9-2

 宗男が歩道橋の登り口に辿り着いた時、その男はまだ歩道橋の上に居て、先ほどと同じようにボンヤリと下を行く車の流れに見入っていた。結花が再び走り出した際に、振り返りざまにぶつかった男である。ドローンのカメラがとらえた映像にその男が映り込んでいるのをVRゴーグルで確認した宗男は、居ても立ってもいられずに車を飛び降りたのだ。宗男は呼吸を整えながら、階段を一歩一歩登る。そして頂上に到着し、道路の反対側へと続く通路に出ると、宗男の10メートルほど向こうに男が見えた。男は宗男には気づいていない様子だ。宗男はそうっと近付く。

 「ご無沙汰しております」

 宗男は頭を下げた。突然話しかけられた男は目を剥いて振り向く。その男の顔には、驚愕が張り付いていた。一瞬だけ見つめ合う形となったが、男は「ふっ」と笑うと目を逸らし、また行き交う車の列に視線を戻した。

 「宮川くん・・・ 宮川さんじゃないですか。お久し振りです」森は寂しそうに言った。

 森に「さん付け」されたことなど、今までに有っただろうか? それだけでも、彼が普段の精神状態ではないことが伺い知れる。宗男は森に並んで欄干に両肘を置き、一緒に車の流れを追った。

 「こんな所で会うなんて奇遇ですね・・・ あっ、そういえば森さんって、この辺がご自宅でしたね?」

 「えっ? よくそんなことまで覚えてますね? そうなんです。生まれも育ちもこの辺りなんですよ」

 やはり普通ではない。あの頃の森は、宗男の顔さえ見れば「クズ」、「バカ」、「間抜け」などと、考え得る限りの罵詈雑言でなじり飛ばしたものだ。それが今はどうしたと言うのだ? こんなにも思い詰めたような、それでいて寂しそうな森の姿など、見たことが無かった。

 「こんな所で何をしているんです、森さん?」

 「いえ・・・ ちょっと暇だったもので・・・」

 明らかに何かを隠している。そのあからさまな嘘に、むしろ宗男の方が狼狽えてしまった。いったい何が、森にそのような見え透いた行動を取らせているのだろうか? 宗男は彼の様子にただならぬもの・・・・・・・を感じて、その場を離れることが出来なくなっていた。何か、とてつもない事態に森が追い込まれている。宗男はそう感じた。

 「昔、森さんと二人で諏訪の方に営業に行ったこと、覚えてますか?」

 突然の振りに目を丸くした森が、宗男の顔を見た。怪訝そうな表情を見せた森であったが、宗男の言葉を受けて、その当時のことが沸々と思い出されていることが、その表情を見ている宗男にも伝わってきた。森が笑顔に変わった。

 「もちろん、覚えてますよ」そう言いながらも、思い出し笑いが込み上げてきている。「相手方の部長さん・・・ 田中さんでしたっけ? 田中さんを接待した時の話ですよね?」

 「そうです! 田中さんです! いやぁ、あれは酷かった」と、宗男も笑った。

 「見ちゃダメだって言うのに、宮川さんったら田中さんの頭見ちゃうんだもんなぁ。わっはっは」

 「ダメなんですよ。相手のヅラ疑惑に気付いちゃうと、どうしても頭に目が行っちゃって。ガハハハッ」

 「田中さん、怒っちゃいましたねー」

 「怒っちゃいましたねー。わはは」

 「私は帰るっ! っていきなり立ち上がって・・・」

 「そうそう。それで店の出口に向かってクルッと振り返ったら・・・」

 二人は顔を見合わせた。ジワジワと湧き上がる笑いを堪えて、堪えて・・・ やっぱりダメだ。二人は大爆笑した。

 「わっはっはっは・・・ そしたらヅラだけが・・・ がはははは」

 「ひぃーひっひっひ・・・ こっち向きに残って・・・ ぶぅーはっは」

 「後ろ向きのヅラを被ったまま出て行っちゃったじゃないですかぁ、田中さん。くっくっくっく。宮川さんのせいですよ、あれ」

 「あの後姿は、いまだに夢に見ますよ。かっかっか。いやぁ、申し訳なかったです。くっくっく」

 長閑な土曜の昼、オヤジ二人が歩道橋の上で楽しそうに昔話に興じている姿が、青空を背景に浮かび上がっていた。森とこんな風に会話していた時代が、かつては有ったことを思い出し、今更ながら時の流れを感じた。ヤマブチに務めていた頃、宗男は毎日毎日が精一杯で、いつしか同僚たちと会話することすら忘れていたのだろうか。大切な時間を無駄に過ごした様な気もするが、そのお陰で今の自分が有るのだと思うと、あの日々は無駄ではなかったのかもしれない。


