傘_その2


「行ってきまーす!」


 元気のいい響き声がこだまする。奥から三十代後半とみられる女性が、エプロン姿で玄関に向かってきた。

「実和子、ちょっと待って!」

 玄関ドアを開け、外へ出ようとする藍崎実和子あいざきみわこは、立ち止まり振り返った。

 鞄にはバドミントンで使われるカバー付きのラケットが刺さっていた。

「なぁに、お母さん?」

「夜、遅くなるんでしょ?」

「うん、今日も部活するから夕方になるとは思うけど」

 母親は、紺色をした折り畳み傘を渡してくる。

「持っていきなさい。夕方から雨が降るらしいから」

「えーっ? またこの傘ぁ? コウジが使っているヤツじゃなかったっけ?」

「今はこれしかないのよ」

「大きい傘、買おうよぉ」

「あなたが毎回電車とか、バスで置き忘れることがなければ、この傘だって使うこともなくなるはずよね?」

 捲し立てるように母親は、彼女に説得を浴びせる。優しい笑顔で見つめるが、心は鬼のようだ、と実和子は言い返せずにいた。母親の言ってることが正しかったからである。渋々と彼女は傘を受け取った。


 桜の開花も終わりをつげ、天候が初夏の準備をしようとする頃だった。

 実和子は、つよい陽ざしが照りつける中を学校へと向かっている。

 母親が手渡してきた紺色の折り畳み傘は、四歳下の弟が使っているものだった。弟のコウジは、姉の実和子とちがい滅多に忘れものをすることはなかった。が、どういうわけか、彼女は小学校時代から何度となく忘れものを繰り返していた。

 弟の使う紺色の折り畳み傘は、実和子が傘を置き忘れる度に、予備として持って行くことがあった。ただ、紺色の折り畳み傘を持っているときには、きまって雨が降ることはなく、傘を広げたことが一度もなかった。

 しかしながら、彼女には抵抗感があった。弟が使い、なおかつ、紺色であるからだ。彼女にとって一番好きになれない色だったのだろう。

 いつもの如く、鞄の奥にしまい込み、どうせ今日も出番はないだろうと、軽い調子で登校した。



 お昼を過ぎた頃からどんよりと黒い雲が、澄みきった青空を隠しはじめた。

 ぼんやり空を眺めながら、実和子はバドミントン部の部室へと急いだ。部室は校舎から離れた建物にある。

 部室の集まる建物と校舎は、屋根付きの渡り廊下になっている。長方形の平屋で、連なる建物の最奥にバドミントン部の部室があった。

 途中の通路は、人ひとり通るのがやっとな場所もあった。そのためか、部室を開ける際にドアにぶつかる事が多発していた。

 そんな狭い通路を、毎日通過する体育系部活動の女子生徒の間で、いわくつきの噂が飛び交うようになる。うわさは、何年にもわたり部活動をする間では、伝説化するぐらいになっていた。特に梅雨つゆにはいる時が、噂のピークになりやすかった。


