水筒

 河岸の草木がそよ風にゆれる。新緑に彩られた日曜の午後の、暖かな陽気だった。遊歩道を歩く女性の姿があった。

 腕時計を見た柳瀬やなせは、そろそろ戻ろうかと、急ぎ早に遊歩道を歩き駅へ向かった。長い髪がそよ風になびいている。


 彼女は休みもかねて遠出をしていた。ピクニック気取りで朝、手作りのおむすびと買ったばかりのクリーム色をした水筒をもち、電車でぶらりと知らない土地を歩いてみたくなったのだ。

 ある程度の苦労を覚悟しているためか、このとき、スマホは持って行かず自分の感性を信じて出かけた。

 都会の空気ばかりで便利になりすぎてはならないためにも、というプライドを持っているのだろう。



 小さい昔ながらの駅舎の改札口を通り、駅のホームに降り立つ。ローカル線の線路が遠くまで見えた。

 線路にひびく独特の音とともに、客車が遠ざかり小さくなっていく。乗り遅れてしまったのだ。


―――あ~あ、乗り遅れちゃった。


 柳瀬はひとり呆けて、ため息を漏らした。澄んだ青空を仰ぐも、彼女の心は晴れなかった。

 次の電車は何時ごろになるのか、時刻表をみる。

「えぇ〜!?」

 柳瀬は驚いた。初めて降りた駅とはいえ、昼間の数時間に1本も電車が走らない事で不安になる。遠くに見えた電車が昼間の最終であり、次の電車が18時ちょうど発だったのだ。

 いまの時刻を確認した。午後の2時を回ったばかりであった。

 いまだにこんな少ない路線本数が、日本にあった事にショックを受けた。行き当たりばったりで遠出をして失敗したかなと、肩を深く落とした。気を病む顔で、駅舎の中で時間をつぶそうと思いトボトボと歩きだす。


 駅舎の中には、小さい売店はあるものの、売り子の姿はなく閑散としている。そのすぐ隣には立派な看板がかかった休憩所があった。自動の開閉扉でちょっとした室内になっているようだった。

 窓を背にして簡易ベンチがあり、隣には、むかしながらの水飲み場を見やる。だが、針金で覆われている。飲み水は望めないと肩を落とし溜め息を吐く。すぐさま休憩所の扉をくぐった。

 ふぅ、と一息つき、彼女は固定された椅子へともたれかかった。

 次の電車までどうしようか、と疲れた足をもみほぐした


 柳瀬は室内をひと通りみまわした。客の姿は彼女以外なかった。通常の休憩所より少し広い空間が広がり、固定された椅子が並んでいる。休憩所の中にも小さい売店があった。彼女は真新しいものや珍しいものがあるか期待していた。だが、雑誌が置かれていることもなければ、掲示板やポスターさえ貼られておらず、殺風景なのである。ただ不思議な空気が漂っているようであった。


 ふと、売店の横に奇妙な水飲み場がある事に彼女は気づく。

 奇妙とは水の配水口が黄金色の龍の口になっていたのだ。立派ともいえる髭と鋭い眼光がにらみを利かし、大きい口は常に開け放たれていた。細かいほどの細工が施され、精気を帯びているようである。さらに、龍の口の部分から上にかけて身体が螺旋らせんのように巻いてホースの役目をしていた。まるで中国の体の長い龍を想像させるものだった。

