第2話 手引き

「……ですか?」


 高音だが、柔らかみのある女性の声がした。それで俺は意識を取り戻す。うつ伏せの姿勢で倒れているみたいだった。ざらざらとした感触を、全身に感じる。


 どうやら死んではいなかったらしい。あの時、終わりを覚悟したのに――腹部に手をやると、見事に傷は塞がっていた。

 大方、あの女神様が助けてくれたのかもしれない。魔王を倒した今、俺に利用価値などないだろうに。今度会った時に、お礼がてら文句を言ってやろう。あのまま死なせてくれればよかったのに、どこか恥ずかしさに似た思いを抱えながらのっそりと立ち上がる。


 そして、視界に移ったその女性は――


「まあ、よかった! 大丈夫みたいですね」


 ふわっとしたクリーム色のショートヘア。瞳は大きく、上がり気味の口角は人当たりのいい印象を受けた……そう、そのキツネみたいな獣耳がなければ。


「魔族! どうしてこんなところに」


 言いながら、俺は咄嗟に腰元に手をやった。しかし、そこにあるべきはずのものはなかった。拍子抜けしながらも、戦闘態勢を取る。


「はい? あの、ええと……?」


 だが、向こうはかなり困惑しているようだった。眉根を寄せて、少し目を細めている。それ以上、何もしてくることはない。


 それはこちらも同じ。どうして、この魔族の女は俺に声をかけたのか。人間と見れば、襲ってくるか、逃げ出すかなのに。

 その時、俺は周りの風景の様子がおかしなことに気が付いた。辺りに広がっているのは、草花一つもない渇き切った大地。そこは決して、両親の墓がある森の中の聖域などではない。ここは、まるで――


(魔界みたいじゃあないか)


 初めてここに足を踏み入れた時を思い出す。こんなにも不毛な世界なのか、とかなり驚愕したものだ。自然と呼べるものがあまりにも少なかった。また天から差す光の量も僅か。こんなところでは人間は絶対に暮らせない。魔族たちとの根本的な違いを、改めて意識させられた。


 沈黙は続く。目の前の魔族は俺という異様な存在に対して、どうすることもできないようであった。ただ怪訝そうな眼差しを送ってくるばかり。

 しかし、それはある意味好都合でもあった。向こうから闘いを挑んでこないならば、ひとまずこいつのことは置いておこう。その気になれば、魔法の一発でもかませば何とでもなる。


 目下の問題はここはどこなのか、ということ。あの女魔族――魔王城で見た泣き叫ぶ少女の姿が重なる。魔王の娘だろう。俺にはどうしても彼女の命まで奪うことができなかった。その結果、無様にナイフで刺される、という失態を招いたわけだが。

 しかし、それはあの奇麗な花畑での出来事のはず。ここではない。ふと周囲を眺めてみても、あの女の姿はない。そもそも、地面には血の一滴すら零れていなかった。


「……もしかして、記憶喪失ってやつですか?」

 ぱあっと、その顔が一気に明るくなった。


 思わず、俺は目を白黒させる。何言ってるんだ、こいつは。その幼さの残る顔をまじまじ見つめると――


「きっと人間界で何かがあったのでしょうね。よかったら、落ち着くまであたしの家でゆっくりしてください」


 ……意味がわからない。今度は口をあんぐりと開けた。もう呆然とするしかなかった。さらに極めつけには。


「だって、同じ仲間ですもの。助け合って生きていかないとダメですよね!」


 一人張り切る少女をよそに、俺の頭は完全にショートした。





        *





 状況が呑み込めないまま、俺はその女についていくことにした。まずは自分の身に起きたことを正確に把握すること。どうするかはそれから考えればいい。俺にとって、その提案はとても魅力的だった。


 歩きながら思考を整理していると、自分の身に起きた出来事に、少しずつだが察しがついてきた。まず、ここはどうやら魔界らしい。どうりで、記憶の中の風景とどこか同じく感じるわけだ。ひょこひょこと尻尾を振りながら歩く女についていく道中、何匹か異形の化け物――魔物に遭遇した。人型は魔族、獣型は魔物――この分別はあの女神に教わった。初めてこの世界に足を踏み入れた時とは違って、どれも俺たちを襲って気はしなかった。


 そして、今の俺の身体は――


「おや、セティアちゃん、おかえり。――ところで、そのひ弱そうなエルフは誰だい?」


 やがて、こじんまりとした農村に辿り着いた。入ってすぐのところにいた小太りの中年女性に話しかけられた。その背中には小さな翼が生えている。やはり魔族だろう。人型をしているが、どこかその風貌は人間とは違う。

 その目がさっと俺の方を見たことから、どうやら俺もまた魔族らしい姿をしているらしい。ふと耳に触れてみれば先は鋭くとがっていた。……鏡はあるのだろうか。いったいどんな姿をしていることやら。気が重たくなる。


「帰る途中、道端に倒れていたの。記憶が混乱しているみたいで、放っておけなくて」

「あんたは優しいねぇ。でもちゃあんと、ミレイ様には報告しなきゃいけないよ?」

 そう言うと、女性は農作業に戻っていった。


 道なりに進んでいくと、畑や家々が立ち並んでいた。こんなところでいったいどんな作物が取れるのか。俺には想像がつかなかった。そもそも、魔族たちの暮らしすら少しもよくわからない。

 しばらく歩くと、みすぼらしいあばら家の前で女は立ち止まった。茅葺屋根の粗末な木材でくみ上げられた見た目。そして、近くの畑はかなり荒れていた。ろくに手入れはされていないらしい。


「ここがあたしの家です。さあ、どうぞ」

「……ああ」


 扉を開くと、キィっという軋む音がした。彼女は気にすることなく、そのまま屋内へと足を踏み入れる。俺も遠慮しながらその後に続いた。

 入ってすぐが囲炉裏のある居間になっていた。奥に見えるのが寝室だろう。ちらりとベッドが一つあるのが見えた。

 床には木の板が敷き詰められている。意外と、作りはしっかりしているらしい。魔族たちの中にもそうした文化があるのか、と俺は妙に納得していた。


「何もないところですけど、お寛ぎください。あたし、ちょっとミレイ様――領主様のところに行ってきますから」


 そう言うと、彼女はすぐに家を出て行った。……とても不用心だな。その魔族のことが俺はかなり心配になってしまった。ぐるりと見渡すに、ろくすっぽ家具と呼べるものも貴重品らしきものもないから、盗られる心配はないということか。


 一度扉から外を見て、辺りに誰もいないことを確認すると、俺はそっと呼びかけた。


「アイリス。見てるんだろ、出てこい」」


 すると、清らかな見た目の姿が突然宙に姿を現した。ニヤニヤとした笑みを浮かべながら、じっとこちらの顔を見つめていた。

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