1-3

 女は胸の辺りでシーツを身体に巻き付け、ベッドの上で体育座りをしていた。おそらくシーツの下には、何も身に着けていないのであろう。その首に巻かれた首輪が、首の細さを際立たせている。何を見るでもない様子で、ぼんやりと部屋の一点を見つめている風だ。

 その時、女は窓の外に浮遊するドローンに気が付いた。その顔が一瞬、明るく輝く。すると女は、何かを手に取り、こちらに向かってかざした。

 「何だ? 鍵?」

 宗男は考えた。どういう意味だ? ひょっとして、あの鍵を使って助け出してくれ、という意味だろうか? 宗男がそんなことを考えていると、次に女は妙な動きをした。二本指を立ててピースサインをしたかと思うと、次いで五本の指を開く。

 「チョキとパー?」

 女はもう一度、同じ一連の動作を繰り返した。鍵をかざして、チョキとパー。

 宗男のたいして高性能でもない脳内CPUがフル稼働する。パソコンの冷却ファンが急に回りだすように、宗男の鼻腔からは熱い鼻息が噴出した。そして遂に、ある回答に辿り着いた。思わず飛び上がった宗男の頭は6号機の天井に激突し、「ボゴンッ!」と鈍い音を立てた。VRゴーグルの中で、宗男の目に火花が散る。頭に出来たタンコブを押さえながら、宗男が叫んだ。

 「そうか! 判った!」

 チョキとパーは25。つまり深夜の1時に鍵を渡すという意味だ! 1ではどういう意味か判らないので、あえて25としたのだろう。その時間帯であれば、あのAV男優の様な怖そうな男は居ないに違いない。宗男はドローンを操作し、二回頷く様な動きをさせた。

 その時、何事かに反応した女が慌てて鍵をテーブルに戻すと、また体育座りの態勢に戻った。暫くして、奥からあの男が現れた。シャワーでも浴びていたのだろうか。日焼けした褐色の身体には、バスタオルが一枚巻き付けてあるだけの様だ。男は女が座るベッドの脇に立つと、右手に持つ缶ビールのプルトップを引いてゴクゴクと喉に流し込んだ。その間、女は黙って男を見上げている。

 次に男は空いた方の手で女の髪を鷲掴みにし、彼女の顔をグィと仰け反らせた。そして屈むようにして顔を近づけ、乱暴に女の唇を吸った。女は抵抗もせず、なされるがままその唇を受け止めた。しかし、その目だけはこっそりと窓の外に向けられている。丁度その時、ヒュインという余韻を残してドローンが闇の中へと消えて行った。


 宗男のドローン大改造作戦が始まった。それらに必要な物を買い漁るため、宗男はビバ・ハウスやらドン・ジョバンニを巡り、こまごました物を買い揃えたのであった。と言っても、鍵を引っ掛けるフックを取り付けるだけだ。改造という程のものでもないか。むしろ、鍵を受け取った後のことの方が、宗男にとっては重荷となっていたが、その件は後から考えることにしよう。

 まずはドローンに取り付けるフックだ。それは日曜大工に用いる、壁に取り付けるフックをそもままドローンに取り付けるだけで良さそうだ。この程度の加工であれば、宗男にとってはお茶の子さいさい・・・・・・・・である。最近は男性であっても、この程度のことが出来ない人が増えているらしく、そんなご時世が宗男にはどうしても理解できないのであった。

 鍵を受け取った後は、それを使って彼女の部屋に進入することになるだろう。侵入ではなく、あくまでも進入なのである。そうなった場合、次に必要なのは・・・ チェーンカッターである。彼女の首に巻き付けてある首輪が簡単に取り外せるものであったならば、それは彼女自身の手で、少なくともあの男が居ない間は取り外されているはずである。しかし、そうではないところを見ると、あれは簡単には外せないようになっている可能性が高い。宗男は、前回の覗きの際の映像 ──ドローンから送られてくる映像は、2台の4TBのHDDに自動的にログされている── を何度も繰り返しスロー再生してみたが、どうしても首輪の部分は明瞭には判別できなかったのであった。従って宗男が取るべき手段は、チェーンを切断する手段を抜かり無く用意しておくことだ。