「ねぇ、新体操部の鶴川さん、告られたらしいよ」

「うそっ!? マジで? 相手は誰だったの? ひょっとして?!」

 女子バドミントン部の部室では、他人の恋愛の話で持ちきりだった。ふたりの二年生部員と実和子がいる。

「それって、例ので告られたっていう?」

 実和子は後輩部員に振り向きながら問いかけた。

「そうです。雨の日に一度ならず二度も、同じあの狭い通路で、鉢合わせた両想いの女子と男子が、すれ違いざまに恋が成就するっていう」

 後輩女子部員が乙女チックに両手をがっしり組み、神さまに祈るように遠くをみつめた。

「偶然じゃないの? そんなの今さら流行はやんないと思うけど」

 冷めた表情で実和子は批判する。自分には縁のないもの、と思い込んでいるようだ。

「もう、藍崎先輩は現実味ありすぎですよ! この高校じゃ、根っからの噂話じゃないですかぁ」

 ひとりの後輩部員が話す中で、隣のもうひとりの後輩部員がそれに何度も頷いている。

「そうですよ、燃えるような恋、したいと思いませんか?」

 ふたりの二年生部員は、噂を肯定した発言で、実和子に訴えかけた。

―――燃えるような、ね。あたしだって……

 と、口を開きかけ強い口調で発したいと思うも、実和子は心に留めた。反論はしたかったが、彼女には、片想いしか経験がなかったからだ。


 突然、後輩部員がもうひとりの部員に両手を組み膝をつき、

「おお、ロミオ、あなたは何故、ロミオなの?」

 と、釣られるようにもうひとりの部員が、オトコ声の低い口調で、

「ああ、ジュリエット。どこなんだ? ジュリエット」

 ふたりで声を高々と張り上げていた。さながら演劇部のまねごとをはじめていた。

 傍で見ていた実和子は、頭を抑えつつ壁にもたれかかりそうになった。

「ほうら、あんたたちの願望はわかったから、さっさと着替えて」

 後輩部員の演じる姿を見て、直に水を差すように実和子は、壁にもたれるのを我慢しつつ、扉を開け部室を出る準備をした。

「部室に残ってるのは、あんたたちだけなんだから、急ぎなさいよ」

 と、実和子は後輩部員に喝をいれ、そそくさと部室から出ていった。



 実和子が部室を出る頃には、雨が降り出していた。自前のラケットを手でもてあそびながら狭い通路に差し掛かる。

 前からは鞄を持った男子生徒が歩いてきた。一年生らしく上履きの色が青色で違っている。幅の狭い通路の手前で男子生徒が、実和子を先に通そうと立ち止まって待っていた。すれちがい様に彼と目が合い、実和子は軽く会釈を交わした。

 横目で彼の視線を見るも、あどけない顔立ちである。凛々しく制服を着こなし、身長の差もほんの数センチだった。口もともすっきりし、ニキビや黒子さえなかった。抑揚のない表情で真面目さが窺える。過ぎ去る一瞬、彼が微笑んだように実和子にはみえた。

 実和子が通路を通過して、体育館の入り口で振り返ったとき、すでに彼の姿はなかった。夢を見ていたのだろうか、と実和子は胸の鼓動がはやくなっていることに気づいた。

 が、よく見ると彼のいた側の扉が閉まる音がする。近くには、『卓球部』という縦プレートが掲げられている。

 そうだったんだ、と実和子は納得するように体育館へと入っていった。




 またたく間に時間が過ぎ、部活動が終了をむかえる。

 実和子はいまだに降り続く雨をうらんでいた。

―――まだ降ってるの? いい加減やんで欲しいのに

 ネットを片付け帰り支度をはじめた頃、二年生女子部員の星灘ほしなださつきが実和子に言い寄ってきた。

「藍崎センパイ、今日って傘って、持ってきて、ますよね?」

「う、うん。まあね」

「たしか、センパイと帰り道がいっしょだったなぁ、って思って」

 実和子は彼女が次に言うような言葉を予測していた。先回りをしようと問い返した。

「星灘さん、もしかして、今日?」

 その先を言わないまでも星灘は、コクリと頷きをみせる。

「それが……」

 不安そうな表情で実和子に語りかけてきた。

 彼女の話によれば、出がけに傘を持って出たのだが、スマホに夢中になり過ぎて電車に置き忘れた、と言うのだった。実和子自身も電車内に度々置き忘れることから、だよね、という同調の返事をしてふたりは意気投合する。

 だが、実和子は自分も忘れ物癖がひどいために、弟の紺色の傘を持ってきたとは、口が裂けてもいえないでいる。見栄を張っていた。

「途中まででいいんで、傘に入れてもらえませんか?」

「えっ!?」

 実和子は困惑した。今さら「傘がない」とも言いづらく、どうにかならないものかと考える。

「センパイ、だめ、ですか?」

 早くこたえを知りたいがためなのか、執拗に星灘は迫ってきた。


「あ、雨、あがったのかな……?」

 近くで外を眺めていた卓球部員の男子生徒が、ボソリとつぶやいた。つられるように、実和子は扉脇の窓から外をながめる。雲間のすきまから西日が差しはじめてはいるも、小雨がぱらついている。

 実和子は正直に話そうと、彼女に振り返った。

「ごめんなさい、星灘さん、正直いうと、折りたたみ傘はあるん……だけど……」

 が、彼女の姿はそこにはなく、近くにいた同学年の女子部員に同じような質問をしていた。どうやら実和子の返事を待ちきれなかったようだ。

 少しして、彼女がふたたび実和子に近づいてくる。

「センパイ、ゴメンなさい。さっきの話、聞かなかったことにしてもらえますぅ?」

 星灘は、こびを売るように実和子の前で合掌し謝りつづける。とうの実和子は呆気に取られ黙っていた。

「リカとミナが一緒に帰ろうって、誘ってくれたから」

「う、うん。そ、そうなのね。わかったわ!」

 星灘は嬉しそうにリカとミナにつき添われ行ってしまった。

 心を落ち着かせ、実和子は胸をなだめた。寂しいような、嬉しいような、ほんの少し複雑な気持ちになった。



 トボトボと体育館をあとにして、部室へと向かった。一時的に止んでいた雨がまた勢いよく降り出してきた。

 通路を歩いていると、卓球部の部室から男子生徒たちのふざけ合う話し声が聴こえてきた。

「あーあ、また降り出してきたな!」

「おめぇ、傘持ってこなかったのか?」

「サトシ、お前もってきたのか?」

「その点は大丈夫さ。大きい傘と折りたたみをもってっから。オカベは?」

「持ってきたけどよ。なんつうか、その……」

 仲のいい部員同士が他愛もない話をしているようだった。


 バドミントン部の部室には誰もいなかった。美和子はテキパキと制服に着替え、帰り支度をする。

 部室を出て狭い通路に差し掛かった時だった。突然、扉が開く。卓球部の男子生徒が美和子がいることに気づかず、思いっきり扉を開けてしまう。とっさに美和子は避けることもできず、おでこに開く扉をぶつけてしまった。

