第九章:それってドローン規制法違反?

9-1

 充血した目の恭子が一人、助手席で結花のアパートから駅へと向かう小道を睨みつけていた。何かにとり憑かれたかのような表情だ。そんな恭子の気も知らず、宗男は運転席でウトウトしていたし、崇は後ろの荷室の隅で毛布を被って丸くなっている。別に、一緒に起きていてくれとは言わないが、宗男のその腑抜けた寝顔を見ていると、何だか腹立たしい想いが沸き上がるのを止められないのであった。その恭子の視界に南川と結花が連れ立って現れたのは翌朝の10時頃。南川の左腕に絡みつく結花の顔は満面の笑みに彩られ、彼氏とのデートに有頂天な女の子そのものだ。恭子は宗男の肩を揺すった。

 「宗男! 起きて! 来たよ!」

 「う・・・ん・・・ もうちょっと寝かせて下さい・・・」

 一瞬で恭子の頭に血が上った。気が短いのは生まれつきだ。恭子は宗男の方に身体を向けると、運転席側のドアのロックを外し、左足で思いっきり宗男の脇腹を蹴った。

 「寝ぼけてんじゃないわよっ! 何とかしなさいよ、宗男っ!」

 「うぁっ・・・」

 蹴られた弾みでドアが開き、宗男が道路に転がり落ちた。ゴロゴロと転がった宗男は、痛打した腰を抑えながら顔を上げた。「イテテテテ・・・ 何もそこまでしなくても」と言おうとした時、その場まであと数メートルにまで迫っていた二人と目が合い、宗男は思わず「あっ」と声を上げた。南川と結花はあっけにとられ、突然、車の中からこぼれてきた男を前に立ちすくんでいる。その瞬間、宗男に何かが降りてきた。後先のことなど、何も考えてはいなかった。

 「南川ぁぁぁぁぁっ! お前には婦女暴行容疑が掛かっているぅぅぅっ!」

 宗男の絶叫に二人がひるんだ。だが驚いたのは二人だけではない。普段は決して大声を上げたりしない宗男が、港南台の閑静な住宅街に響き渡る咆哮を上げたのだ。恭子は助手席から目を丸くした。後ろで寝ていた崇も、スマホの地震速報に無理やり起こされた時のように飛び起きた。

 南川は左腕に絡みつく結花を振り払うと、脱兎のごとく駆け出した。一瞬、虚を突かれた結花はどうしようか迷った末に、南川とは逆方向に向かって逃亡。宗男はとっさに南川を追った。それを見た恭子は運転席に移動すると、6号機のエンジンをかけた。キュルキュルとタイヤを鳴らし急発進した6号機が、南川を追う宗男を追い越す際、恭子が窓から声を掛けた。

 「私たちは結花ちゃんを追うから!」

 宗男は「判った」という意思表示として左手を上げると、入り組んだ住宅街を右へと曲がって消えた。6号機はそこで左折し、宗男と分かれて結花を追った。


 20台前半の若者と40過ぎのオッサンでは、勝負は初めから見えている。グリーンのブルゾンを着た南川の背中はどんどん遠くなり、角を曲がる度にその差は開く一方だ。「こんなことなら、やっぱりダイエットしておけば良かった」と、宗男の心中には絶望の文字がヒタヒタと押し寄せてきた。全身の筋肉が要求する酸素を十二分に供給するだけの性能は、宗男の肺にも心臓にも備わっていなかった。脳にすら必要な酸素量を供給出来てはいない。終いには、生命の危機と判断した脳が手足への酸素供給を遮断し、生命維持に必要な重要器官の温存を図った結果、パタリと足を止めた宗男はその場にヘナヘナと座り込んでしまったのだ。目に流れ込む汗が視界を奪う。酸素不足の脳も、的確な判断能力を失っている。その霞んだ目と頭は、走り去る南川の後姿を陽炎のように捉えていた。

 「やっぱり無謀だったか・・・」

 宗男の身も心も全ての戦いに敗れ、何者かに屈服しようとした時、揺らめく視界に黒々とした何かが現れた。「何だろう?」朦朧とする宗男が必死にその答えを見つけようとしても、カラカラに乾いて柔軟性を失った脳からは何の反応も帰っては来なかった。その黒い物体はユラユラと現れたかと思うと、緑色の物の周りにスッと集まった。それはまるで、小学生の頃の理科の実験で行った、磁石に吸い寄せられる釘のようだと宗男は思った。

 実際のそれは、無論、磁石の実験などではない。逃亡する南川が、筋骨隆々の逞しい男たちに取り押さえられている現場であった。その事を宗男が理解するまでに、悲鳴のような深呼吸を更に数分間、続ける必要が有った。スタックした車が泥濘から這い出すように、宗男の脳が何とかして活動を再開すると、南川を取り押さえているのが私服刑事たちであることが、おぼろげながら確認できた。刑事の中の一人は、くしくも宗男と同じセリフを吐いている。勿論、冷静な口調だが。

