9-4

 新居への引っ越しが完了した。結局、崇は二人の反対を押し切り、旧事務所、つまり、これまで住んでいた宗男のアパートに残ることになった。三人で執り行うはずだった引っ越し祝いのささやかなパーティーにすら、何かの用事が有るとかで欠席している。結局、恭子と宗男の二人切りの時間が久しぶりに訪れ、妙にシンミリした、それでいて嬉しい様な楽しい様な複雑な時間を共有していた。だが、そんな時間は長くは続かなかった。この妙な雰囲気を持て余すかのように、「先にお風呂入るね」と言って恭子が席を立ったのは、およそ10分ほど前だ。真新しい家具に囲まれた真新しいリビングに一人取り残された宗男は、ソファーの上で「うんっ」と伸びをするとそのままの姿勢で、まだシミ一つ付いていない天井を見上げた。

 「最近、いろんなことが有ったなぁ・・・」

 かつての同僚、森が仕事を失おうとしている時に、自分は随分と忙しくしている。人生なんて判らないもんだ、そんな風に思っていると、浴室から恭子が出てくる音が聞こえた。しかし恭子はリビングには戻らず、「宗男もお風呂入っちゃいな」と廊下の奥から声を掛けると、そのまま自分の寝室へと引き上げてしまった。風呂上がりの潤んだ肌に包まれた恭子の美しい姿を見たいと思っていた宗男は、少し残念な気持ちで「判りましたー」とだけ答えた。そしてコップに残っていたビールを飲み干すと、「よしっ」と言って立ち上がり、自分も風呂へと向かった。

 その時だ。宗男がリビングから出てくるのを待っていたかのように、恭子が寝室から声をかけた。

 「宗男、チョッと来て」

 何だろう? 宗男は呼ばれるままに恭子の寝室へと向かった。しかし、無遠慮にドアを開けるわけにもいかず、宗男はドアの前で立ち止まった。そして遠慮がちにノックする。コンコン・・・。

 「どうしました、恭子ちゃん?」

 「いいから入ってきて」

 ドア越しの、少しくぐもった声が再び聞こえた。宗男はそっとドアノブに手を掛けると、それをゆっくりと回した。女性の寝室に入るなど、宗男にとっては初体験だ。緊張するなと言う方が無理である。

 「お邪魔しま~す・・・」

 ドアから顔だけを差し込むと、部屋の電灯は消されていた。ベッド脇のスタンドのみが、その周りをやんわりと照らし出している。恭子は言った。

 「中に入って」

 宗男は催眠術をかけられた哀れな被験者のように、フラフラと部屋の中へと吸い込まれていった。

 薄暗い部屋において、そこだけが柔らかな光に浮かび上がり、ベッドの上を暖かな春の楽園のように演出していた。その楽園の中に横たわるのは恭子だ。シーツを胸の上まで引き上げて、片肘を付いた姿勢で宗男を見詰めている。彼女の抑揚に富んだボディラインはシーツごときで覆ったところで、その優美な曲線を包み隠すことなど出来ない。その滑らかな、そしてある意味・・・・慣れ親しんだ姿を見て、宗男の下半身はパキンッとなった。

 「私、まだるっこしいのは嫌いなんだよね」

 「は、はい?」

 何か、とんでもないことになっている。宗男は阿呆のように口を開け、酸素を求めて浮かび上がった鯉のようにパクパクさせた。

 「判ってるでしょ?」

 「は、はは・・・ はい・・・」

 宗男はモジモジした。こんなことが有っていいものだろうか? これは神が与えたもうたアレなのか? それとも意地悪な悪魔のナニなのか? ひょっとしたら、今にもクローゼットの中から、『ドッキリ!』と書かれたプラカードを持った崇が現れて、「ジャンジャジャ~ン」となるのではなかろうか。だって、こんなに綺麗な女性と、そういう事になったことなど無いのだから。宗男の経験・・は、全て商売女相手のものだ。どうしたらいいのか、サッパリ判らない。