 その次のステップは何か? 首輪の鎖を断ち切って自由になった彼女は・・・ 裸だ! そう、毎晩、あの男のお慰みモノにされている彼女は、シーツの下に何も身に着けてはいない。もし今の状況が長い間続いていたとしたら、彼女が本来着ていたであろう衣服があの部屋に残されている可能性は低いとみるべきだろう。しかし、何を買えばいいと言うのか? 宗男に女性下着に関する知識など有ろうはずもなく、よしんば有ったとしても、この風体でそんなものを買い求めた日には、「取りあえずコチラへ・・・」とか言いながら警備員に腕を掴まれて、どこかの個室に連れ込まれるのがオチだ。下着に関しては諦めざるを得ないだろう。下着は無くとも、着る物さえあれば何とかなる。宗男はスウェットの上下を買い求めた。と言っても女性にはどのような柄が良いのか判らなかった宗男は、取りあえず大きな赤い水玉柄のスウェットを買うことにした。女ものと聞いても、「赤」とか「水玉」という単語ぐらいしか頭に浮かばないのだからしょうがないではないか。ついでと言っては何だが、パティ―グッズのコーナーで、ショッキングピンクのケバいカツラも購入した。何かの際に使えるかもしれないと思っただけで、それを使う計画が有るわけではなかったが。

 そして最後に必要なのは靴だ。彼女の靴があの部屋に有るかどうかも判らないので、取りあえずスニーカーを持って行けば何とかなるだろう。サイズは・・・ 大人の女性って23センチくらいだろうか? 例の彼女は比較的背が高そうに見えたので、もう少し大きいかもしれない。余裕を持って25センチのナイキを購入した。


 いよいよ実行の時が来た。それは一級河川沿いに立ち並ぶ、高層マンション群の中の一棟だ。川を挟んだ対岸は、もう川崎になる。つまりこちら側は東京都ということで、その行政区分からもマンションの住人たちが優越感を享受していることは容易に想像できる。東京都民が神奈川県民を見下ろす・・・・構図が、その勘違いに拍車をかけていることは言うまでも無い。

 階数としては30階ほどで、超高層とは言えないが、少なくとも高層建築という範疇だ。その証拠に、航空機への警告灯として赤いライトが、その四方に取り付けられている。ベージュ色を基調とした外壁は、建設当時とすればお洒落で豪奢な装いだったに違いないが、今となってはそのくすんだ色合いが、むしろ古めかしさを強調していた。それでも、そのエントランス前に幾何学的な配置で植えられた木々の手入れは行き届いていて、夜には気の利いた街路灯の瞬きに照らされて高級感を演出している。そのマンション近くまで来た宗男は、6号機を近くの空地脇に寄せ、約束の時間が来るのを待った。早めに飛ばして中の様子を確認しても良いのだが、ドローンのバッテリーには余裕を持っていたい。無駄な電力を消費して、何かの弾みでカツカツになってしまうくらいなら、じっと待っていた方が得策だろう。こういう用心深い性格によって、覗き趣味が警察などに摘発されるのを防いでいたのかもしれない。

 約束通り25時に、例の発着ポートからドローンが出撃した。その際、これまでとは異なる緊張感に、サンダーバードのテーマソングが妙に上ずったヘンテコな感じになってしまったくらいだ。いつにも増して入念な機体整備が行われたドローンは、ヒュィーンという微かな、それでいて滑らかな唸り音を残して漆黒の空に舞い上がった。


 先日と同じルートを通って、同じ部屋に辿り着く。例によってカーテンは開けられ、煌々と灯る照明が、明々と室内を照らし出されていた。そして、そこから覗くベッドの上には彼女が座り込んでいた。この前と全く同じ状況だ。唯一異なる点は、あのいやらしい男の姿が見えないことだろうか。宗男はドローンをベランダまで進入させた。女は直ぐにその存在に気付く。午前一時を回って、今か今かと待っていたに違いない。やはり女が送ってきた合図「チョキとパー」は、25時を意味していたようだ。宗男は自分の推察が的外れでなかったことに、胸を撫で下ろした。宗男は更にドローンを進めた。すると「ゴツン」という音がして ──実際は、送信されてくるのは映像だけで、音声までは宗男の元には届いていないのだが── ドローンはその進行を止めた。

