第5話 最悪の朝

 目覚めは最高とはいいがたかった。少し節々が痛む。枯草を敷いたベッドは思いの外、寝心地は悪かった。初めこそ、いくらかふっくらしてると感じたのだが。


 あの魔族の少女にも貞操観念というものはあったらしい。俺に与えられたのは、母屋から少し離れたところにある納屋だった。外観からしてやや年季が入っている様だったが、その内部は意外としっかりとした造りであった。またしても木造、建築様式は人間界の農村で見たものと違いはない。

 入口側以外の壁三面に取り付けられた棚にはわけのわからないものがごちゃごちゃに収められている。そのどれもが、埃を被っているのは共通していた。おかげで、この中はとても埃っぽくさらにじめじめとしている。

 当面の拠点はこの。また今夜床に就くときのことを考えると、いくばくか気が重たくなる。しかし、雨風がしのげるだけましか。贅沢をいえる身分ではないのは重々承知だ。


「おはようございます、カインさん」


 母屋に入ると、すでに起床していたらしいセティアが台所で何やら作業をしている。朝食を作っているのだろう。


「ああ、おはよう」


 言いながら、俺は適当なところに腰を落ち着けた。魔界にもおはよう、ってのはあるんだな、と一人興味深い気分になっていた。


 それ以上何か言葉を交わすわけでもなく、部屋の中に沈黙がじわじわと広がっていく。よその家でこう手持無沙汰だと、何か落ち着かない気分になるのだった。


 そういう感覚は人間の時と変わりないらしい。外見はともかく、内面は今までの俺と変わらないのだから、当たり前といえばそれまでだけど。

 そして今のところ、身体面でも困ったところは特にはない。見てくれもそうだし、機能の上でも。一口に魔族といっても色々なタイプがある。その中で、こういう比較的人間に近い種族だったのは不幸中の幸い……もちろん、あのによる作為的なものだとは十分にわかっているが。


 とにかく。今のところ、大きな問題はないと言えるのだが――


「はい、どうぞ」


 ことり、と目の前に木の器が置かれる。中央に深い窪みのあるそれには、毒々しい色の液体が注がれている。ドロッとしたとろみがあるぷかぷかと浮いている鮮やかな緑色の葉っぱらしき物体がいいアクセントになっていた。よく火にかけられていたらしく、むわっとした蒸気が立ち上っている。明確な殺意を持ったを伴って。思わず鼻を覆ってしまいたくなるほどに、気持ちの悪い匂い。なにか腐った物でも入っているのでは、ととんでもない勘ぐりをしたくなるほどに。

 時々鼻を突きさした激臭の正体はこれだったか。考えないようにしていたが、いざこうして事実を突きつけられると、俺はたちまちに言葉を失ってしまう。


 傍らに立つセティアを思わず見上げると、そこには何の曇りのない笑顔があった。キラキラとした視線が一心に向かってきている。


「麦粥です! 朝はやっぱりこれですよね~」

「……ソウダナ」


 なぜかうきうきとした様子で、彼女は囲炉裏の隣の面に座った。すでにそこには、俺の正面にある物体Xと同じものが置かれている。


 じゃあ食べましょうか、とセティアは言った。そして、容赦なく木製のスプーンを毒沼に突っ込む。ちょっと攪拌かくはんすると、その中身を掬い上げた。躊躇いなく口に運んでいく。


「うん、美味しい!」

 心底満足がいった様子で、彼女は頷きを繰り返した。

「どうかしましたか、カインさん?」

「いや、なんでもないよ」

「そうですか。遠慮せずに、どんどん食べてくださいね」


 それはもはや悪魔の言葉だった……魔族だからもともと似たようなものか。何はともあれ、そう言われたら俺としたら取るべき手段は無くなってしまう。


 器に添えられたスプーンをつかみ取ると、俺はと呼ばれた、魔界の料理と真剣に向かい合う。いまいち決心はつかない。

 麦粥……いわゆるオートミールは人間界にも存在する。しかし、それはこんなにも禍々しいものではなかった、と俺は記憶している。

 食文化は、大きく違うのかもしれない。俺は昨晩のことを思い出していた。シチューだった。見た目は普通のものだったが、味はなんとも独創的。舌がピリピリと痺れ、口いっぱいに苦みが広がる。でも彼女は平気そうに食べていた。イモや葉物野菜はまだしも、一番困ったのは謎の肉だ。ひたすらに固く、そして少し血生臭い。牛鳥豚のようなメジャーなものでは決してない。どこまでも野性味に溢れていた。

 

 じっとこちらを見る両人の視線に気が付いて、俺はスプーンの先端をそっと液体に沈める。かたかたと動かしてみるが、粘性を感じるだけで、動きを阻害するものは何もない。

 そっと掬い上げると、たくさんの粒が手に入った。意を決して、俺は紫色の芋粥を口に放り込む。すると――


「……どうですか?」

 ためらいがちにセティアは訊いてくる。


 少し咀嚼して、ぐっと呑み込むと「悪くない味だ」と口の中にげんなりしたものを感じながら答えるしかなかった。果たして、これが魔族の標準なのだろうか。また一つ、この先の不安事項を見つけてしまった――