 龍の口から尾に至るまで高さがあった。五十センチほどだろうか、龍の尾の部分の隣には、透明色の容器でタンクが備え付けられている。

 立派なまでの細工に柳瀬は思わず、近寄り目を見張った。「スゴイ!」と感嘆の声をあげた。

 水飲み場というよりかは、水の配給器というべきか、配給器にはひとつのボタンがあった。長押しすることで、水の分量が決まるという単純なもののようである。

 そうだ、とつぶやくと柳瀬は軽く両手を合わせ、バッグからクリーム色の水筒を取り出す。散歩している間に飲み干した水を補給しようと考えた。



「お客さん!」

 売店の物陰でいままで人の存在に気づかなかった柳瀬は、びくりと身体を震わせる。思わず胸を撫でおろした。

 中年風の男であった。制服姿の紺色の服装で、帽子を被って彼女をながめている。

「いらっしゃい」

 ニコニコと、すぐゆるい笑顔にかわった。

 柳瀬は落ち着いて胸を撫でる。てっきり売り子さんもいないものと思っていたようだ。

「これ、珍しい水飲み器ですね」

 男は訝しく顔を傾ける。

「おお、この、ですか?」

 感嘆の声を男はあげる。


―――ちがうってば。この人、わざと間違えたのかしら?


「え、えぇ、まあ」

 柳瀬は気持ちとは真逆に愛そうよく苦笑いをした。

 駅員のような様相の男は、配水口の龍の細工に見惚みとれている。よほど龍の細工がお気に入りの様子だ。龍の体であるとぐろの部分をみつめていた。

「立派な龍の細工でしょ?」

 苦笑いしながらも、ええ、と柳瀬はこたえた。彼女の声掛けに、

「あの、駅員さんがこの売店の売り子をしているんですか?」

 売店を見ながら躊躇ためらいがちに駅員とみられる男は、目が泳いでる。明らかに戸惑っていた。

「え、ああ、まあ、その……ですがね、はい」

「臨時、なんですか……」

 あの、と柳瀬は水飲み器に指をさして、

「このお水、飲んでもいいんですよね?」

?」

 興奮した様子で、男の発言はすでに過去形になっていた。まるで水飲み器が故障しているか、何らかの理由で水が出ないような口ぶりである。

 答えになってないじゃないっ! と、心で呟くも、駅員の男の言い回しに、何か会話にズレを柳瀬は感じていた。 

 彼女は大きくかぶりを振り、愛想よく笑顔になった。

「いいえ、これから水筒に入れようと思っているんですが……」

 訝しく柳瀬は男をみる。

「ああ、なるほど。そうなんですか」

 小声で残念そうに頭をもたげていた。

「もしかして、水が出ないんですか?」

「それが、ですね……、はい」

 駅員の男の話では、この水飲み器はというのだった。こもっているというのである。駅員の男も飲もうと思い、ボタンを押したが、待てど暮らせど、水は一向に出てくる気配がなかったと話した。

 半信半疑な顔のまま、柳瀬は水飲み器をみつめた。

「じゃあ、水が飲めないってことなの?」

「一概にそうとは限りませんが、もし、としたら、とてつもない幸運を授かるとか……、はい」

「幸運?」

「わたしの聞いた話では、龍の身体を通る際に、普通の水が変化するということだそうで、はい」

 口癖のように男は語尾に「……はい」とくり返す。

「ボタンを強く長押ししてもらうことで水が出てくる、と思うのですが。はい」

「わたしが試してみるわ!」

 柳瀬は、タンクの真下に設置されたボタンを、人差し指で押した。ボタンよりも下に位置していた配水口だったためか、彼女は中腰になった。

 容器からゴボゴボと泡が浮かんでくる。

 水が出るか緊張する面持ちで、柳瀬は龍の細工の顔の近くに水筒を添えた。数十秒沈黙が流れる。

 なぜか、駅員の男の両の手に力がこもって、りきんでいる様子だ。凝視して睨んでいた。



 およそ1分たった頃、彼女は待ちくたびれたのか、龍の口元から水筒を離そうとした時だった。ほんのわずかだが、水らしきものが、龍の口先から流れしたたりはじめているのが見えた。

「出てきたわ!」

 柳瀬の歓喜に満ちた声がひびいた。しかし、しばらくすると止まってしまう。ボタンから指が外れ押されていなかったのだ。どうやら、ボタンを強く押さないと出てこない事に、柳瀬は気づいた。

