鏡_コンパクトミラー
業務を終え「お疲れ」という言葉が、ロッカールームの中でこだまする。
女性従業員のロッカールームに充満した汗と消臭スプレーの混ざった匂いに、エミは一瞬顔をしかめたが、すぐにその匂いに慣れた。何度も出入りするこの空間に、もうそれは日常の一部になっていた。相変わらずの女子トークが狭い空間で、もみくちゃに聞こえてくる。
帰り支度をしていた
隣でジャケットを羽織っていた同僚のフルタが、心配そうに覗き込んできた。
「エミ、どうかしたの?」
フルタは、迷惑そうな顔を一瞬見せたが真剣に向き合った。フルタはちらりとエミの顔を見た後、眉をひそめた。
「何かあったの?」
彼女の声は優しく、しかし少し緊張感が漂っていた。エミは唇を噛み、ゆっくりと答えた。
「……ロッカーに入れておいたはずのコンパクトミラーが、ないのよ」
呆れた顔つきでフルタは、ため息を吐いた。
「よく探したの? 昨日の朝、アンタと一緒にトイレに行った時には、自慢げに持ってたじゃん。その後、どうしたの?」
フルタの言葉に、ハッとした。急いでロッカールームのドアへと急いだ。
「もしかしたら? フルタさん、ありがとう」
廊下を出ると急いでトイレのある方向へと足を早める。不安を募らせた。今では見かけない装飾が施されていたことで、いままで大事に使ってきたのだ。誰かに拾われてなければいいけど、と心臓の鼓動と共に足の速さが増していく。
あのコンパクトミラーには思い出があった。エミが成人の折に祖母からのプレゼントだったからだ。ミラーを覗くたびに祖母の優しい顔が浮かんできた。
入り口付近の洗面所を隈なく探すがコンパクトミラーは見つからない。備え付けの鏡をみつめ、朝の状況を思い出そうとしていた。
水の流れる音が聴こえてきた。ミカミという眼鏡をかけた女性が、エミに気がつく。
「あら、楠宮さん、お疲れさま」
「お疲れさまです。あの、ミカミさん……」
「そういえば、昨日の朝、持っていたわね。たしか、イトハマさんと何か話し込んでいなかった?」
またもハッ、と思い出した。ミカミに礼をいうと、トイレをあとにした。
イトハマを探しながら、彼女にコンパクトミラーの買った場所を訊かれた事を思い返す。
イトハマは、喫煙のできる休憩室にいた。
エミはさりげなく近づき、昨日の朝の会話の続きのように話を持っていき、コンパクトミラーの会話へと誘導した。
思ったことをストレートにいう性格のイトハマに、苦笑いを浮かべつつ話をする。
「……あなた、その
大きなお世話だ、と心で叫ぶも苦笑いで言葉を濁した。
「お気に入りだけど、仕事中に落としたとかで、鏡にヒビが入った、とか言ってなかった?」
イトハマの言葉に、最近の外国のカスタマーの態度でイライラとしたことを思い出した。
そうだった。イライラの吐け口を物に、コンパクトミラーにあたった事を忘れていたと、気づいた。
エミはロッカールームに戻り、ゴミ箱を調べた。光沢のかかったベージュ色と桜の花の装飾が施されたコンパクトミラーが、傷つきながらも持ち主を待ち望んでいるようだった。
「ごめんね、おばあちゃん……」
と、何気なしにエミはつぶやいた。
ミラーを手に取り、静かに息を吐いた。イライラを物にぶつけてしまう自分を見つめ直し、今度はもっと大切にしよう、と決意した。
完
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