 「南川道夫。お前には婦女暴行容疑が掛かっている」

 おそらく、南川の容疑はまだ固まっていないだろう。従って、今の警察に出来ることは任意同行くらいのはずだ。だが、駆け続ける南川に刑事が声を掛けた時に、奴が走ることを止めなかったとしたら・・・ きっとそれだけで公務執行妨害的な容疑に切り替えて取り押さえることが可能なのかもしれない。やろうと思えば、その程度のことはやるのが警察である。宗男は乱れる呼吸を整えながら、そんなことを感じた。そしてその刑事たちの中に、あの鬼頭の顔が混じっていることに気付いた。合点がいった。彼らマル暴の刑事たちであれば、それ位の荒療治も躊躇はしないだろう。

 所詮、親の脛をかじって、学生気分のまま犯罪行為を繰り返しているだけの幼稚な人間だ。思慮の浅い子供と同じで、刑事たちに向かって口汚く罵ることも出来ず、蒼白な顔で自分の身に起きていることを理解しようと、周りを取り囲むガラの悪い刑事たちをただ黙って見上げることしかできなかった。ひょっとしたら小便すら漏らして、ご自慢のダメージド・ジーンズにみっともない染みを作っていたかもしれない。刑事たちに抱えられるようにした南川が覆面パトカーに連行されていくと、道路の真ん中に座り込む宗男に向かって、鬼頭が親指をグィと押し立ててた。あの凶悪な面をした刑事、実は意外にいい奴なのかもしれない。宗男はそんなことを思いながら、フラフラと立ち上がった。


 「今どこ?」

 結花が逃げ去った方向に漠然と向かいながら、宗男はスマホに話しかけた。返ってきたのは崇の声だ。

 「今、国道に出たところ! NTTのデカいタワーが有る辺りっ! あの娘、俺たちをまこうとしてグルグル回ったから、まだそんなに遠くには行ってないよ!」

 「オッケー。じゃぁ、この前食べたラーメン屋の近くで拾って下さい。大至急、そっちに向かいますから」

 「ラジャー! お姉ちゃん! あのラーメン屋に向かえだって!」

 スマホを通して、恭子の不満げな声が聞こえた。

 「んん~、その間に結花ちゃんを見失っちゃうじゃん! まっ、しょうがないか。崇! Uターンするから掴まってて!」

 スマホを切ると、宗男は再び走り出した。この件が片付いたら、もう二度と走るものかと、宗男は心の中で叫んだが、ヤマブチに勤めていた頃は、毎朝、駅に向かって走っていたことを思い出した。あの頃は、あれでも少しは健康に良かったのかもしれない。

 国道に出た宗男が辺りを見回すと、二つばかり先の交差点で、6号機がこちらを向いて信号待ちしているのが見えた。宗男は手を振りながら歩道を歩きだす。助手席に座る崇も宗男の姿を認めたようで、こちらに向かって指差しているのが判る。そして直ぐ横に急停車した6号機に宗男が転がり込むと、崇はシートの間から荷室に移動して席を譲った。直ぐさま車を出した恭子が問いかける。

 「あのゲス野郎はどうなったの?」

 「奴は神奈川県警に拘束されました。それより今は、結花ちゃんを追いましょう」

 南川の身柄が拘束されたことで、当面は結花の身に危険は無い。従って、今無理をして彼女を追う必要は無いのだが、南川の仲間が結花に接触してくる可能性は捨て切れない。恭子も崇も、このまま結花を追うことに異論は無かった。

 「恭子ちゃん! ドローンを飛ばします!」

 「えぇ!? 今!?」

 「そうです。ドローンを使って、空から探索しましょう!」

 「さっすが、兄さん! 頭いいっ!」

 「操縦は任せて下さい。崇くんはモニターで結花ちゃんを探しつつ、送られてくるGPS情報からドローンの位置を恭子ちゃんに伝えて貰えますか? 恭子ちゃんは事故らないように運転に集中して、ドローンのなるべく近くをキープして下さい。あまり離れちゃうと、コントローラーが利きませんからね」

 「オッケー!」

 恭子は今ほど、宗男のことを頼もしい・・・・と感じたことは無かった。ただそれを口にするのが恥ずかしくて、黙っておくことにした。おそらくそれは、崇も同じだろう。MKエアサービスはチームなのだ。そして宗男がそのリーダーであることが、今明確な形となって三人の前で実体を持ち始めたのだ。ただ、当の宗男だけは、そんな感覚に浸っている余裕は無いようだ。