        *





 横並びに、俺とセティアは村の中を歩いていた。様々な魔族がいた。角があるもの、翼があるもの、極端に背が低いもの、この狐人よりも獣に近いもの……多様性においては人間の世界はとても足元にも及ばない。


 かつて見た魔界の風景とは、どこか違って見える。歩きながら俺は、辺りの様子を注意深く観察していた。

 あれから一年経つわけだから、相応の変化があったのだろう。もう少し黒っぽい瘴気があちこちに立ち込めていた気がする。しかし今では、そんなものはなく、枯れ気味の大地がずうっと広がっている。


 時刻という概念がここにあるかは知らない。それでもそれに淡く輝く天球の位置からして、午前中だろうと辺りを付ける。……そんなことに意味はないとわかっているが。あの頃はいつもも薄暗いと思っていたが、きっと瘴気のせいだったのかもしれない。少なくとも今は昼夜の区別はちゃんとつく。


「館、っていうのはまだ先なのか?」

「いいえ。もうすぐです。この先に広場がありますから。そこにミレイ様の住むお屋敷があります」


 朝食を終えた俺に、彼女は領主に挨拶に行こう、と提案してきた。なぜそれを昨日のうちに言わないのかと思ったが、そろそろ夜が来るからきっかけを失ったんだと。


「それに色々とお疲れではないか、と思って」


 はにかみがちに彼女は付け加えたが、それはよく的を射ていた。正直な話、魔族に転生したばかりで、色々と気苦労は積み重なっていた。


 やがて、彼女のいうように四角く整地された土地が見えてきた。ここが広場なのだろう。その奥の辺に立派な屋敷が建っている。しっかりと策が巡らせてあった。石造り……一見強固そうな外構え外構えを見て、俺が完膚なきまでに破壊した王宮のことを思い出す。

 その門のところにはトカゲ頭の魔族が二人立っていた。剣と盾を持ちそれなりに武装しているが、その顔はどこか緩んでいる。……ここまでの道中で、この村がいかにのどかなことを、俺は用思い知っていた。


「やあ、セティア嬢。また来たのかい?」

 右側に立っていた方が親し気な笑みを浮かべた。

「ええ。ほら、この方が昨日話した――」

「なるほど。記憶喪失だそうだね、それは大変そうだ」


 社交辞令だというのは口振りからよくわかった。こちらを覗き込む視線に、かなり怪訝そうな思いを感じ取った。


「ミレイ様はいらっしゃいます?」

「ああ。来客もないから、暇にして――」

「おい、滅多なことを言うんじゃない。また減給されるぞ」


 今まで黙っていた方の兵士が窘めた。それで人の良さそうなトカゲ兵は、二股に分かれた舌をちょろっと伸ばす。


 軽く会釈して、俺たちは門をくぐった。邸宅へと続く石畳の短い道をそっと歩く。左右には小さな畑があった。そこで、何人かの魔族たちが懸命に作業をしている。


 立派な扉の前に立つと、セティアは備え付けてある金属のわっかでこんこんと少し大きめの音をたてた。


 すると――


「何か御用でしょうか」


 間髪入れずに扉が開く。中からメイド服姿の女魔族が現れた。エルフだろうか。その見た目に明らかな禍々しいところはない。


「ミレイ様へのお目通り願いたく存じます」

「あら、セティア様でしたか」

 相手はちらりと俺のことを見た。

「なるほど。わかりました。少々お待ちを」


 ぱちんと指を鳴らすと、目の前の女性の姿が消えた。少し間が空く。そのまま不思議そうに待っていると――


「ぜひお会いしたいとのことでした。どうぞ、お入りください」

 

 音もなく再びその姿が現れる。瞬間移動だろうか。流石魔族、これくらいのこと朝飯前ということなのだろう。


 そのままメイドに案内されて、俺たちは館の中を進んでいった。といっても、そこまで複雑な道のりではなかった。入ってすぐのところに両階段があって、そこを上ると中央にまっすぐな通路が延びていた。短い回廊があり、その突き当りには重厚そうな扉。


「セティア様たちをお通ししました」

「いいわ。入ってもらって」

 中から落ち着いた女性の声が聞こえてくる。


 てっきり領主という言葉のイメージから、男だと思っていた。もちろん、人間界で女領主が全くいないとはいないが、行く先々の町村のトップは大抵男性だった。


 中に入ると、窓際に机が置いてある。そこにその魔族はいた。俺たちが入ってきたにもかかわらず、未だに頭を下げて目を机上に向けている。こちらからその表情は見えない。


 そして――


「待っていたわ、記憶喪失のエルフさん」

 やがて、領主は顔を上げた。さらさらとした色素の薄い金髪が揺れた。


 にっこりとほほ笑むその顔は、あろうことかあの魔王の娘とぴたりと一致した――

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