ひとりの女性が廊下を歩いている。まだ若く美貌にあふれた顔立ちだった。

 一つ一つの教室をゆっくりとした面持ちで思い出に浸りながら、時折まどの外を眺めている。

 女性は、正式に赴任したばかりだった。新米教師として、これから生徒たちと関わっていかなければならないという一抹の不安が過ぎる。しかし、いい面もあった。赴任先が地元の母校であり土地鑑や知り合い、それに旧友もいたからだ。

「ここね!」

 懐かしいとばかりに六年ニ組の教室を覗き込む。小学校の教室独特の匂いが、本間由佳ほんまゆかの鼻を刺激した。十数年前の自分がよみがえってくるようだった。


『約束、だからな……』

 声がしたような気がした。生意気顔の男の子が浮かんできた。




「どぉして、どうしてよ!!」

 小学校六年生の由佳が廊下で叫んでいた。授業が終わりクラスメートたちが帰る間際だった。

 クラスメートの男の子が、ムスッとした顔で彼女を睨みつけている。手には赤い背表紙の本を持っている。『ガリヴァー旅行記』という字が見えた。

 不本意とばかりに頬をふくらませる。あくまでも対抗心をむき出しに反論していたのだ。

「先に俺が借りたんだから、順番はあたりまえだろ!」

 坂成陶冶さかなりとうやが強い口調で口を尖らせている。

「だからって、貸し出し期間は一週間でしょ? 一週間以内に読み終えるって約束でしょ?」

 彼女のむきになる強い反論を、周囲の居残っていたクラスメートがみていた。

 教室の手前の廊下で争っていたためか、隣のクラスからも居残っていた児童がでてきた。数人の児童が、職員室に行ったようだった。

 恰幅かっぷくのいい体格で、メガネをかけた中年男の教師が、

「こらぁ! 何の騒ぎだ!」

 睨みを利かせた教諭に子供たちが走り去っていった。教師は本間由佳のクラスを担当している岩熊いわくまという。ふっくらとした顔とは裏腹に、怒ると熊がえるように荒声を上げるのが特徴だった。