 「女に恥かかせる気!? さっさと服脱いで来なよ!」

 「はいっ!」

 急いで服を脱ぐ宗男。いつもだったら何の問題も無い腰のベルトも、今日に限って難解な知恵の輪のような複雑さを備えていた。焦れば焦るほど、ベルトは宗男の腰に絡み付き、「うんうん」言いながらなんとかして全ての衣服を脱ぎ捨てると、宗男は恭子が横たわるベッド脇に立った。その全裸姿は、両手で股間を押さえながらショボクレる貧相なオヤジそのもので、思わず恭子が声を荒げた。

 「シャキッとしなよ、シャキッと! はい! 気を付けっ!」

 女教師に叱られる子供の様に宗男はビクッとし、ピンと伸ばした両手を体の横に添え、直立不動の姿勢でギュッと目をつむった。すると、両手で抑え込んでいたパキンパキンがピョコンとおっ立った。それを見た恭子はクスリと笑うと、自分を覆っていたシーツをバサリとめくった。宗男が恐る恐る薄眼を開けると、そこには最初にドローンを通して見た恭子の裸体が横たわっていた。あの当時よりは肌の色も褪せ、元々色白だった素性が際立ち始めていたが、それは紛れもなく、あのマンションのベランダからドローンのカメラを通して覗き見た恭子の身体であった。その美しくも艶めかしい身体が今、宗男を求めていた。恭子は抱っこをせがむ子供の様に両手を広げた。

 「早く来て・・・ 宗男・・・」

 頭に血が上った宗男は訳が判らなくなり、プシューッっと鼻から熱い息を吹き出した。そしてオリンピックの水泳選手の様にジャンプして頭から飛び込むと、その弾みで恭子の身体がベッドから転げ落ちた。


*****


 新居で迎える朝は格別だった。淡いクリーム色の壁がカーテン越しの柔らかな光を反射し、寝室に優雅な時間と空間をもたらしていた。宗男が左を見ると、腕枕をしてもらっている恭子が、スヤスヤと平和な寝息を立てていた。どうしても我慢できず、宗男は恭子の鼻先をチョンと突いてみた。恭子は少し煩そうに顔に皺を寄せたが、まだ目は覚まさない。意地悪心が芽生えた宗男は、今度は鼻を摘まんだ。だたし優しくだ。すると恭子は、さすがに安眠を妨害された風に「うう~ん」と唸り、そしてうっすらと目を開いた。夢心地で目の前に迫る宗男の顔を見ても、その意味が理解できないようなボンヤリした顔をしていたが、そのうち昨夜の流れ・・を思い出したのか、その顔に覚醒された意識の作用が現れ始めた。恭子は柔らかく微笑んだ。

 「おはよう・・・ 宗男」

 宗男も微笑み返した。

 「おはよう、恭子ちゃん」

 恭子はクスクスと笑った。宗男も笑った。そして二人の間に生じていた僅かばかりの隙間を埋めるように、恭子がピタリと身体を寄せて宗男の左肩に頭を乗せると、抱き付くような姿勢になって再び目を閉じた。二人は朝の気怠いベッドの中で、新たに培われた絆の余韻に浸っていた。

 「今回は恭子ちゃんが大活躍でしたね」

 宗男が恭子の頭に頬を押し付け、その甘い香りを感じながら言うと、恭子はパチリと目を開けた。

 「当たり前じゃん! いきなり車を降りて、居なくなっちゃうだもん。ビックリしたわよ。いったい何処行ってたのさ?」

 といっても、別に怒っているわけではなさそうだ。むしろ楽しそうに、宗男の大きな胸の上で左手を弄んでいる。

 「何処って、たまたま知ってる人を見つけたもので・・・」

 「知ってる人? 増田さん?」

 「いいえ、増田さんではありま・・・ ああああっ! 増田さんんんっ!」

 身体をビクンと硬直させ、目をカッと見開いて恭子の顔を見た。かつてのサラリーマン時代のクセが再発したのだ。大切な要件を直ぐに忘れてしまう。恭子は意味が判らず、その顔を見返した。

 「何よ、いきなり大声出して?」

 「皆に相談しなきゃいけない、大事な要件を忘れてました!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る