「い……っ、……」


 扉の違和感のある衝撃に男子生徒は、それが人だと認識するのにすこし時間を要した。

 気が付いて外に出てみると、扉の外側でうずくまっている女子生徒を見て駆け寄った。美和子に気づき、おでこを抑えている姿で思いっきり扉にぶつけたのだとわかる。

「だ、大丈夫ですか?」


 大丈夫、、と美和子は声を出さずに黙っている。


 見上げると部活前に通路を譲ってくれた一年生の男子生徒だとわかる。美和子はすこし緊張した。例の噂話を彼女は意識してしまった。

 男子生徒は彼女の表情が気になった。心配そうな顔で実和子を見つめている。

「念のために保健室、行きましょうか」

 あまりの痛さに美和子はうなずくことしかできなかった。

 男子生徒は、美和子に付き添って保健室へとむかった。



「これで、よし、と」

 女医が、美和子のおでこに目立ちにくいガーゼで応急処置を施した。

「髪の毛でケガしたところは、見えないだろうけど、腫れが引くまでガーゼはしておいた方がいいわね。それにしても……」

 男子生徒をみて、

「あそこは一番狭い通路だから、扉を開けるときは注意しないとダメなんだからね」

「すみません。ちょっと他のことに夢中になっていて」

 と、男子生徒は女医にむかって謝っている。

「謝る相手が違うでしょ! まったく。この前も新体操部の女子が同じように頭をぶつけたっていうし、何かあるのかしらね」

「先生、それって鶴川って名前の女子ですか?」

 思わず実和子は口走っていた。

「えっ!?」

 驚いていたのは、男子生徒の方であった。少なからず男子生徒も狭い通路のうわさを知っている様子である。

「あら、藍崎さん、よくわかったわね」

 女医も驚いた表情でいぶかしく首を傾げていた。


 保健室をあとにしたふたりは、校舎から外に出ようとしてまだ雨が降り続いていることに陰鬱いんうつな顔になる。

「まだ、雨が降っているの?」

「あいざき、先輩? で、いいですよね?」

 一年生の男子生徒が、丁寧な口調でいぶかしく美和子をみる。

 美和子は振り返って、うん、とだけ答えた。

「傘、持ってきましたか? よかったら途中まで一緒にどう、ですか?」

 ケガをさせてしまった罪滅ぼしなのか、と美和子は男子生徒をみつめた。

 美和子は一瞬悩んだ。帰りの途中で友達に見られたりでもしたら、と思うと誤解を解くのに時間がかかると、先の先まで深読みして考えてしまう。ましてや、折りたたみ傘を持っているから、断ることもできるが、弟の使っている紺色の傘をつかうことをどうしてもはばかった。


「保健室の先生がガーゼで応急処置してたけど、前髪で隠していても、知っている人に出会ったりしたら、必ずどうしたのかって、訊かれますよね?」

 男子生徒の言い訳に、なんとなく理解した美和子は考え込んでいた。

「あ、そういえば、僕の名前、言ってなかったですよね? 念のために」

「サトシ、くんでしょ? 卓球部の」

 美和子は振り向くことなくこたえた。

「えっ!? なんでわかったんですか?」

「苗字はさすがにわかんないけど、通路を歩いているときに、卓球部の部室から。話し声がするのを偶然に聴いたから」

「壁を通してたから声だけじゃ、判断つかないと思いますけど」

 美和子は微笑んで、

「もちろん、会話の内容から推理したのよ」

 サトシが訝しく顔をかしげた。

「あなたの話し方と口癖には、特徴があったから、さっきの『念のために』という言葉で確信したわ!」

 呆然とした様子でサトシが美和子をみている。

「あ、傘の件だけど、途中までホントにいいの? 実をいうとわすれちゃって」

 サトシの好意に甘えてもいいのではないか、と美和子は思った。

「あ、ああ、もちろん」

 自慢げな口調で彼は声を上げ、紺色の大きな傘をひろげた。

 カバンの中の折りたたみ傘を一瞥いちべつして、美和子は微笑みをうかべた。



 数日が過ぎた。

「行ってきまーす!」

「美和子、傘は持ったの?」

 母親が玄関からでようとしていた美和子を呼び止める。

「大丈夫、持ってるわ!」

 紺色の大き目な傘を手に持ち、笑顔になっている。

「あら、その傘?」

「うん、友達からもらった傘なの。いってきまーーす!」

 母親はいつの間に、という少し驚いた表情で美和子を見送った。


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