「本間! 坂成! いったい、どうしたっていうんだ!」

 由佳は教諭の荒声に身体をふるわせ、怯えた顔になった。坂成は慣れているためか、ランドセルを担ぐと廊下を走り去っていった。

「おい、坂成。待て!」

 教師のいう事を聞かず。坂成の姿がきえる。まったく、と小声で呟いた。



 由佳はひとり職員室へとよばれた。

 岩熊教諭がゆっくりと椅子に腰を落とすと、目の前のうつむく少女をみつめる。

 黙ったままの由佳に威厳の顔で覗き込んでくるコワモテの教師が、彼女の言葉を待っているようだった。

 由佳にとってはコワモテの岩熊が苦手だった。顔もさることながら恐ろしい存在に見えていたのだ。

「いったい、何があったんだ? 図書室の本で言い争いになるなんて」

 低く図太い声だが、優しさがみえた。

 職員室の入り口には、彼女の数人の友達がいた。強面コワモテの教師に連れて行かれたことで様子を見にきたのである。心配そうに見ていた。

「普段はおとなしいお前も、読みたい本を目にすると、どうしてそんなにムキになるんだろうなぁ」

 由佳にはすこしとげのある言い方だった。教師には悪気はないようだ。机に向かい何かをしたためはじめる。

「先生、わかってるじゃん」

 由佳がつぶやいた。

 ん? と、訝しく彼女に向き直ると岩熊教諭は、メガネを押し上げ首をかしげる。

「坂成くんが、と言ってて、守らないから抗議してたんです」

 語気を強くして由佳は、教諭の双眸に心のうちを訴えかけていた。

「そうか、坂成が守らなかったんだな。本間、そのことを、明日もういちど、みんなの前で発表できるか?」

「はい! でも話すのはいいですが、長くなると思います」

 長くなるのか、と教諭は腕を抱えてかんがえている。

 膝を叩き、

「よし、先生が時間を調整してなんとかしよう!」

 はっきりした口調で岩熊はこたえた。


 翌日の帰り間際だった。

 岩熊は、クラス全員をまえに厳しいまなざしをみせる。彼自身の基本方針なのだろう、生徒児童と向き合うことで一人ひとりの個性を育てるという姿勢のようだった。

 教師は、昨日の出来事を簡単に説明し議論をはじめた。本間と坂成が言い争いになっていた出来事である。

「本間、昨日のことをみんなの前で話せるか?」

 由佳は教諭のことばにドキリとしたが、弱いところをみせまいと進んで席を立った。彼を一瞥すると教壇の前に来た。

 彼女は緊張していた。胸に手を当て、三十数人いるクラスメイトの前で深呼吸をする。

「先生、昨日のことを話す前に、一週間前のことを話さないと辻褄が合わないので話します」

 教室内に沈黙が流れる。

 岩熊を一瞥いちべつした後、由佳がクラスの後ろまで聞こえる声で張り上げた。

「ちょうど、一週間前に私は図書室にいました。そこに坂成くんもいたのですが『ガリヴァー旅行記』のことで口論になったんです」

「口論?」

 岩熊が怪訝そうな表情でたずねた。

 由佳はうなずいた。彼女はクラス中の視線を前に、落ち着いた表情で語りはじめた。

「『ガリヴァー旅行記』を一週間以内で読み終えるか、読み終わらないかということで議論になりました。その時の様子は、浜野はまのさんと星宮ほしみやさんが知っています」

 浜野という女子と星宮という女子が小さく頷いた。

「それで、坂成くんがと言ったんです」

 手が挙がったのが見えた。坂成だった。不利になる事を怖れたのか、反論の狼煙のろしをあげる。

「なんだ? 坂成」

 岩熊が指し示すようにいった。

 坂成が渋々と席を立ち上がる。一気に注目が集まった。

「俺にも反論させてください。たしかに、本間さんが言ったことは半分本当のことです。けど、俺は予測を話しただけで、断定はしてないです」

 廊下側の席からヤジが飛んでくる。星宮だった。

「『こんな本読むの、軽い軽い』って言ってたじゃない。ちゃんと聞いていたのよ!」

「外国人が書いた小説だって知らなかったんだよ! それに難しい漢字もあったし」

 不貞ふて腐れながら坂成が反論した。

 岩熊は難しい顔で彼をみて、

「普段から小説を読んでいない証拠だな。坂成」

 岩熊の顔に坂成は、反省の見られる顔で黙っていた。

 由佳が岩熊をみるなり、再び語り始める。

「それで、一週間以内に読み終えるか、終えないかの賭けになったんです。私は乗る気にはなりませんでした」

 小声で坂成は、おまえ、あの時は、とつぶやいたようにみえた。

「で、昨日で一週間ということなのだな」

 教師の問いかけに彼女はかぶりを振った。

「いいえ、です。でも、賭けは『一週間以内』に読み終わるということなので」

「坂成、どうなんだ! 一週間以内で読み終えたのか?」

 坂成は黙ったままだった。間を置き口をとがらせながら、

「読み終えたよ」

「うそよ!」

 叫んでいたのは、中央の列の少しうしろの席にいた浜野だった。

 浜野に向かって坂成が叫んだ。

「嘘じゃねぇよ! 最後にガリバーがって言う馬の国から脱出してイギリスに戻ったんだろ!」

 浜野は反論しなかった。彼女も『ガリヴァー旅行記』を読んでいたのだ。読んだ者にしか知り得ないことでもあったのだ。にわか仕込みのウソかと見破るつもりでいたようだが、彼女は黙ってしまう。

「じゃあ、昨日はどうして、を呟いたの?」

 今度は星宮だった。唇を尖らせて強く訴えているようだ。

「あんなこと? 俺、なんか呟いたか?」

「本を貸さない、みたいなこと本間さんに呟いたでしょ?」

「ああ、あれかぁ」

 と、面倒くさそうな表情で坂成は、頭を掻いていた。

「もう少しで読み終わる、ってところだったから、急いでいたせいで」

 つい、と坂成がこたえた。焦りがあったせいで口走ったようだ。

「あのあと、図書室に行って完読したんだ! 教室じゃ落ち着いて読めそうになかったから。日時制限はしていても、時間制限まではしていなかっただろ!」

 誰も反論するものがいなかった。

 締めくくるように岩熊が、話し出す。

「ふむ、読み終えたとはいえ、おまえは本間の気持ちが分からず、傷つけたことには変わりない。その時々の言葉の選択を考えるべきだったな。坂成、ここに来て本間に謝るんだ!」

