3-3
その男は池の畔のベンチに腰掛け、メロンパンか何かを千切っては池の鯉に向かって投げ込んでいた。その手は、何回かに一回は自分の口に持って行かれ、横顔から見える顎は、モグモグと動きながら緩慢な租借を繰り返している。歳の頃なら60台前半か? 約束通り、その頭にはベイスターズのキャップを被ってはいるが、どう見ても無理やり感が拭えず、ヨレヨレのスラックスと皺の寄ったワイシャツ姿には不釣り合いな感じだ。
「阿久津さんでしょうか?」
申し訳なさそうに話しかける宗男に、男はメロンパンの屑が付着した顔を向けた。
「MKエアサービスさん?」
「はい、宮川と申します。よろしくお願いします」
1メートルほど間隔を空けてベンチに並んで座った宗男に顔も向けずに、その阿久津と名乗る男は池に向かって再びパンの欠片を投げ始めた。そして何も言わずに暫く、その動作を続けた。宗男は黙ってパン屑に群がる鯉を眺める。いったい、どういった依頼なのだろうか?
暫くすると阿久津は、足元に置いた鞄の中から一枚のコピー用紙を取り出すと、それを二人の間の空いたスペースにそっと置いて、またしてもパン屑を投げ始めた。何か、声を出してはいけないような雰囲気を感じ取った宗男は、そのコピー用紙を取り上げて目を通す。それには、福島県のとある住所が印刷されているだけで、他には何も書き込まれてはいなかった。
福島県郡山市鍛冶屋町450
宗男には、その住所が何を指し示しているのか判らず、何度も読み返した。阿久津は手元のメロンパンが無くなってしまい、最後の一欠けらを投げ込もうとしたが、やっぱり気が変わって、それを自分の口元に持って行った。
「そこにはニッタのテストコースが有ります」と阿久津が言う。
ピンと来ない宗男は聞き返す。
「ニッタ? あのニッタ技研工業のニッタですか?」
その間も二人が目を合わせることは無く、餌の配給が終わって四方に散り始めた鯉を目で追っていた。
「そう。あのニッタ技研が、来期投入する新車の走行試験をやっています」
「はぁ・・・」
「その開発車両の写真、出来れば映像を入手して欲しいのです」
それは・・・ 産業スパイという単語が頭に浮かんだが、口に出すことは出来なかった。当然ながら、阿久津がその映像を欲しがる理由も、その入手映像の用途も質すわけにもいかない。
「そのテストコースの周囲三方、北、東、南は田んぼになっていて、不審な者は直ぐに見つかってしまいます。しかし西側だけはこんもりとした森に接していて、その森の向こう側は川になっています」
「つまり・・・ 森に紛れてテストコース内の映像を撮影しろと?」
その質問には答えず、阿久津は胸ポケットから取り出したセブンスターに火を点けた。
「何をどうしろ、という指示は出しません。私どもは何が欲しいか、をお伝えするだけです。宮川さんがお考えになった方法で、目的を達成して頂ければ結構です」
いかにトロい宗男であっても、話の流れは読める。阿久津はトヨサンの息のかかった人物なのであろう。万が一の場合、その行為が明るみに出たとしてもトヨサンの関与が表沙汰にならないように、阿久津という謎の男のワンクッションを置いているに違いない。先日のトヨサン本社での成橋との面会は、MKエアサービスに産業スパイを委託できるかどうかの事前調査であったと考えるべきであろう。だからこそ成橋は、名刺交換を躊躇したのだ。
「一つ、お伺いしてもよろしいでしょうか?」
「何なりと。ただし、お答えできない場合もありますのでご了承下さい。少なくとも私に関する情報については一切お答えできませんので、予めお断りしておきます」
「はい、承知しております。私がお聞きしたいのは、そのテストコースには沢山の車が走っているのではないか、ということです。開発車両と申しましても、私どもには、どれがその車なのかが判別できません・・・」
阿久津は暫く沈黙した。宗男の問いかけに関し、何かを考えているようだ。その表情には池の水面で反射する光が、ユラユラとまだら模様を映し出していた。
「おっしゃる通りですね。それでは、こんな写真をご覧頂きましょうか」
そう言って鞄の中からスマホを取り出し、何かを検索し出した。数分の後、阿久津が示した写真には、全体が見た事も無い奇妙な模様で埋め尽くされた車が映り込んでいた。白地のボディにグレーの幾何学模様が施され、一見するとそのボディ形状が掴みにくい塗装だ。