 ガラスであった。当たり前である。窓が開いていれば、女は声を上げるなどして助けを呼ぶことが出来るが、それをしなかったということは、普段から窓は閉められているということなのだ。気密性の高い近年のマンションでは、窓さえ閉まっていれば大声を上げたくらいでは、ご近所の耳には届かないのだろう。勿論、女もこのことは織り込み済みのようで、ベッド脇のローテーブル上にあった「孫の手」を持って窓に近付いた。首輪を繋ぎ止めている鎖を目一杯引っ張って女は窓に近付いたが、とても鍵までは手が届かない。そこで手に持った「孫の手」をしきりに伸ばし、何とかして窓の鍵を開けようとする。その際、身体に巻いたシーツがハラリと落ち、全裸の身体が露となったが、そんなことを気にしている場合ではない。女は首をギリギリまで伸ばし、更に身体と右手も限界まで伸ばし、「孫の手」を使って少しずつ鍵を開け始めた。

 そうやって暫く奮闘した後、ようやくその意地悪な鍵のレバーが、カタンという音と共に下向きに向きを変えた。女は精も根も尽き果てたといった様子でベッドに倒れ込む。宗男はドローンを操作して、そのアルミサッシの枠の部分を押した。長らく開けられることも無かったのであろう、最初はなかなか動く気配を見せなかった窓であったが、ドローンの四つのローターが生み出す強力な推進力に負け、徐々にではあるが、その隙間を広げ始めた。一旦、動き出してしまえば、後は比較的小さな力で開けることが可能だ。そして遂に、ドローン本体が入り込める程の隙間をこじ開けると、宗男のドローンは女の部屋への進入を果たした。

 宗男はVRゴーグルで部屋の様子を見ながら進む。モニターに浮かび上がる女は、いつの間にかいつもの姿勢に戻り、ベッドの上で体育座りをしていた。ただし、これまでと違うのは、その瞳に涙らしきものを湛えていて、微かな笑みを浮かべていることであろうか。ドローンはゆっくりと女に近付き、そしてその顔の手前50センチくらいの空中で停止した。女とドローンは見つめ合った。トランスミッターを経由した映像を通して、宗男もVRゴーグル越しに女を見詰めた。女は枕元から鍵を取り出すと、宗男が改造したフックにそれを取り付けて、GoProに向かって親指を立てて合図を送った。ドローンはゆっくりと後退し、彼女から1メートルほど離れた所で回れ右をし、そして先ほど自分が入ってきた窓の隙間を通って、再び夜の空へと消えて行った。


 ドローンが6号機に戻ってきた。荷室上部の発着ポートにやんわりと着陸したドロンは、まるで催眠術にかかったかのようにフッとローターを止め、唐突な眠りに就いたように沈黙する。宗男がドローンを荷室に引きずり降ろすと、例のフックにはディンプル式の鍵が取り付けられていて、鍵の取っ手に取り付けてある小さな札状のキーホルダーには、油性マジックで『1107』と書かれていた。宗男はそれを握りしめ、運転席側に回り込んで車を降りた。その際、ビバ・ハウスやドン・ジョバンニで買い込んだ小道具を詰めた、大きめのショルダーバッグを肩に掛けることを忘れなかった。

 いよいよ救出だ。宗男は心臓が高鳴るのを感じた。ひょんな事からひょんな事になってしまったものである。自分に、見知らぬ女性を救出する役割が回ってくるなど、想像したことすら無かった。自分が正義の味方だとは思わないが、宗男は自分が行おうとしている行為に対し、義務感のようなものを感じずにはいられなかった。自分が生きてきたのは、これをするためだったのではないか? 今までイジメられて、イジケた人生を送ってきたのも、全てここに繋がる伏線だったのではないか? もしそうであれば、自分が歩んできた人生に意義が生まれる様な気がした。このクソみたいな人間にも、存在価値が有ったのだと思える様な気がした。自分が生まれてきたことが無駄ではなかったと、誰かに言える様な気がした。

 こんな高級マンションへの入り方など宗男が知っているはずも無いが、何とかしてエントランスに入ると、直ぐにエレベーターに向かった。その際、管理人室の前を通り過ぎねばならなかったが、この夜中に年老いた管理人が在席しているはずも無く、ただ照明が煌々と灯されているだけで、管理人室は無人であった。エレベーターに入って『6』を押す。すると微かな唸りを上げて、エレベーターは静かに上昇を開始した。普段はそんなものを気にすることなど無かったが、その天井付近にある監視カメラがいつも以上に気になるのは、今の宗男が置かれている、ある意味異常な状況によるものだろう。こういうのを犯罪者心理と言うのであろうか? そこまで考えた宗男は、自分が今、決して犯罪を犯しているわけではないことに思い至り、チョットだけ胸を張ってみた。自分は、あの部屋の住人から正当な(?)手続きを踏んで鍵を託されたのだ。決して無理やり踏み込むのではないのだから。とは言うものの、なんだかカメラを通して誰かがジッとこちらを凝視しているような気がして、言い様の無い居心地の悪さを感じた。やっぱり自分は小心者なのだ。

