胸に抱きながら。
*
村の出口には、大勢の村民たちが集まっていた。互いに、相手の姿を認識したのは同時のことだったらしい。そのうちの誰かが、大きく手を振ってきた。
「おかえりなさい!」
真っ先に駆け寄ってきたのは、セティアだった。
「はい、どうぞ!」
一枚の布を渡された。
「ああ、ただいま。――アレンは?」
それで身体を拭きながら、ややぶっきらぼうに言葉を返す。彼女の言葉と行動が、小恥ずかしかった。
「いるよっ」
集団から、子どもが一人飛び出してくる。着替えているところを見るに、だいぶ雨に濡れてしまったようだ。そうでなくとも、ちょっとびりびりに破れが広がっていたけれど。
「無事でよかった」
「うん、すぐにみんなと合流できたから」
ちらりと、彼は後方に目を向けた。
さっきいなかった住民がいる。彼らが、領主様直々に編成した救助隊の面子らしい。しかし、誰もがどうみても闘いに精通しているようには見えなかった。そのうちの一人は目が合うと、ばつが悪そうな笑みを浮かべた。
「びっくりしたよ、目の前にいきなり表れてさ。それに雨が降ってくるし、慌てて帰ってきたんだよ!」
その男は肩から一枚の布を提げている。
「でも不思議だよねー、こっちの方全然降ってないし。それに、どうみても、雨雲が立ち込めているようにも見えないんだけど」
ぐーっと、セティアは背伸びをして山の方を仰ぎ見る。
「まあいいじゃない。好都合なんだから。おかげですっかりと鎮火したようだしね」
セティアは意味ありげに唇を緩めながら、俺の方を見てくる。まるでそれは全てを見透かしたかのようだった。
堪らず俺は誤魔化すように微笑み返す。しかし、相手がそれ以上表情を変えることはなかった。
「あの、本当にありがとうございました」
「気にしないでください。もとはと言えば、俺がアレンに魔法を教えていなければ――」
「きっともっとひどいことになってたと思うわよ?」
俺の言葉を遮りながら、領主様はおどけたように肩を竦めた。
「少なくとも子どもたちや、プリンシアが無事には帰ってこれなかったでしょう。――カイン、あなたのしたことはそんなに悪いことじゃない。むしろ、この村にとってとても有益なことでした。その後の顛末も含めてね。この村の代表者として、改めてお礼申し上げます。本当にありがとう」
ドレスの裾を上げて、深々と頭を下げるその仕草は気品に溢れている。そしてそこに、しっかりと真心が込められているのがわかった。
まさか、彼女に感謝される日が来るなんて……。とんだ、運命の――いや、神の悪戯か。ともかく、そのちぐはぐさをおかしく思いながらも俺は、それを素直に呑み込んだ。
「俺は俺にできることをしただけだよ。この村に世話になっている、そんな身分として少しは恩返しをできればと思ってね」
「まあ、それはなかなか立派な心掛けだこと。」
彼女はくすりと、小さく笑みを漏らした。
「カイン。あなた、あたしの下で働く気はないかしら?」
その提案は、全くの寝耳に水だった。目を白黒させながら、真意を探ろうとするものの、決して冗談を言っている風ではなかった。
彼女の下で働く、か。果たして、何をさせられることやら。しかし、アレンに魔法を教え終わってから今日までのことを想うと、どこか心惹かれるものがある。単調な日々に、少しだけうんざりもしていた。
「あー、ずるい、ミレイ様! カインさんは、アタシのげぼ――じゃなかったか、お手伝いさんなんだよ!」
「表現が和らいだだけで、意味するところは変わらなさそうなんだけど……。というか、そんなものになった覚えはないんだが?」
「何言ってるのよ、居候でしょ!」
目を細めて、彼女はちょっと怒ったような顔をする。
「セティア、あなたの方こそ何言ってるの、よ。どうせ、やることと言えば、あの畑弄りだけでしょうに。一日中、彼の手伝いを必要とするとは思えないのだけれど?」
領主は村娘に対して、涼しげに笑いかけた。
「ぐ、ぐぬぬ、言い返せない……」
「だったら、その力をもっと村のために生かして欲しいな、と思ったの。――もちろん、あなたさえよければだけど」
どうかしら、と少し躊躇いがちに彼女は言葉を締めた。
考えるまでもなく、答えは決まっていた。これは
「俺に何ができるかわからない。でも、やってみたいと思う」
「本当? これはもちろん、強制じゃないのよ? 手を貸してくれたら嬉しいなって」
どこかはにかむように、セティアは笑った。
「ああ、わかってる。俺自身がやりたいと思ったんだ」
「……ありがとう、カイン」
すると、彼女はすっと右手を差し伸べてきた。細くすらっとした白い指。小さな掌。とても禍々しさは感じない。
俺はおずおずとその手を握った。柔らかい感触、しかしどこかヒヤッとして冷たい。
この光景を見たら、アイリスはどう思うのだろうか。この奇妙な関係に、さしものあいつも驚く――いや、予想通りだ、と朗らかに笑うのかもしれない。
全くとんでもないことをしてくれたものだ。そう心の中で苦笑しながらも、決して嫌な気はしないのだった――
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