3-2
トヨサンの巨大な本社ビル一階にあるロビー横の談話スペースに通された宗男は、その
暫く待っていると、比較的ラフないで立ちの男が近付いてきた。最近流行りのビジネスカジュアルというやつだろうか? 隙の無いスーツで武装したガチガチのサラリーマンといった風情ではなく、テーラードジャケットにグレンチェックのチノパン。薄い青地に白のピンストライプをあしらったドレスシャツの上に絞めるのはニットタイだ。むしろ、近所の喫茶店のマスターみたいな軽薄さである。これも「車両デザイン部」という一種、芸術畑の人種特有の物なのかもしれない。その顔に大企業に勤める男の自信というか、相手を見下す様な不穏な匂いを感じたが、勿論、そんなことは口にしない。「宮川さん?」と、初対面の人間にすら親し気に話しかけるそのフランクな姿勢はむしろ、高みの住人である自分はそんな立場の違いなど気にせず
「はい、宮川です。成橋様でしょうか?」
そう言いながら、米つきバッタのようにお辞儀を繰り返す宗男の向かいに、成橋は座った。すかさず宗男は胸ポケットから名刺を取り出し、それに両手を添えて差し出した。成村は椅子に座ったまま「あぁ、どうもどうも」と言ってそれを受け取り、次に面倒くさそうに自分の名刺入れから一枚取り出すと・・・ それを宗男に差し出す前に引っ込めて「やっぱやめておこう」と言った。まさか「それ下さいよ」と言う訳にもいかず、宗男は黙って椅子に腰かけた。
「いや、チョッと理由が有りましてね」
さすがに自分でも、失礼な行動だと恥じ入ったのか、成橋は言い訳がましく言った。そして宗男から貰った名刺を見ながら・・・
「えぇーっと、ヤマブチモーター、営業部、営業第二・・・」
宗男は慌てて、その名刺を奪い取った。いつもの癖で、思わず名刺を出してしまったが、よくよく考えたらMKエアサービスの名刺など作っていないではないか。
「申し訳ございません、只今、名刺を切らしておりまして」
成橋は「あっ、そっ」と言うのみで、特に気にする様子も無い。名前や住所、メールアドレスを気にするべきは宗男の方であって、成村サイドはそのような細事に心を煩わせる必要は無い。相手の名刺を後生大事に思うのは下層の人間の義務であり、上層の人間には不要な配慮なのだ。これぞ正に、勝ち組の余裕がなせる態度であろう。
「じゃぁ、おたくがどんな仕事を得意としているのか、この僕にアピールして貰えますか?」
何をして欲しいのかを言う前に、こちらが何が出来るのかを喋らせる気らしい。本来であれば、そこから調べ上げたうえで適切な相手を選んでコンタクトを取るものだが、大手企業の社員様はそのような雑務に時間を取られるわけにはいかない。それによって仕事が入るのであれば、そのようなご機嫌伺いも下々にとっては無駄ではないのだから。それは大企業の従業員に有りがちな対応だが、この屈辱を忍んで初めて得られる栄光(契約)も有ることは知っている。宗男はパソコンを成村に方に向けながら、これまでのMKエアサービスの実績を説明した。それを見ながら成村は「フムフム」と相槌を打った。そして一通りの説明を聞いた後。成村は「はい、判りました」と言った。良いとも悪いとも、あるいはOKともNGとも言わない。ただの「はい」である。
「それじゃぁ、またご連絡差し上げるかもしれませんので、今日のところは、これでお引き取り下さい。本日はご足労頂き有難うございました」
有難いなどとは心底思ってはいない口ぶりで外交辞令を垂れ流すと、成村は宗男を玄関まで送りだした。用が済んだらさっさと行け、みたいな感じである。取りあえず宗男は「有難うございました。今後ともよろしくお願いいたします」と、日本のサラリーマンが日常的に口にする別れの挨拶を口にしながら、その目は相手の目を見据えた。その時、成村の目は既に宗男の事など見てはいなかった。それは、より重要な案件に心を奪われ、宗男が決して「重要人物」という扱いではないことが窺えた。言われるまでも無く、そういった扱いを受けるのは日常茶判事だったではないか。天下のトヨサン社員が宗男の様な下層の人間をゴミ扱いすることは、言われるまでもなく判っていたことである。彼らが子会社、孫会社の社員を人間扱いすることなど無いことは知っていた。ましてや出入りの業者など。