 わずかだが、タンクの水の水位が下がっているのが分かった。


 もう、このくらいでいいかな、と水筒の重さを確認すると、彼女はボタンから指を離す。

「駅員さん、ちゃんと出てくるじゃないですか!」

 向きなおり、駅員の男をみた。

「あなたはよほど幸運らしいですね。細工職人に認められたかもしれないです。はい」

「えっ?! 細工職人に?」

「今までで水を飲めた人は、あなたを含め、私は数人しか知らない。それほどまで貴重な水なのです。はい」

「数人、ですか……」

「ええ、中には水が出ないことに腹を立て、クレームを言ってくる人までいるほどなのです。はい」

 柳瀬は感心するように何度もうなずいた。

「へぇ、よっぽどこの水は貴重なんですね」

 水筒をみつめ、揺らしてみると小さい音が聞こえてきた。

「のどが渇いた時には、人間ならだれしも、欲しがるものだからですよね」

 そういうと、柳瀬は水筒の飲み口をかたむけ、少しだけ水を飲み始める。のどがぴくりと動き、思わずさわやかな表情になった。

「おいしい!」

「どうですか?」

「うん、甘みがあってすごくおいしい。のどが渇いていたせいもあるのかしら」

 急に柳瀬は、立っていられないほどの眩暈めまいが襲いはじめる。

「えっ……」

 どうしたのかしら、と彼女は頭を抑え椅子にもたれかかる。瞼がおもくなり、眠りについてしまった。



「お客さん、お客さん、お客さん」

 肩を軽くたたかれ、柳瀬は白熱灯のもと、目を覚ました。あたりはすでに暗くなりかかっていた。

 休憩所にいた駅員とはちがう制服姿のわかい駅員が、柳瀬の顔をうかがう。

「こんな外のベンチじゃ、風邪をひきますよ」

 目をこすりながら、柳瀬はおぼろげにあたりをみる。

「あれっ!? わたし……」

「よほど、お疲れのようだったみたいですね」

 クリーム色の水筒を駅員が柳瀬の手のひらにしっかりと乗せた。

「忘れ物ですよ。これからは気を付けてくださいね!」

「あ、あの」

 駅員が柳瀬に振り向く。

「わ、わたし、眠っていましたか?」

「ええ、駅に走りこんできたと思ったら、しばらくしてこのベンチで眠り込んでいたようですね」

「で、でも、水筒は?」

「水飲み場のところに置かれていました。無意識のうちに赴いて、出ないことを知った後、あきらめてここで眠ってしまったようですね」

「で、ない?」

 駅員のいいように黙ったまま柳瀬は、口を開けたまま呆気にとられた。

 駅舎の中をながめた柳瀬はおどろいた。柱の隅に設置された水飲み場があった。公園によく設置されている蛇口でまわして水がでるのと、上方には直接口をつけて飲めるタイプの飲み場である。ただ、両方とも水がでないように針金で固定されていた。

 

 柳瀬は昼間の駅舎と雰囲気がちがうことに驚かされる。昼間になかった売店横に自販機が設置され、立派ともいえる休憩所の看板もなければ扉もなかったからだ。


―――どういうこと? 昼間、わたしが入った駅舎とちがう


 柳瀬は訊かずにはいられなかった。

「駅員さん、ここって少し広めの休憩所ってありますか?」

「休憩所、ですか?」

 奇妙なことをいう人だ、と思われたのか駅員は考え込んでいた。

「休憩所、というか少しの間、休むのであれば設置されたベンチに腰掛けてもらうぐらいで、ほかにはありませんが……休憩所がどうかされたんですか?」

「あ、いえ、いえ」

 と、大きくかぶりを振り受け流した。

 あの休憩所はなんだったのか、と柳瀬は茫然と立ち尽くした。


 まぶしいほどのライトを照らし、列車が近づいてきた。電車が到着する警笛が聞こえてくる。

「そろそろ、18時になりますが、お乗りになるんですよね? 電車」

「あ、はい……」

 柳瀬はベンチに置いていた荷物をかかえ、水筒をバッグのポケットへ差し込んだ。中からちゃぽん、と音がする。だが、彼女は気づくことなく電車に乗りこんだ。


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