 夜中なので途中階に止まることも無く、エレベーターが次に止まったのは目的階の11階であった。「チーン」という音が、必要以上に大きく夜中のマンションに響いた。エレベーターの扉がスムースに開き、肩に掛けたバッグを背負い直した宗男は、廊下に進み出た。そして玄関ドアに掲げられた部屋の番号を見ながら足を進める。目的の1107号室は、エレベーターを降りて左方向に行った先のようだ。

 「1101・・・ 1102・・・ 1103・・・」

 そこまで来ると、「ユーティリティー」と書かれた扉が有った。その階の住人が共有している、物置の様なスペースなのだろうか? あるいはマンション建屋に関する機械室の様なものなのだろうか? 不吉な4という数字を含む1104号室が、そのユーティリティーになっている。その数字を避けることにどれ程の意味が有るのか、宗男には理解できなかったが、深く考えることも無く、更に足を進めた。

 「1105・・・ 1106・・・ 1107・・・」

 1107号室の前で立ち止まり、ポケットからあの鍵を取り出した。それをドアに差し込む前に耳を澄ませて中の様子を窺ってみたが、中からは何の気配も感じられない。グッと握りしめた鍵をそっと鍵穴に差し込んだ。口から心臓が飛び出しそうだ。思わず荒くなる息を抑えるため、いつも以上にゆっくりとした呼吸を意識し、更に鍵を差し込んだ。鍵はほんの少しの抵抗を見せた後、一番奥まで差し込まれて止まった。そしてゆっくりと右に回すと・・・ カタンという音が僅かに響き、ロックが解除されたことを告げた。この鍵を回す間の数秒間、おそらく自分の心臓は止まっていたに違いないと宗男は思った。次にドアノブに手を掛けた。そしてそれを、またしてもゆっくりと捻り、3時の方向から5時の方向にまで降ろした時に、ドアが一瞬ほんの少しだけ手前に動き、完全なフリーの状態になったことが判った。宗男はそっとドアを開け音も無くその中に身体を引き入れると、今度はそっとドアを閉めた。

 ドローンから見た通り、部屋の内部は明るかった。そちらに向かってそっと歩き始めると、玄関脇に置いてあった傘立てに躓いて、ドンガラガッシャンと盛大な音が立った。宗男の身体もひっくり返って、その大騒ぎに加担した。慌てて傘立てを押さえると、逆にバタバタとして更にうるさい音が鳴り響き、「あわ、あわ、あわ・・・」と、宗男の喉から無意味な声が漏れ出た。やっとの思いで傘立てを落ち着かせ、再び玄関に静寂が訪れると、宗男は「ふぅ~」と大きく息を吐き、額の汗を拭った。そして再び、部屋に向かって忍び足で進み始めた宗男であったが、よく考えてみれば、あれだけ大きな物音を立てた後にひっそりと歩いたところで、何の意味も無いではないか。そのことに気付いた宗男はバカバカしくなり、そのまま普通に歩いて部屋の中に入っていった。


 勿論、判っていたことだ。この部屋のベッドには若い女性が一人、鎖に繋がれていることは承知していた。にも拘らず、実際にその姿を見るまでは、それは一種の空想や妄想の類ではないのかと思えて仕方のなかった宗男であったが、それを目の当たりにして初めて、それが現実であることを心が受け入れた。宗男が女を見下ろすと、女は宗男を見上げた。その瞳には溢れんばかりの涙がしたためられていた。長かった苦痛の日々が、ようやく終わりを告げようとしていたのだ。女の口は何かを言いたげにモゾモゾと動いたが、結局、何の言葉も発することは無かった。暫くの間、見つめ合っていたかと思うと、女は突然ベッドから立ち上がり、ハラリと落ちたシーツには目もくれず宗男に抱き付いた。宗男はどうしていいか判らず、彼女の背中にゆっくりと腕を回し、その細い身体をしっかりと抱きすくめた。その時、女の甘くて魅惑的な体臭が宗男の鼻を突いた。その途端、宗男の下半身はパキンパキンに勃起を始め、それが女の下腹部辺りを容赦無く押した。あまりの恥ずかしさに宗男が腰を引き、妙な姿勢になったところで女が初めて口を開いた。勿論、パキンパキンはお見通しである。