同時に宗男は理解している。彼らと付き合う時は、自分が人間であると思ってはいけないのだということを。そういった感情を捨て切れた時に始めて、彼らは自分たちを「使える駒」として認識してくれることを。だが宗男は・・・ そこまでして奴らの駒になろうとは思ってはいない。その本心を恭子の前で吐露したら間違いなくどやし付けられるだろうが、それが宗男の偽らざる気持ちであった。ドローンに宗旨替えしてまでそんな仕事をするくらいなら、そのままヤマブチモーターに居続ければ良かったのである。ヤマブチを辞めてなお、あんな生活を続けるなんて、宗男の選択肢には無かったのだ。宗男はトヨサン本社を後にし、まっすぐ駅に向かって歩いた。その間、一度たりとも後ろを振り向くことは無かった。
その数日後、ベッドにうつ伏せになった恭子の肩や腰を、宗男が汗だくになりながらマッサージしていた。ヤマブチを辞めて以降、仕事が無い時はこういったエステまがいのことを強要されるのが、宗男の日常になりつつあったのだ。シャワーを浴びた後の恭子は、その胸に巻いたバスタオル一枚をはぎ取れば、下には何も着けてはいない。その
宗男は思う。初めて恭子を見た時、彼女の身体は褐色に日焼けして、水着の跡が白く艶めかしく浮かび上がっていたものだが、そのコントラストも今は失われつつあるようだ。それだけの長い時間を恭子と共にしてきたことに思いを馳せる宗男であったが、そんな感慨にも気付かない恭子は、うつ伏せのまま顔の前に持ってきたスマホに集中している。その姿は、フカフカのカーペットの上に寝そべりながら、コミック雑誌を読みふける子供のようだ。そして突然、スマホを持った右手を顔の前からグィと脇に移動させた。その拍子に手の甲が宗男の股間を直撃し、パキンパキンに痛烈な一撃を加えた。宗男は「ほぉーーーっ!」と怪鳥のような声を上げて、その場にうずくまる。恭子はそんな宗男に気付かない様子だ。
「たった今、依頼のメールが飛び込んできたよ! ほら!」
宗男は、ジンジンする股間を押さえながら、もう片方の手でそのスマホを受け取った。時々宗男は思う。ひょっとして恭子は、宗男の恥ずかしい部分を恥ずかしい時に、わざと攻撃しているのではあるまいかと。とは言え、それを問い質すわけにはいかないのだが。
メールにはこう記されていた。
────────────────────
仕事の依頼です。
詳しくは会って話します。
今度の日曜に井の頭公園で会いましょう。
午後3時に池の横で待ってます。
ベイスターズのキャップを被っています。
阿久津
────────────────────
「随分と一方的な内容だなぁ。あまり
そう言いながらスマホを恭子に返すと、それを受け取った恭子が言った。
「どうするの? 依頼受ける?」
「そうですねぇ、受けるかどうかは別にして、一応話だけは聞いておきますか」
「オッケー。じゃぁ、承諾の返信をしておくね」
恭子は再びスマホを顔の前に持って来ると、慣れた手付きで入力を始めた。そのキーボードを打つ速さといったら、何度も見ても惚れ惚れするくらいだ。決して自分にはできない芸当だと、宗男はそれを見る度に思うのであった。最後に送信アイコンを押した恭子は「これでヨシ!」と言って、今度はベッドの上で仰向けになった。それを間近に見た宗男の股間は再びパキンパキンになって、腰を引いた情けない姿勢で固まった。
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