腕時計
正午のオフィスビル。仕事場の中で、お昼のチャイムが鳴りひびいた。
午前中、デスクにへばりついていた職員たちが、それぞれに立ち上がる。エレベーターや備え付けの電子レンジの近くへ向かうもの、トイレへと駆け込むものと、さまざまに人の動きが見られた。
ひとりの若い女性は、大きく伸びをすると、巾着袋と300ミリサイズのクリーム色をした水筒を手に、ランチのできるイートインスペースへと向かった。
いつもの昼食場所へ行くと上手いことに窓ぎわで、四人がけの席が空いていた。そうそうと席に腰を下ろす。
女性の名は柳瀬という。
柳瀬は普段取れない場所をとれて嬉しくなった。良い席を取れた、と御満悦の様子である。
高層階で眺めもよかったのだろう。上から下をながめるなどないことだったため、自動車や人の動きが小さく見えていた。
柳瀬のもとへと駆け寄る二十代後半の女性がいた。細縁のメガネをかけた目のクリッと上がった女性であった。
「
同僚の
「あれ? 柳瀬さん、買ったんだ!」
クリーム色の水筒を目にした丹繍がいった。
「うん、最近、小さいサイズが出たからとうとう買っちゃったよ」
丹繍は、コンビニで買ってきたサンドイッチとペットボトルのお茶を取り出す。
同世代で出身地も近かったため、ふたりは気があった。時々、彼女の愚痴を聞くことが柳瀬にとって少し癖になりつつあった。肩まである髪をかき分けるのが彼女の特徴である。
「手作りのお弁当なの?」
「あり合わせだけどね」
突然、すこし遠くで歓声があがる。
「だれか有名な人でも来たのかな?」
と、丹繍は振り向いて人だかりの方を見た。つられて柳瀬もみた。
ひとりの年配の男性に群がる姿があった。ダンディズムを気取ることなく堂々としている。女性社員や若い男性社員と気さくに会話しているようだった。
柳瀬は夜、スマホを長時間使っているためか、遠くがぼやけることがあった。
「どこかで見た顔ね、丹繍さん、知ってる?」
丹繍はサンドイッチを喉につまらせそうになり、お茶で無理矢理押し込んだ。なにをトボけたようなことを言っているの? という顔つきで彼女をみつめる。
「ちょっと、柳瀬さん、覚えてないの?」
「えっ?」
手を添えて丹繍は、人目をはばかりながら小声で、
「ウチの会社の社長でしょ!」
ほおを真っ赤にしてうつむいた。
(しゃ、社長だったの?)
「でも、まさか社長がこんなところにくるなんて」
丹繍は、手を添えて口をモグモグとさせてしゃべっている。彼女は信じられないという顔つきでながめていた。
会話をそこそこに社長とみられる年配男性と隣にいた若い秘書らしい男性社員は、どこか窓ぎわの席で空いている箇所を探しているようだった。だが、どこも四人がけの場所は空きスペースがなく、人で埋まっていた。
若い秘書らしい男性が、柳瀬と眼が合った。となりの社長に耳打ちしている。
社長と秘書らしい男性が、柳瀬の座っている席に向かって歩み寄ってくる。両者とも堂々とした歩調は、何者をも寄せつけない自信がみてとれた。若い男性は、楕円のメガネをくいっとあげ、
「うそっ、柳瀬さん、こっちに来るみたい」
丹繍はすこしひきつった声で緊張しているようだ。
柳瀬は社長の印象もさることながら、一緒に歩いてくるメガネの若い男性にくぎ付けになっていた。
「お嬢さんがた、ここの席、相席してよろしいかな?」
低く渋い声が届いてきた。
「は、はい!! ど、どうぞ!」
うわずった声で丹繍がいった。
正気に戻った柳瀬は、うつむきながらも少しずつ食事を進めている。
「そんなところに立ってないで、
「はあ……」
背広姿の秘書らしい男性が、水筒に眼をやり柳瀬をちらりとみて視線を逸らす。楕円メガネの彼が高堂というらしい。女性の前で緊張しているようだ。
「では、失礼して」
高堂はバッグからサンドイッチと柳瀬と同じ柄、同じサイズの水筒を取り出した。食事時には、腕時計を外す癖があるのだろうか、テーブルにそっと置く。
「あらっ? 水筒の色が柳瀬さんと同じなのね」
と、丹繍がおもわず声を上げる。
「たまたま、ですよ」
冷静な口調で高堂はこたえた。
柳瀬と高堂がとなり合わせになり、向かい側に丹繍と社長が座る配置になった。
社長は気さくに丹繍とおしゃべりを楽しんでいるようだった。時折、高堂に同意を求めたり柳瀬に会話を振っている。
高堂は腕時計の時間をしきりに気にしているようだった。おもむろに彼は内ポケットから手帳を取りだしひろげ始める。スケジュールを確認しているようだ。そのとき、ふわりと落ちるものがあった。だが、柳瀬も高堂も気がつかなかった。
「社長、午後からは会議がありますので、そろそろ……」
楽しい会話を高堂が水を差す。
「高堂くん……」
社長が渋い顔になり掌を広げ、制した。
「君はいろいろな面で優秀だ、と私は思うのだが、その場その場の雰囲気に見合った言葉を学んで欲しいものだな」
柳瀬と丹繍を見据える。
「いやはや、ステキな女性たちを前にして楽しい会話を台無しにしてすまん。女性陣の久しぶりの雰囲気に夢中になってしまった」
と、社長は照れ笑いを浮かべた。
高堂は眼で訴えかける。社長も
社長と高堂はたちあがると、
「お嬢さんがた、久しぶりに楽しい会話をさせてもらった。これで失礼するよ」
柳瀬と丹繍は立ち上がり、社長と高堂をその場から見送った。
柳瀬は、緊張感が一気に解けたように、疲れた表情で椅子にもたれかかる。深いため息がでた。
「柳瀬さん、かなり緊張していたみたいね。全然、会話に参加してなかったでしょ!」
「だってさぁ……」
柳瀬はあとの言葉に詰まった。隣で真剣になっている高堂が、あまりにも気になりすぎていたのだ。時折見せる
すぐに座らなかったのは、おなじ水筒であることへのちょっとした偶発的な驚きだったのだろう。
柳瀬は、テーブルをウェットティッシュで綺麗に拭いて引き上げようとした時、高堂が座っていた席をふと見た。そこにはあからさまに腕時計が残されていた。
「柳瀬さん、どうしたの?」
「これって、高堂さん、のよね?」
首をかしげ、腕時計を拾い上げた。
まっすぐ柳瀬に近づいてきた男がいた。高堂だった。
「柳瀬さん、ここに、時計がありませんでした? 腕時計が」
「これ、ですよね?」
「よかった。どうもありがとう」
「どういたしまして」
高堂は素早く名刺を腕時計と引き換えに渡した。
じゃぁ、とこたえ
間近で見ていた丹繍が、隣でボソリとつぶやいた。
「ねぇ、彼ってさ、腕時計をわざと置いていったのかな?」
「えっ?」
「だって、おかしいと思わない? しきりに時間を気にしている人が、椅子の上に置き忘れると思う?」
たしかに言われてみれば、と柳瀬は不可解な疑いの顔をする。
「もしかして、あなたに名刺を渡すために置き忘れたのかもね」
名刺の裏には、手書きで携帯番号が書かれていた。
「案外、そうだったりして?」
笑顔で柳瀬はこたえた。
完
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