わすれもの 短編集
芝樹 享
ハンカチ
男は駅舎の階段を降りると、大きく深呼吸した。五年ぶりに訪れた駅前の風景に酔いしれた。
ビルの広告看板に眼をやった。昔の面影が、
(あの店は、今もそのまま残っているだろうか)
当時と同じ足取りで、育った土地を記憶をたよりに
商店街、公民館、田園風景、高台の神社、小学校、そして、ちらほらとあるコンビニ。
ゆっくりと風景を楽しみながら、男はある場所を目指した。
目的の場所にたどり着きぴたりと止まり、立ち尽くした。馴染みの喫茶店だった。
男は肩掛けのカバンを担ぎなおす。その場で大きく深呼吸した。
周囲の環境はほとんど変わっておらず残っていた。古ぼけた看板、格子窓、華やかに迎えてくれる店主ご自慢のプランターに咲く花々が、店先に並んでいる。
ドアベルが鳴り響き、中から若い女性が姿を現す。すぐ、男の容姿に気づいた。
あっ、と彼女は声にならない、声をつぶやく。
男は軽く会釈した。
「お久しぶりです」
「お久しぶりです。いらっしゃいませ!」
喫茶店のエプロンを着込み、彼女は深々と挨拶する。
「この辺は五年前とまったく、変わっていませんね!」
「繁華街から近くても、ここは田舎同然なんですよ!」
彼女は可愛らしい声で返事をした。
「静かだし、穴場ですよね」
同意して彼女も、ふかく頷きをみせた。
「なか、入りませんか……? いつもの、でいいんですよね?」
けたたましくなるベルとともに、店内へと入った。
男は五年前と同じ、窓に面した席へと、足をすすませる。
「へぇ、まだ、メニューが残っているんですか?」
壁には、『今日のお勧めメニュー』という掲示板が、貼りだされている。男は、五年前に毎日注文していたメニューが、未だに残っていることに驚かされた。
「五年も経っているから、てっきりメニューから外されていると思っていましたけど……」
「意外に、人気があるんですよ!」
男は大きめのショルダーバッグから何かを取り出そうとして、その手を引っ込めた。あきらかに
「ここに訪れたのは、また、歴史資料集めですか?」
カウンターバーの内側から、男に向けてエプロンの女性は、声をかけてきた。テキパキとレギュラーコーヒーを入れるための準備を始めている。香ばしいコーヒー豆の匂いが鼻をくすぐる。無意識に彼女は深呼吸した。
男は素早くバッグから手を離し、なにくわぬ顔で笑顔をみせる。ひどく焦っている。
「ええ、まあ。たまたま、生まれ故郷の土地の記事を取材することに、なってしまって……」
突然、ドアベルがなり、子供が入ってくる。男の子だった。手にはサッカーボールをもち、眼差しを男にむけている。
「タダシ、お客様がいるときは、外の遊び道具を店に持ち込まないで!」
男はおどろいた。この少年は彼女の……こどもなのか。五年も経っているのだから、結婚していても不思議ではない。
男はバッグの中身をみつめ、諦めた様子でため息をもらした。ハンカチで焦りの顔を拭った。
(やっぱり、遅かったのだろうか……)
男は、バッグを引き寄せると彼女に告げた。
「すいません、会社から呼び出しがかかって、戻らなければならなくなったので」
「え!? 急に?」
男は立ち上がり、ドアの前まで進む。
「申し訳ないです。また、来ます」
「あ、あの……」
男の座っていた席には、ハンカチが無造作に置かれていた。
男は、近くの公園のベンチに腰掛ける。バッグから小さな箱を取り出した。結婚指輪が入った箱である。
「おじさん」
いつの間にか、さっき喫茶店の中にいた少年が、話しかけてきた。どうやら、知らない間についてきていたようだ。
「その指輪、お
「お、ねぇさん……?」
「うん、おれと義姉ちゃんは血が繋がってないんだ! おじさん、なんか店に入った時からそわそわして落ち着きがなかったから」
(子供のくせに、よく観察しているな)
「父ちゃんが、そわそわしてたのと同じだったんだ!」
そうだったのか、と男は自己満足しているようだった。
(しまった。あの店に……)
男は、
うな垂れる男に人影が近寄ってくる。男の子が人影に振り向いた。
「あ、義姉ちゃん!」
男は顔を上げ、思わず立ち上がった。
女性がたたずんでいた。彼女が、ハンカチを差し出してきた。
「わすれもの、ですよ」
彼女は男ににっこりと微笑んだ。
完
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