 「姉ちゃん! 左左!」

 「判ってるって! うるさいわねっ!」

 恭子がステアリングを切ると、6号機はデパートの地下へと飲み込まれていった。そこは道路を挟んで二つのデパートが隣接し、空中の渡り廊下によって客が往来できるようになっている、この辺でも特に人通りの多い一角だ。同様に駐車場も地下で繋がっており、ターゲットとする客層や商品群によって住み分けされた両デパートが、お互いの不足分を補う形で上手く共存している。逃げ疲れた結花は、空中から追い立ててくるドローンを避けるために、その地下駐車場へと逃げ込んだわけだが、実はそういったシチュエーションこそドローンの独壇場であることを結花は知らない。

 「ヒュィーーン・・・」という、モーターの甲高い音を立てながら、崇の操るドローンは柱をぬって自由自在に飛翔した。VRゴーグルの中では、黒々としたコンクリートの柱の群れは、まるでのろまな巨人たちの脚のごとく、軽快な操縦を愉しむ為の気の利いた障害物でしかない。ツバメが橋げたを軽々とかわして飛び回るように、瞬く間にドローンは結花を追い詰めた。安全な地下に逃げ込んだつもりが、予想外に痛烈な追跡を受けた結花は、とうとうデーパート店内へと続く店舗入り口のドアを押し開けた。さすがにデパート内にまで進入することは出来ず、崇のドローンはその前でホバリングしながら地団駄を踏んだ。エスカレーターを登りながらこちらを凝視する結花の顔が、カメラ越しに見えた。肩で息をしながら、ドローンが負ってこないことを確認していた。

 「くっそぉっ! もうちょっとだったのにっ!」

 「崇! 運転代わりなっ!」

 「どうするんだよ、姉ちゃん?」

 その質問に答える間も惜しんでシートベルトを外した恭子は、ギアをパーキングに入れるや否やドアを開けて飛び降りると、店舗入り口に向かって駆け出した。そもそもドローンで結花を追いかけて、それから・・・・どうするのだ? ステアリングを握りながら恭子は必死で考えていた。答えは見つからなかった。でも、「今しか無い」と感じていた。このチャンスを逃しては、結花は決して手の届かないところへ行ってしまう。そんな漠然とした恐怖が、恭子を後押ししている。結花が登っていったエスカレーターを、恭子は一段飛ばしで駆け上がった。


 何故かは判らない。森と話す昔話はどれも、腹を抱えて笑ってしまうような楽しい思い出ばかりだ。そんな思い出ばかりではないはずなのは、宗男が一番よく判っているのに。

 すると突然、森が頭を下げた。

 「宮川さん、申し訳ありませんでした」

 宗男は驚いたし、狼狽えた。森が自分に向かって頭を下げるなど有り得ない話であったし、そもそも彼が何を謝罪しているのかも判らなかった。

 「ど、どうしたんですか、森さん?」

 森は下げた頭をそのままで言った。

 「いや、謝らせて下さい。謝らなければならないんです」

 宗男は森の両肩に手を添えて、その頭を無理やり引き上げた。その時、森の両目に光る物を見て、宗男を言葉を飲んだ。

 「宮川さん・・・ 俺はあなたをイジメていました。あなたをイジメることで優越感に浸っていたんです。あなたに向かって怒鳴り散らせば気分がスカッとしたし、課員の皆が笑って職場の雰囲気も明るくなって・・・ あなたに出来ない男・・・・・の烙印を押して、その役を演じさせることで・・・」

