鍵
階段をひとりの専門学校生らしき男がおりてくる。男はひどく疲れた顔だった。隣を大またで上ってくる学生たちと比べても、おりてくる男には元気がなく、両肩が下がったままの様子である。
「たにくん、ねぇ、谷くんってば」
階段途中の踊り場から、長い髪をなびかせ女子学生が声をかけ、谷の顔を覗き込んでくる。彼女は、谷と呼ばれた男と同い年の専門学校生のようだ。
「ひどい顔ね。もしかして、夜中に
「エリには関係ないだろ!」
と、言い放った。
「ええ、もちろん関係ないわ! 」
階段をゆっくりおり、
「でもね、今やっているものが、もし、グループ課題だったら、アンタひとりの責任では済まないでしょ? 迷惑がかかるはずよ。健康管理もしっかりできなければ……」
「お説教はそのぐらいで勘弁してくれ!」
と、谷はふてくされざまに大きい生欠伸をした。
エリはその顔を見るなり、深いため息を洩らした。
校舎ビルをでると、ふたりは専門学校生専用の自転車置場へと向かう。
高校からの付き合いである谷成行と須賀エリは、デザイナーを目指す専門学校へと自転車で通学していた。
台風が過ぎ去り、ようやく秋空らしくなった午後である。
講義をおえ、帰宅しようとするところだった。
成行はポケットをまさぐり自転車の鍵を探しはじめる。
「どうしたの?」
「い、いや」
狼狽のすがたを見せまいと彼は冷静さを保ったまま、カバンを引っかきまわしている。
動揺する成行に、痺れを切らしたのか、エリが訊いてきた。
「もしかして、自転車の鍵、失くした、とか?」
「い、いや、そんなこと。……ねぇよ」
ため息をエリは吐き、
「カギ、失くしたんでしょ! 素直になりなよ。いっしょに探してあげるから」
須賀はぐいっと、成行の手を引っ張り校舎ビルへと引き返した。
玄関ホールを見渡し、成行と須賀は朝の風景を思い起こす。
「あんた、たしか、朝あたしと挨拶交わした後、第1教室へ入ったわよね?」
「おまえも一緒だっただろ!」
須賀は素直にうなずく。
広い室内を見渡した。彼女もならい見渡す。
「朝のHRがおわった後、3階の第3教室に向かったのよね?」
「まぁな、エリとはちがう分野だから」
「移動するときに、あんたポケットから何か取り出してたけど、そのときに落としたんじゃないの?」
「んなわけねぇだろ! あんときはトイレに行ってハンカチを取り出したんだ」
「そのとき、カギは?」
「あったに決まってるだろ!」
と、成行は確信を持った口調でいった。
ムッとした表情になるも、彼女は憤怒を抑え冷静になった。よほど何度となくつき合わされている様子だ。
「じゃあ、少なくとも朝の移動時にはあったってことよね?」
同意を求め成行を見つめる。
「あ、ああ、そういうことになるな」
成行は、彼女のほのかに香る匂いに、どきりとしながらも顔を背け言った。
須賀の分析癖は、今に始まったことではなかった。高校時代から彼の忘れもの癖を知り尽くしているようだ。彼女自身も楽しんでいるように見える。
成行自身も治そうと努力し、極度な忘れもの癖はなくなったものの、失くす癖は抜けていない。彼は彼女に感謝する一方で、少々迷惑にも感じはじめていた。
「あんた、今日の講義ってどういうことをしていたの?」
エリは成行を疑わしい目で睨んでいる。
成行にとってみれば、まさか居眠りをしていた、とは彼女の前で言えない。言えるわけがないのだ。
「し、心外だなぁ」
冷静に彼女を見つめた。
「だって、あたしは2階の教室で講義を受けていたんだから」
当然でしょ、とエリは続けて言った。
うろたえる顔の中で、
「お、俺はあの時……」
と、突然言葉を止めた。
「あのとき? あのとき、何よ、ねぇ?」
成行が何かを思い出したように走り出した。
「ちょ、ちょっとどこ行くの?」
須賀は突然走り出した成行に驚く。
事務室の中には、数名の事務員と講師らしき先生が話し込んでいる。
成行は、ノックを数回すると扉を開けた。
「失礼します」
事務員と話し込んでいた女性講師が、成行に気づく。ふくよかな体型が、年齢とは相違しているものの貫禄があった。いわゆるオバさん先生だった。
「イナミ講師!」
「やっときましたね。教室に来るかと思いましたが、ひどく眠たそうな顔だったので、忘れものに気づいて必ず来ると待っていましたよ」
イナミ講師は、マスコットキャラがさがったキーホルダーと自転車の鍵を成行の掌にのせた。
「すみません、俺、あのときうろ覚えでしか憶えがなくて、鍵を落としたことに気づかなかったようで」
講師は微笑みをみせ、うなずいてる。
「あ、でも課題の下準備はできたので……」
「谷くん、作品に夢中になるのはとてもいいことだけど、大事なものを落としたことに気づかないほど体に無理を与えてはダメよ」
「はい、肝に銘じます」
イナミは谷に期待感のある顔でうなずく。
事務室を出てビルで入り口からでてきた成行は、あたりを見て須賀をさがした。ふて腐れて帰ってしまったのだろうか、と自転車置き場へとむかった。
待ちぼうけして柱に寄りかかり、スマホをみている須賀がいる。彼女の顔はしれっとした様子で成行に気づいた。
「エリ!」
「見つかったみたいだね! よかったね。半分はあたしのおかげだよね」
成行の晴れ晴れとした顔に彼女も安堵の顔だった。
「もちろん、エリのおかげだ」
ニコッと笑顔になった。
「付き合ってくれてサンキューな」
照れくさそうな表情で谷は微笑む。
「あんたの忘れ癖は今に始まったことじゃないけど、肝心のあたしのことを忘れなかったことは、よろしい!」
エリは笑みを浮かべた。
自転車にかけた鍵を開錠すると、
「エリ、何か腹減らないか?」
安心したのか成行は腹を抑えた。
「つきあってもいいけど、おごってよ!」
「しょうがねぇか……」
ふたりは自転車をこぎ、商店街へとむかっていった。
完
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