 街中でドローンを飛ばすのは、法規的に問題が有ることは判っている。しかも今は真昼間だ。いつもの闇夜に紛れた飛行と異なり、場合によっては警官の目に留まるリスクも考えねばならない。その証拠に道行く通行人には、頭上を飛び去るドローンを指差しては物珍しそうに眺める者も居た。だが、その存在に気付くのはほんの一部で、大部分は空を見上げることなど無いようだ。おそらく、蝶々が飛んでいても、トンボが飛んでいても、人々は気にも留めないなかもしれない。

 大通り沿いに6号機を移動させながら、宗男たちはドローンを車道上空を飛ばした。そうすれば、道の両側を一度に監視できるからだが、昼前という時間帯にかかわらず、通りはかなりの人出だ。土曜日ということも有って、人々はショッピングなどにくり出しているのかもしれない。結花がそういった人ごみに紛れているかどうかは判らないが、南川と逆方向に逃げるなど、かなり機転の利く娘らしい。ならば彼女は人気の無い路地ではなく、この大通りを選んだ可能性が高い。だが彼女は、宗男たちがドローン使い・・・・・・であることは知らないはずだ。そこが宗男たちにとってのアドバンテージである。

 果たして、崇が声を上げた。

 「兄さん! 左奥、200メートル! 歩道橋の上にそれらしい人影発見!」

 宗男はドローンの仰角を調整し、歩道橋をVRゴーグルの視野の真ん中に持ってきた。確かに、崇の言う通り、歩道橋の上にピンク色のニットのワンピースを着た女性が歩いているようだ。ステアリングを握る恭子が、運転席から声を上げた。

 「結花ちゃん、見つかった?」

 「まだちょっと遠くて判りません。今から近付いてみます。このまま進んで下さい」

 手前の押しボタン式信号が押されたので、6号機は停車した。それでもドローンは、歩道橋に向かって距離を詰める。ターゲットの女性が結花だった時のことを考え、なるべく気付かれないように、彼女の背後から近づくコースを選んでアプローチする。今、ゴーグルの中でもモニター上でも、ピンクのワンピースは画面の下半分に映っている。宗男はゆっくりとドローンを降下させ、その女性の後姿を大写しに捉えた。歩道橋下を通過する車の騒音に紛れ、ドローンのローター音は女性の耳には届いていなかったようだが、信号が変わる間際、瞬間的に車の往来が途絶えた。それにより発生したポッカリとした静寂が、女性の耳に「キィーン」という聞き慣れない音を届けた。女性は振り返る。結花だった。

 振り向いたら目の前にドローンがホバリングしているのだ。驚かない方がおかしい。結花は大きく目を見開いて、今、自分に何が起きているのかを理解しようとした。そして、ドローンの無機的なカメラに見据えられた恐怖に身震いすると、たちまちに状況を理解した。再び振り返り、一気に駆け出した。その時、歩道橋の上から道路を見下ろしていた男にぶつかってしまい、「キャッ」と小さな悲鳴を上げて尻餅をつく。ぶつけられた男はよろけはしたものの、とっさに歩道橋の欄干に掴まり、転倒することは免れたようだ。結花は急いで立ち上がり、「すいません!」と謝り、ペコリと頭を下げてその場から走り去ったが、ぶつかられた男は結花には何の興味も示さず、なおも道路を見下ろすだけだった。押しボタン式信号は青になり、6号機は再びノロノロと走り出していた。

 しかし宗男はドローンをホバリングさせたまま、結花を追おうとはしなかった。モニターでは、歩道橋上で走り去る結花の背中が徐々に小さくなってゆく。不審に思った崇が声を上げる。

 「どうしたの、兄さん! 結花ちゃんが行っちゃうよっ!」

 その言葉に「ハッ」と我に返った宗男はいきなりVRゴーグルをむしり取り、それをプロポと一緒に崇に押し付けた。思わずそれを受け取ってしまった崇であったが、訳が判らずポカンとして口を開ける。宗男は切羽詰まったように言う。

 「恭子ちゃん、停めて下さい! 降ります!」

 「えぇっ! 何言ってるのよ宗男! 結花ちゃんはどうすんのよっ!」

 「そうだよ、兄さん。どういう事だよ?」

 「申し訳ありません! 結花ちゃんは二人で追って下さいっ!」

 そう言い残すと、まだ停車し切ってもいない6号機から飛び降りて、つっとっと・・・ と転びそうになりながらも、宗男は歩道橋に向かって駆け出した。交通の流れに乗っている6号機は、仕方なく歩道橋を通り過ぎる。その車窓からは唖然と見つめる崇の顔と、ステアリングを握りながら前を凝視する恭子の横顔が見えた。

 「何なのよ、アイツ! 崇! アンタがドローンを操縦しなさい! 結花ちゃんを追うわよっ!」

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