 眼鏡の奥の双眸が、坂成に訴えかけていた。

 渋々とふてくされ気味の様子で、坂成は謝った。反省しているようだった。

 由佳は賭けを悔やむことはなかった。むしろ、驚いたほどだった。

 岩熊がふたりで握手をして仲直りだ、と対面させる。

 ふてくされ顔をそむけ気味に坂成陶冶は、岩熊先生にも聞こえないつぶやき声を由佳に呟いたように感じた。

 彼女はそのつぶやきにすこし戸惑い頬を赤らめた。




 ゆっくりと図書室のドアを開けると、ここも変わらないわ、とつぶやき本間由佳が入ってくる。手には赤い背表紙の本を持っていた。『ガリヴァー旅行記』だった。

 テーブルでひとり読書にふける男性がいた。坂成陶冶ではなかった。だが、笑顔は坂成の少年のころとそっくりだった。

「ごめん、棚橋さん。待った?」

 テーブルに本を置くと掛け時計を見て、

「時間通りだね」

「少し早く着いたから懐かしくて自分が通ってた教室、のぞいてきちゃった。まずかったかな?」

 棚橋たなはしサトルは、大きくかぶりを振る。

「緊張してるの? 大丈夫だよ。君のよく知っている人なんだから」

「電話でも言ってたわよね? 今の校長先生がよく知ってる人だって。それに、校長室に呼ばれないで、図書室で対面するなんて」

 本来なら校長室で面会するはずが、図書室で対面するとなると、彼女の中でいろいろと記憶が思い出され、尚のこと緊張感が増しているのかもしれない。

「うん、たしかにそうだね。校長によく君のことを聞いていたから、緊張しないですむと思ったんだけど、かえって逆効果だったかな?」

 私のことを聞いている? と、ひとりの人物が由佳の頭に思い浮かぶ。


―――もしかして?


 ドアが開く音が聞こえてくる。棚橋の瞳孔がドアに向くのがわかった。

 由佳は、棚橋の向く目が扉の方向にいる人物に注がれたことで、振り向き立ちあがった。

「変わらないな、あの頃から。本間」

 聞き憶えがあった。しゃがれた声ではあったが、子供の頃によく聞いていた声だったのだ。

 あご髭と口ひげがびっしりとある男性が、本間由佳に言い寄った。風貌の変わった岩熊を注視した。

「先生!? 岩熊先生なんですか? お久しぶりです。ご無沙汰してます!」

「棚橋くんから、君が教師になったと聞かされてね。まさか、母校に赴任して戻ってくるとはなぁ」

「お元気そうで」

 岩熊は、いやぁ、もう年だよ、と柔和な表情で笑顔を見せる。あの頃のコワモテの顔は微塵もなく、老齢の皺の見える男性だった。

「あの頃はお世話になりました。ご指導いただいたこと身に染みています」

 棚橋も良かった、良かった、と笑みを浮かべる。

「それで、あの」

 と、由佳は少し躊躇いがちに

「私事でお恥ずかしい話なのですが」

 由佳は赤い背表紙の本を差し出した。

「すみません、この本、図書室で借りた本を……返し忘れてしまって」

「ん? 『ガリヴァー旅行記』?」

「はい、あの当時、坂成くんと賭けをした本です。大変遅くなって申し訳ありません」

 深々と由佳はお辞儀をした。

 棚橋が訝しくふたりに問う。

「賭けを? 本間さん、どういうこと?」

 事情の知らない棚橋は、本間に詰め寄って説明を求めている。

 棚橋の態度に岩熊校長は、ハッハッハッ、と口を大きく開けた。

 棚橋はどうして校長が大笑いしているのかが分からず、キョトンとした顔をしていた。

 恥ずかしいとばかりに由佳は黙ったままだった。

「いやぁ、すまん、すまん。棚橋くんにはわからないだろうが、この本は彼女にとって、ちょっとした事件の立役者のようなものだ! ガリバーではないが言うなれば、やっとに帰ってこれた、というところかな?」

 棚橋には、いまだに疑問符が頭の上で踊っているような顔になっている。

「はぁ、あるべき場所……?」

「早速、本棚に戻してきますね」

 席を立ち本間は書架へと向かった。


 書架に戻そうとして、『ガリバー旅行記』の本を開き、背表紙裏に挟んだ一枚の写真を由佳は手に取った。そこには、12歳の由佳と坂成がピースして笑顔でならんでいる姿だった。

 由佳は坂成の顔を指でピンっと弾く。

 じゃあね、と本を本棚に戻すと写真をびりびりに破き、窓から外へとばら撒いた。


                         完

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