 「ありがとう・・・ 待ってたよ・・・」

 女は泣き笑いの様な感じで言った。宗男は、パキンパキンをどうすることもできずに、腰をかがめたお馴染み・・・・の恥ずかしい姿勢のまま、肩に掛けたバッグを差し出した。

 「中に・・・ 服が・・・」

 裸体から無理やり視線を引きはがし、顔を背けた宗男からバッグを受け取った女は、直ぐにジッパーを開いた。そして彼女が最初に取り出したのは、チェーンカッターだ。女は使い方の判らない奇妙な工具に目を丸くした。宗男は慌ててそれを取り上げた。

 「まず、チェーンを切らないと。首輪自体は後から取り外せばいいから」と言って、女の首輪から延びる鎖を断ち切った。

 バッ・・・チンッ・・・

 鎖の束縛から解放されたことで、やっと女は服を着る自由を得た。バッグの中から宗男が選んだ水玉のスウェットを取り出した瞬間、その顔には何とも言えない影の様なものが差したが、女は何も言わずにそれを身に着けた。ついでに出てきたショッキングピンクのカツラも、特に文句を言うでもなく頭に被り、そして宗男に向き直った。

 「じゃ、じゃぁ行こうか」宗男は恐る恐る言った。

 ひょっとしたら女は、これ以上のことは望んでおらず、鎖さえ切って貰えれば後は勝手にやる、というつもりかもしれないからだ。だが女はそういった素振りを見せることも無く、黙って宗男に付き従った。

 「靴もバッグの中に入ってるから・・・ サイズが合うか判らないけど・・・」


 マンションを出た二人が、宗男の6号機の横にまで来た時であった。いざ乗り込もうとしたら、白い自転車に乗った警邏中の警察官が、二人の様子を不審に思い近付いてきた。ひょっとしたら駐車禁止の切符切りかもしれない。それにしても、こんな夜中に切符切りとは。もっと有意義なことに税金を使って欲しいものである。とは言え、首輪をした女はかなり怪しい。バッグの中には大振りなチェーンカッターが仕舞われている。もしそれを見咎められたら面倒なことになるのは必至だろう。それ以上にぶっ飛んだ紅白の水玉模様とショッキングピンクの頭髪は、どこからどう見ても草間彌生である。仮装パーティーか何かの帰りにのようにも見えるが、とにかく胡散臭いことこの上ない。なおも近付いてくる、職務に忠実な警察官をやり過ごすために、女はいきなり宗男に抱き付いて濃厚なキスを始めた。女は自分と車の間に宗男を挟み込み、その身体を容赦なくグィグィ攻め立てながら唇を吸った。女の舌は宗男の口の中で艶めかしく動き、重なる口と口の隙間からは、どちらのものか判らない唾液がピチャピチャと溢れ出た。お互いの唾液を混錬する様な、激しい舌の出し入れを繰り返しているうちに、さすがの警察官も呆れたらしく、結局、何も聞かずに通り過ぎて行った。警察官の後姿が見えなくなるまで、女は宗男の身体を押し付けながら舌を挿入し続けていたが、その目だけは抜かりなく警察官の背中を追っていた。そしてコンビニの角を曲がって姿が見えなくなると、宗男から身体を放して言った。

 「行ったみたい」

 宗男は遠い目をしながら、うわ言の様に返した。

 「イ・・・ ったみたい・・・」

 「えぇっ!? 今のでっちゃったのっ!?」

 宗男はフニャフニャととろけて、その場に崩れ落ちた。

 「ちょ、ちょっと、何やってんのよっ! しっかりしてよっ!」


*****


 女はベッドの上で胡坐をかいて、男を見下ろしていた。その男とは、勿論、宗男である。宗男はベッド脇の畳の上に正座し、女からの容赦の無い視線に耐えていた。

 「ねぇ、タバコ持ってない?」

 そう尋ねる女に、宗男は申し訳なさそうに答えた。

 「スミマセン・・・ 俺、タバコはちょっと・・・」

 「マジ? どうすんのよ? まさか、明日の朝まで我慢しろって?」

 亀のように首をすくめながら宗男は言った。

 「じ、じゃぁ、コンビニに行って買ってきます。どんなのが良いですか?」

 「メンソールじゃなきゃ何でもいいよ。3mgくらいのやつ」

 「は、はい。判りました。他に何か?」

 「そうね、ビールでも買ってきて。ゴメンね、私お金持ってないから」

 女を自分の部屋に残し、トボトボと最寄りのコンビニに向かって歩きながら思う。彼女を助けたのは自分じゃないか。だったら、もうちょっと違った形の関係・・になっても良さそうなものなのだが・・・ そんなことを思いながらコンビニに辿り着いた宗男は、奥の冷蔵庫から350mlの缶ビールの半ダースパックを取り上げた。それを店内に置かれていた買い物籠に入れながら、また考える。どういう訳だか、またいつの間にか、こういう状況になってしまった。いったい何が悪かったのだろう? この上下関係は、何処から来たものなのだ? その籠をレジにまで持って行くと、今度は店員に聞く。

