9-3

 その女子トイレは清掃も行き届き、清潔で明るい雰囲気だった。どこかから流れてくる音楽も、トイレというジメジメした雰囲気を和らげるのに一役買っている。左側に大きなカラスがズラッと埋め込まれ、その前には洗面台が3個備え付けられている。右側には個室が隙間なく並んでいるのが見えた。恭子はゆっくりと足を進めた。手前から、空、空、空・・・ そして最後の一個だけドアが閉じられている。恭子は一息、大きく吸い込むとそうっと吐き出した。そして足音を忍ばせるように近付いて耳を澄ます。そこに流れる、場違いなジャズが邪魔だった。いまだ落ち着きを取り戻し切れていない自分の呼吸音と、心臓の鼓動に合わせて耳の辺りで脈動する心拍音も邪魔だった。それでも辛抱強く息を潜めて耳を澄ますと、閉じた個室の奥から微かな呼吸音が届いた。その小部屋の主も荒くなった息を整えようと、必死に、それでいて抑制された呼吸を繰り返しているようだ。

 恭子は勝負に出た。

 「ドアから離れなさい! 怪我するよっ!」

 そして右足を振り上げると、そのドアノブ付近を足の裏側で思いっきり蹴り下した。「バンッ」という大きな音と共にドアが内側に向けて開く。その際、破損したロック部品が床を転がり、カランカランと乾いた音を立てた。そこには、これ以上は無理というほど大きく目を見開いた結花が、奥側の壁に張り付くように立っていた。その両腕は乱暴に蹴り開けられたドアから自分の身を守るように、彼女の腕の前で縮こまっていた。

 「てめぇ、何だよっ! 女デカかっ!?」怯んだ自分の心を立て直すかのように、結花の反撃が始まった。

 「デカ? まさか。ただのお節介なお姉さんよ」それでも恭子は落ち着いたものだ。

 「じゃぁ何の用だよっ! さては、あのジジィの差し金かっ!? ドローンなんか使って追い回しやがってっ!」

 そう言って結花は、肩で恭子の身体を押しのけるようにして、個室の外に出ようと試みた。しかし恭子は、右腕で結花の胸の辺りを「ドン」と突いてそれを押し返す。女同士とは言え、元々体格差の有る二人だ。結花はよろける様に後ずさり、そのまま元の位置に納まった。二人は、ほとんど「壁ドン」のような塩梅だ。

 「ジジィって、組長のこと? まぁ、そんなところだけど・・・ もう、あの人には関係無いの。今は私が個人的に、あなたと話がしたいだけなのよ」

 興奮する結花をよそに、恭子はたまたますれ違ったご近所さんと、世間話でもするかのような呑気な様子だ。

 「話ぃ? 何だよ? ジジィの所に帰れってか? 説教垂れるつもりか?」

 「うぅ~ん・・・ それも違うんだなぁ。あそこに帰るかどうかはあなた次第。そんなことは自分で決めればいいわ」

 「じゃぁ、何なんだよ!? ウゼェんだよ!」

 ノラリクラリとした話し方にイライラした結花が絶叫すると、恭子の顔つきが突然キリリと変化した。先ほどまでのとぼけた空気は、一瞬にして霧散している。

 「あなたが付き合ってる、あの男・・・ ロクなもんじゃないよ。判ってるの?」

 だが、それがかえって結花の怒りに火を灯す結果となった。彼女の可愛らしい顔が鬼の形相に変った。体中から怒りの業火が、轟々と音を立てているようだ。

 「うっせぇんだよっ! あたしが誰と付き合おうと勝手だろっ!」

 今度は恭子も、その怒りを受けて立った。もう、ヒラリとかわしたりはしない。

 「あぁ、勝手よっ! それはあなたの勝手だわっ! だから私も勝手にさせて貰う! 私はあなたと話がしたいから、勝手に話させて貰うわっ!」

 「てめぇに何が判るんだよっ! 偉そうな口利いてんじゃねぇっ!」

 グィと押したら、次はスッと引く。恭子は結花の心を弄ぶかのように、緩急織り交ぜた態度で揺さぶった。今度は呆れるような態度だ。

 「判るわけ無いじゃん、あなたの気持ちなんて。バッカじゃないの? 私、これでも幸せな青春時代を送ってきたの。あなたのクソみたいな青春とは違ってね」

 面と向かってクソみたいな青春と切り捨てられたことなど無い結花は、グッと言葉に詰まった。恭子のそれはきっと、自分の過去から学んだ実践的な交渉術なのかもしれない。

 「でもね、これから先、あなたがどんな気持ちになるかは判るわ。だって、あなた・・・ 私とそっくりなのよ・・・ あなたくらいの歳の頃、私がやっていたバカと全く同じことしてる」

 返す言葉を失った結花にではなく、その心の奥底で片意地を張っている何者かに話しかけるように、恭子は話し出した。

 「そりゃぁ、あなたみたいな悲惨な過去は背負っていないわよ、私。むしろ幸せな子供時代を過ごしたと言ってもいいかもしれないわ・・・


 私も父親に反発して家を出たの。厳格で、弱い者に無慈悲で、人を上から見下ろすことしか知らない父に我慢ならなかったの。それで北海道を飛び出して東京に来たんだ。でもね、心の何処かに甘えが有ったのよ。信じていたと言ってもいいかもしれない。たとえ今は意見の相違が有ったとしても、そんなことで家族の絆が崩れ去るとは思っていなかったのね。いずれ父も私のことを理解し、そして許してくれると思っていた。迎え入れてくれる時が来ると信じてた。

 でも、そんな日が来ることは無かったわ。

 あなたの心の中に、そういった甘えは無いのかしら? あなたの父親に対する気持ちは、私には想像するしかないけれど、あのお爺ちゃんに対しては、いつでも迎え入れてくれるはずだという甘えは無い? お爺ちゃんの優しさに甘えて、無茶の行動をしているんじゃないの? 私はその、自分の甘えに気付かず父を失ったの。


 「父親なんか・・・」結花が顔を背けるようにして呟く。


 そうね、あなたの父親はクズね。何の罪で服役してるのかは知らないけれど、おそらく生きる価値も無いクズ野郎なのよね、きっと。でも、どうしてあなたのお母さんは、いまだに熊林姓を名乗っているんだと思う?