 「森さん・・・」

 「俺のことを快く思ってはいないことは判っています。憎んでいるでしょう。恨んでいるでしょう。とても『許して下さい』なんて言える立場にないことも判っています。それでも謝らせて下さい」

 そう言って森はいきなり、その場で土下座をした。

 「本当に申し訳ありませんでしたっ!」

 「そ、そんなことはやめて下さい、森さん! いったい、どうしたって言うんですか?」

 歩道橋の通路に頭を擦りつける森を無理やり抱き起す宗男。その真っ赤に染まる目を覗き込んだ時、森の口から意外な言葉が漏れた。

 「ヤマブチが倒産します」

 「えぇっ! どういうことですか!?」

 森はその質問には答えなかった。

 「宮川さん・・・ 貴方を犠牲にしてまで俺が守ろうとした物って、いったい何だったんでしょうかねぇ・・・?」

 宗男は何をどう言っていいのか判らず、ただ口をパクパクさせた。そして何とか気を取り直し、やっとの思いで森に尋ねた。

 「森さん・・・ まさか自殺する気だったんじゃ?」

 森は寂しそうに笑った。

 「宮川さんの呑気な顔を見たら、そんな気も何処かに吹き飛んでしまいましたよ」

 「・・・・・・」

 「じゃぁ、俺、帰ります。家族に本当のことも話さなきゃならないし、再就職先も見つけなきゃならないし・・・」

 「森さん・・・」

 「宮川さん、お願いが有ります。もしよかったら、宮川さんの方から、ここを立ち去って頂けますか?」

 「???」

 「宮川さんが退社される時、ちゃんとお送りして差し上げることが出来なかったお詫びです。お見送りさせて下さい」

 まさか、自分が去った後に飛び降りるつもりでは? 宗男の心の中に不吉な想像が広がろうとしたが、それを無理やり圧しつけた。森の真摯な眼差しを見れば、そんなことは杞憂に違いない。

 「判りました・・・」

 宗男はそう信じることにした。

 「それじゃ、森さん・・・ お元気で。またお会いしましょう」

 宗男は軽く右手を上げるとクルリと背中を向け、先ほど自分が登ってきた方の階段に向かって歩き始めた。森は礼儀正しくお辞儀をしながら、それを見送る。宗男はその様子を背中で感じていた。そして階段の降り口に到達し、最初の一歩を降りようとした時だ。森の大声が響いた。

 「ありがとうございましたぁーーーーっ!」

 宗男が振り向くと、両手の握り拳に力を込めて、仁王立ちしている森と目が合った。森の表情はこの場に似つかわしくないほど真剣で、怒っているようにすら思えた。宗男は階段を降りる足を止めた。二人は暫く見つめ合った。そして再び、森は深々と頭を下げた。その言葉を、確かに宗男は受け止め、そしてまた階段を降りて行った。


 恭子は買い物客を小気味よく避けながら、店内を疾走した。そして遠くの人ごみの中に、結花のピンク色のワンピースを見えた気がすると、その方向に向かって更に加速した。周りの客や店員たちが、驚きを隠せない様子で走り去る恭子を見送ったり、声を上げたりする。その声が耳に入ったのか突然振り返ると、自分に向かって駆け寄って来る恭子の姿を認めた結花は、またしても走り出す。「くそっ!」恭子はポカンと口を開けたり、眉をしかめて眺めている客たちを心の中で罵った。そして、結花の姿を見たと思った地点に辿り着いた時、当然ながら、そこに結花の姿は無かった。デパートの中の小さな交差点を、四方から四方へと人々が通り過ぎていた。

 ゼェゼェと肩で息をする恭子が辺りを見回す。右にも左にも、そして前にも結花の姿は見えない。完全に見失ってしまった。失敗だ。この人ごみから結花を見つけ出すことなど、ヒヨコの大群の中に紛れ込んだアヒルちゃんを見つけ出すようなものではないか。ひょっとしたら結花は、既にデパートの中にすら居ないのかもしれない。恭子が落胆しつつ当てもなく歩き始めた時、白いプレートが天井からぶら下がっているのが見えた。そこには黒い文字と、赤、青で描かれた丸と三角の模様が描かれている。『CW』と読めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る