 「あの・・・ メンソールじゃない3mgくらいの奴って、有ります?」

 店員は困った様子だ。

 「有りますけど・・・ どのブランドですか?」

 「いや、ちょっとタバコのことは判らないので・・・」

 顔に「面倒くせぇ客だな」と書いたまま言う。

 「じゃぁ、KENTでいいっすか? いいっすよね?」

 「あ、えっ、はい。そ、それでお願いします」

 「2点で1,786円になります」

 そう言った店員は、とっととレジを操作して会計してしまった。

 「あ、あの・・・ ライターも・・・」

 店員は「チッ」と舌を鳴らす。

 「そこ入ったところの右側に、ライター有りますから」

 そう言いながら通路を指差した。

 そんな風に言われても、タバコを吸わない人間は何処にライターが置いてあるかなど気にすることも無いのだから、知るわけは無いのだ。宗男が店員に教えられた通路に入って棚を探っていると、やっとのことで電池の横に並んでいるライターを見つけた。カラフルな色のライターが並んでいるが、どれを買ったらいいか判らなかったので、またしても赤を選択した。取りあえず赤にしておけば、女はみんな喜ぶのだろうという昭和な精神構造が、ここでも遺憾なく発揮されたわけだ。それを持ってレジまで行くと、宗男のビールとタバコは既に脇に追いやられ、別の客が弁当を買っていた。こんな夜中の3時に弁当を食うのかと思わないでもなかったが、宗男は黙ってその男の後ろに並んだ。その弁当が電子レンジで温まるまでの間、またしても宗男の心は部屋に残してきた女のことで一杯になった。

 そんなことより、これからどうすれば良いのだろう? 勢いで助けてしまったが、その後のことなど何も考えてはいなかった。「チーン」といって、前の男の弁当が温まった。店員はそれをレジ袋に詰め込むと、「品物でーす」と言いながら男に手渡した。

 そもそも彼女の家は何処なのだ? そこに連れて行けばいいのか? 男と入れ替わりでレジ前に進み出た宗男は、ライターを店員に手渡した。店員は先ほどのビールとタバコとライターをレジ袋に詰めた。

 というか、今夜は取りあえず、俺の部屋に泊まるのか? 宗男の鼻息が荒くなった。俺の部屋にあの女が、と、と、泊まるのかっ!? 店員は「1,930円でーす」と言った。

 宗男の鼻から「ぶぉ~っ!」と熱い息が噴出した。女が泊まるだとぉーっ! 宗男はこぶしを握り締め、それをブルブル震わせながらガッツポーズの様な姿勢を取った。「お客さん。1,930円なんすけど~?」その変なガッツポーズのまま、宗男が固まった。「へっ?」店員は冷めた眼差しでもう一度言った。「1,930円」。慌ててポケットから財布を取り出しお金を払った宗男は、お釣りを受け取るとそそくさとコンビニを後にした。

 部屋まで戻った宗男は、「お邪魔しま~す」と言いながら部屋に上がった。自分の部屋に上がるのに、お邪魔もクソも無いもんである。でも、何となくそんな気がして、思わずそう言ってしまった。この部屋は、既にあの女に占領・・されてしまったのだ。少なくとも、あの女が何か・・を主張できる立場にはなっているようだし。宗男は自分が遠慮することに、何の違和感も感じてはいなかった。

 「あの~、タバコ買ってきました・・・」

 そう言って、玄関に続く通路から首だけ出してベッドを覗くと、女は毛布を肩まで引き上げて子供の様な姿勢で眠っていた。宗男はその寝顔をじっと見つめる。そして、彼女の足元で丸まっている布団を広げると、女が目を覚まさないようにそっと掛けてやった。それから座布団を折り畳んで枕にし、ベッド横の畳の上でゴロンと寝転がった。宗男は目を閉じた。明日は取りあえず名前を聞こう。

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