「開発中の車両は、こういった迷彩パターンで全身が覆われています。勿論、その形状やデザインが
「はぁ・・・」
「依頼料は500を基本とします。得られた情報の質によって、更に500まで、つまり最大1000までのプラスが考慮されます」
「判りました。それでは一旦、社の方に持ち帰って、スタッフと協議させて頂きたいと思いますが、宜しいでしょうか? 追って、弊社の受託可否をお伝えしたいと思いますが」
MKエアサービスは「社」を名乗るほどのモノではないし、「スタッフ」など誰も居ない。ただ宗男は、この時点で安請け合いすることに踏み切れなかった。とにかく恭子にこの話をして、彼女の意見を聞きたいと思ったのだ。
「もちろんです。良い返事をお待ちしております。それでは」
丁寧な対応をしようと宗男は立ち上がりかけたが、阿久津はそれを制するように右手を上げると、顔も見ずに立ち上がりそのまま池に沿って歩き始めた。宗男は一瞬、その背中を見送ったが直ぐさま視線を池に戻し、そして何事も無かったかのように空を見上げた。東京のくすんだ青空を背景にして、
国内最大企業であるトヨサンの企業理念は『公平な企業活動を通じ、社会から信頼され得る一員たれ』だが、裏理念は『出る杭は打ち、骨の髄までしゃぶれ』という容赦無い経営理念を持つダークな会社だった。そのトヨサンがニッタの最新モデルのデザインを盗み出し、何らかのダメージを与えようとしているのは明白であった。
そんな大企業間の産業スパイ合戦(?)に巻き込まれつつあるMKエアサービスであったが、その非合法活動が明るみに出た際は、トヨサンが「知らぬ存ぜぬ」を貫き通すことは火を見るより明らかだろう。大企業にぶら下がる中小企業は、大企業のそのような思惑を知りつつも、生きるためにやらねばならない時が有るのだ。
だが、今回の案件に関する恭子の反応は熾烈であった。
「大企業って、そんなに偉いの? 一流企業の一流って何なのさっ? 自分らは安全な所でふんぞり返って、危ない仕事は下に押し付けて。それでも仕事を貰いたい零細企業は、我慢してやらざるを得なくて。そんなの、相手の弱みに付け込むヤクザと変わらないじゃん! 何か有ったら、トカゲのシッポ切りに合って、宗男だけが痛い思いをするのが目に見えてるじゃん!」
恭子は凄まじい剣幕で宗男の肩をドンと押した。宗男はヨロヨロと壁まで後ずさりし、壁に追い詰められてしまった。
「そりゃぁ、そういった会社に就職するためには一流大学を出てなきゃ入れないんだろうし、一流大学に入るためには小さい頃から一生懸命頑張って勉強したんだろうよ。そのご褒美として、大人になってそういう立場になれたんだから、努力に見合ったステータスを得たと言えるのかもしれない。むしろ、そういう大人になるために頑張って勉強したと言うべきかもしれない。そういった時期に頑張らなかった奴が、大人になって辛い立場に居るのは自業自得だと言うのかもしれない」
宗男の胸ぐらを掴んだ恭子はなおも攻めた。堰を切ったように溢れ出る言葉が、止めどなく続く。心の叫びが止まらない。
「でもね、そんな昔の努力とかそういったものが一生付きまとって、人間関係の上下を決めつけてしまうのって、おかしくない? そんなことを宗男に言っても仕方のないことだってのは判ってるよ。でも、宗男はそれでいいの? そんな扱いを受け続けることが悔しくないの?」
その声は次第に涙声となり、宗男の胸にすがり付くように言った。既に最初の気迫は消え失せて、か弱い人間の姿が露呈していた。涙を堪えるように恭子の顔が歪んだ。
「私は悔しいよ。頑張ってる宗男が、その程度の人間として見くびられていて、その状況を変えることが出来ないこの世の中が悔しいんだよ。許せないんだよ。こんなに頑張ってる宗男が、どうしてそんな扱いを受けなきゃいけないのさ? そんなの、不公平だよ・・・」
最後の言葉は弱々しい懇願のようになり、恭子は宗男の胸に顔を埋めた。宗男はその頭を優しく抱き寄せた。彼女の過去に、今回の案件に思い入れを抱かせるような何かが有るのだろうか? 宗男はふとそんなことを考えた。恭子の髪から、シャンプーの良い香りが漂ってきた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます