楽器_ハーモニカ 後編
ひとり、
家に向かう途中、河岸がみえてきた。だが、驚いたことに増水しているはずの川が、穏やかであった。
雨があがってから数時間も経ってないはず、とノゾミは違和感を持った。
遠くの山に沿って虹が出ていた。ノゾミは自転車を降り、しばらく虹をながめる。
懐かしいとばかりにジュンを捜しながら、昔、彼とハーモニカを練習した場所へと自然にあしが向いていた
ふと、ハーモニカらしき音が川岸の方向から聴こえてくる。どことなく彼女にとって聴きなれたメロディであった。
「だれか練習している人がいるのかしら?」
ノゾミは独り言でつぶやきながら、メロディに誘われるままに歩いていく。
リズム感や音程がすこしズレのある未熟なメロディが、ノゾミには
草木に囲われた拓けた場所から、ふたりの子供の声が聴こえ始めてくる。言い争っているようだった。草むらからノゾミは、子供の声のする方を覗き込んだ。
「ちがうわよ、ここは吸うところで、こっちは吐くところでしょ」
ショートヘアの女の子が強い口調で、となりの男の子に何かを教えている様子である。
「もう、いいよ。俺たちには難しすぎるんだよ!」
男の子がふてくされ気味に口を尖らせた。
「みんなを驚かしてやろうって言ったのは、あんたでしょ!」
「難しすぎるんだよ。だいたいなんで学芸会でハーモニカの演奏なんかしなきゃいけないんだ!」
―――学芸会? 私の学校と同じ?
「香崎、俺、そろそろ行っていいか? サッカーの練習、サボってきたんだから」
「ジュン! まだ、始めたばかりでしょ!」
子供たちのやりとりにノゾミはおどろいた。自分の通っていた学校と同じように学芸会でハーモニカを演奏する劇があるとは。
少女が半分あきれ顔で少年を見つめている。
「あきらめるつもりなの?」
「ンなこといってもよぉ」
ノゾミは子供たちに近づいて、
「諦めちゃだめよ!」
いきなり現れた大人に子供たちは全身をぴくりと震わせる。
「お、オバサン、誰?」
少年はおどろいた表情でいる。隣の少女も不安な顔つきだった。
―――オバサン……? せめて、お姉さんと言ってほしい
「怖がらせてごめんなさい。でも、あなたたちのメロディを聴いていて、どうしてもアドバイスがしたかったの」
少女が食い入るようにノゾミに近づいた。
「お姉さん、ハーモニカ、吹けるの?」
「うん、これでも海外で活躍しているくらいなのよ!」
「マジかよ!?」
「うん! マジ、マジ!!」
ノゾミは笑みを返した。まるで子供の頃の自分をみているようだと思った。
ノゾミが懐からジュンのハーモニカを手にすると、手始めにドレミファソラシドを軽く奏でた。子供たちはノゾミの上手さに感動してか、プロらしい曲を奏でてほしいと要望してくる。疑いを持っていたようだった。
「じゃあ、『Somewhere Over The Rainbow(虹の彼方)』って曲でもいい?」
香崎という少女が、まるで知っているかのような顔になる。
「もしかして、昔の映画の中で歌われた外人の曲?」
「うん、最近だとミュージカルでも歌われている曲だったかしら?」
ジュンという少年が、少女に訊ねた。
「難しいのか?」
「うん、私も何度か練習したんだけど、音程の強弱が難しいの。それに肺活量がものすごく必要なんだから」
ノゾミは唇をハーモニカにあて、メロディを頭の中で想像しながら首を上下に傾けつつ、演奏しはじめた。呼吸をなんども上下させ吸ったり吐いたりを繰り返した。
少女は、うっとりと聴き惚れていた。
吹き終わるとふたりが拍手をする。
「ねぇちゃん、すげぇな!」
「ステキ!」
ノゾミはハーモニカを片手に、ここに赴いた理由を改めなおした。
行方不明のジュンを捜すつもりが、つい子供たちに自分の得意とする曲を披露するはめになるなんて、とつい仕事柄、雰囲気で演奏してしまったことに反省の念をいだいた。もしかすると
「ねぇ、あなたたち、この辺で私と同じくらいのお兄さん、みかけなかった?」
先ほどまではしゃいでいた声がなくなっていた。