 「知るかよ! そんなこと!」キッとした差すような視線を向ける。


 お母さんがヤクザ者と結婚したのは、あなたを身籠ったからでしょ? そんな両親が別れたのは何故かしら? 


 「知らないよ、そんなこと・・・」再び視線を落とす。


 私が思うに、それもやっぱりあなたの為なんじゃないかしら。父親がヤクザでは、子供が辛い思いをするに決まってるわ。だから我が子を思って、涙を呑んで離婚したんだと思うよ。クズの父親も辛かったのかもしれないね。私の勝手な想像だけどね。だから父親と和解しろなんて言うつもりは無いから安心して。

 じゃぁ、最後にもう一度聞くよ。あなたのお母さんは、何故今でも熊林姓を名乗ってるのかな?


 「・・・・・・」


 その時、トイレの清掃員のおばちゃんがモップを担いで入って来たが、開け放した個室で見つめ合う二人の女の姿を認めると、そのまま回れ右をして何も見なかったかのような素振りで足早に退散した。おばちゃんにしてみれば、およそ想像も付かないような禁断の世界が、そこで今まさに御開帳されていると誤解したのであろう。長身の女(恭子)と小柄な女(結花)が、これからどんな絡み合いを始めるのか? それを考えただけでもおばちゃんの鼓動は速くなり、顔が火照っているようだった。


 「ついでだから、もう一つ想像で話をさせて貰うなら、それもあなたの為なんじゃないかしら。あなたが『熊林』を捨ててしまったら、何処に帰るの? 母方の祖父母は、あなたのこと受け入れてくれたの? 私は帰る場所を失って、それでどうでもいい男を捕まえて結婚したわ。もう、ヤケになっていたのね。私を自分の人生から締め出した父親に対する復讐だったのかもしれない。そしたらそいつ、とんでもない変態野郎だったのよ。詳しい話はしないけど、その頃の私は、今のあなたと遜色無いくらい悲惨なものだったわね。あなただって、あの男のことを心から慕っているわけじゃないんでしょ?」

 「そ、そんな人生から、どうやって抜け出したのさ?」結花の表情は、助けを求めるそれに変わっていた。

 「白馬に乗った王子様が・・・ いいえ、ドローンに乗ったオジ様が、ある日突然現れて助け出してくれたの」

 「何それ? わけ判んないよ・・・」

 結花はつまらなそうに床を見下ろした。

 「私だってわけ判んなかったわよ。でも私の話はいいの。今、私幸せだから。それよりあなた。大切なものを永久に失う前に、そのことに気付いて。失ってから後悔しても遅いのよ。つまらない意地なんか捨てて、それを手元に引き寄せて」

 恭子は結花をそっと抱き寄せた

 「あなたは充分、辛い思いをして来たでしょ? もうこれ以上、自分を傷付けないで。お願い」

 結花はなされるままに、恭子の身体に身を寄せた。

 「私、戻れるかな? 今からでも遅くないかな?」

 「大丈夫・・・ 大丈夫・・・」


 恭子が結花を連れて地下駐車場に降りて来た。その店舗入り口を見渡せる所に6号機を停めて、スマホのゲームに興じていた崇がそれに気付く。辺りをキョロキョロしている恭子に向かって「プッ」と短くクラクションを鳴らすと、エンジンをかけて発車し二人の前に横付けする。助手席のドアを開け、中を覗き込みながら恭子が言った。

 「じゃぁ、私、チョッと買い物して帰るから。結花ちゃんのこと、よろしくね」

 「ええっ!? こんな時に買い物って、何だよ姉ちゃん! 本気か!?」

 「ほら、新しいマンションに引っ越すって宗男が言ってたでしょ? そうなったら色々入用だし、丁度いい機会かなって思って」

 「訳判んねぇよ! んなもん、東京で買やぁいいじゃんか! なんで横浜で買うんだよっ!?」

 「だってさっき、走ってる時に可愛い枕カバー見つけたんだもん。んじゃ、よろしくね」

 そう言うと、無理やり結花を助手席に押し込み、恭子は片手を挙げて踵を返した。そして二人が降りてきたエスカレーターに再び向かって、さっさと歩いて行ってしまった。

 6号機には、崇と結花の二人きりが残された。結花は借りてきた猫のように、助手席にチョコンと座ってダッシュボード辺りを見詰めている。思い詰めているようにも見える。崇ははれ物に触る様な気持ちで話しかけた。

 「じゃ、じゃぁ、港南台のアパートに戻ればいいのかな?」

 ぎこちなく問う崇に、結花は目を合わさずに答えた。

 「ううん・・・ おじいちゃんの家」

 結花の両手は、膝の上でギュッと握りしめられていた。崇は「フッ」と笑った。

 「それは『自分の家』っていうんだよ」

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