少年、少女が、抑揚のない顔つきで人差し指を、ノゾミの後ろにいる誰かに差していた。
「えっ!?」
黙り込んでいる子供たちにノゾミは後ろを振り返った。
そこには十センチほど身長差のある口ひげを生やした男性が立っていた。おもむろに男性はノゾミの肩を両手でつかんだ。
「ノゾミっ! ノゾミっ!! たのむ、眼を覚ましてくれ!! ノゾミィ! ノゾミィィィ!!」
救急車のサイレンの音が鳴りひびいた。
「私……いったい?」
ノゾミは簡易ベッドに寝ていた。傍らには生命維持装置の機器が備わっている。
肩をがっしりと掴んでいる男が、ノゾミを見つめている。刹那、男は歓喜な顔つきで外へと出て行った。興奮している様子である。
「先生っ、せんせいっ!! ノゾミが、ノゾミが……!」
ところどころ、ノゾミの体には泥や土が残っていた。
ノゾミはゆっくりと身体を起こす。
身体がおもい。全身が倦怠感に襲われる。腕や足に痛みがはしった。頭にもいたみがともなう。いったい、私はどうなっていたのだろう、とノゾミは混乱していた。
「気が付かれましたか?」
看護師らしき女性が声をかけてくる。
ふたたび、口ひげの男性と白衣姿の男性が入ってくる。
「ここ、は?」
「仮に作られた救助用テントの中です」
「テント? えっ?」
ノゾミには信じられないでいる。どういうことなのだろう、という驚きの表情だった。
「ノゾミ。無事でよかったっ!」
口ひげの男性が、両手でノゾミの手を握りしめている。
「あ、あの……」
男性は親指で自分自身を差し、
「おい、口髭生やしてるからって俺の顔、忘れたなんてなしにしようぜ! かつてのセッションの相棒の顔をよ」
男は残念そうな声と顔でしょげている。
「か、か、かわくさ、くん、なの?」
「俺の顔、そんなに変わったか?」
頭を掻きながら、照れくさそうに川草が、
「久しぶりだけど、そういう言い方はやめようぜ! 今まで通り、ジュンでいいよ!」
ノゾミはいまだに不安な顔つきになっている。状況が分からなかったからだった。
「でも、どういう?」
「おまえ、無意識のうちにハーモニカを吹いていたみたいだな」
「えっ? 意味、わかんないよ」
「お前とは入れ違いに俺は、公民館から忘れ物をとりに家へ戻ったんだ! だけど、もう一度公民館に行こうとした直後に、大きい地鳴りが響いて……」
「雨の影響?」
河草はうなずいた。
「おそらく。それで真先に公民館へ向かったんだけど、土砂で埋もれているのを目の当たりにした」
「埋もれた?」
―――まさか、そんな……
「残念だけど、埋もれた人が次々に遺体で……」
「じゃあ、あれは……ゆめ? だった?」
「ゆめ?」
「うん、ジュンを捜しに」
ノゾミは、夢の内容を川草に話した。捜しに川岸で少年と少女に出会い、ハーモニカの曲を演奏したことを事細かに説明する。
「俺の? ああ、たしかに公民館に忘れていった。もう一度行くつもりだったから」
「それじゃ、公民館での演奏も……」
「延期か中止するしかないかもな……けど、おまえが無事でよかった。土砂の中からあの曲が聴こえたときは、鳥肌もんだったぜ!」
「あの学芸会で演奏した『オズの魔法使い』の曲のこと?」
「そう、そうだ。『Somewhere Over The Rainbow』だったか?」
「だって、さんざん練習したじゃん! 私なんて映画とかミュージカルまでみて覚えたくらいなんだよ」
「だよな?」
何かを思い出したのか、河草はちょっとまってろよ、とつぶやくと。テントから外にでて、小さなケースを持ってきた。
河草は小さなケースをノゾミの体に軽くつつく形で渡す。
「本当の相棒も、忘れられずに助けることができて、俺もひと安心だ!」
彼の言葉にいぶかしく首を傾げた。
ちいさなケースを開けると銀色のハーモニカが、さびしげにノゾミの顔を見ているようだった。
ノゾミは嬉しく微笑んだ。
完
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