7-2

 熊林の孫、結花ゆいかは、大船駅にほど近い港南台のアパートを借りていた。無論、熊林はその住所も抑えていたが、結花がヤクザ者を毛嫌いしてるため、組の若い衆にその身辺を監視させることも出来ない。これが、もっと繁華街に近い華やいだ街であれば、人ごみに紛れて結花の動向を探ることも可能なのだが、港南台ほどの閑静な立地ではそれもままならない。仮に組の者による監視が可能であったとしても、結花本人から「私の周りをうろつかないで!」ときつく釘を刺された熊林は、孫娘の意志を無視してまでそれをやることが出来なかった。そこでMKエアサービスの登場となるわけだが、その手の仕事を興信所に頼まないのは何故だろう、と宗男は思う。きっとそれは、倉庫街での一件以来、熊林のMKエアサービスに対する信頼が厚いが故、というわけではないのだろうと宗男は考えていた。熊林の言外に、監視業務以外の何か・・を求めている匂いを感じていたのだ。


 横浜と言えどもこの辺りになると、むしろ山がちで起伏が多い土地柄だ。こんもりと木々が茂る小山や傾斜地も多く、ドローンパイロットが潜むには格好の土地柄と言えた。これまでのMKエアサービスが扱ってきた、数々の裏稼業・・・によって蓄積された技術やノウハウは、ここでも遺憾なく発揮できるシチュエーションなのだが、いかに鬱蒼とした森であったとしても、そこは人口密集地域である横浜。さすがに頻繁な人の出入りが有れば人目に付いてしまう。従って宗男たちは、倉庫街で使った中継局・・・を結花が住むアパートを見下ろす小山の中腹に据えることで、かなり離れた地点からドローンを操作しつつ、映像を取得する方法を採用した。

 まずは、波多野大臣宅を監視した手法で、タイプラプス映像による緩い監視を行い、ターゲットの生活パターンの把握から始めた。いきなり張り付くような方法では無駄が多いことを学習した宗男たちは、いまや特殊技能を持つ一端のエージェントのようだ。その結果、ターゲットである結花は非常に模範的で規則正しい生活を送っており、故郷で待つ親御さんにその報告をすれば、必ずや安心して貰えるような、品行方正な日常を送っていることが確認された。おそらく、彼女が通う大学の講義時間の都合だと思われるが、毎週月火と木は、比較的ゆっくりとした朝を送り、水曜と金曜だけは、かなり早く自宅を出る習慣のようだ。これがたまたまではなく、毎週決まってこのパターンが繰り返されることから、結花はいたって健全な女子大生と言えそうだ。ただ金曜の夜には ──おそらく、熊林の言うところの「付きまとっている」と思われる── 20歳台前半と思しき男がやってきて、翌土曜の朝に結花の部屋を後にするという、これも決まったパターンが繰り返されていることも確認された。

 先ずはこの事実を熊林に報告すべきだろうか? 宗男は悩んだ末、取りあえず報告せずにおく方を選択した。熊林が孫娘のことを生娘だと信じているということは無いのかもしれないが、やはり親心・・・ というか祖父心としては、可愛い孫娘の部屋に見知らぬ男が出入りして、夜を共にしているという事実はショッキングに違いない。この判断に対し、崇は要らぬ配慮だと決めつけたが、恭子は賛同してくれた。彼女としても熊林の落胆や狼狽を見たくはないのだろう。


 結花の生活パターンが確定したので、宗男たちの仕事は次の段階へと進んだ。平日に例の男が現れることは無いことが判ったので、無駄に張り付いて神経をすり減らす必要も無い。金曜の夜にだけ部屋を監視し、男の素性に繋がる何かが網に掛かるのを待てば良いのだ。そして夜は、宗男たちの本領が発揮される時間帯でもある。

 中継局を経由して送られてくる画像には、結花の住むアパートが映し出されていた。その二階、一番奥の部屋に彼女は済んでいる。男が現れるおおよその時刻を見計らい、6号機から黒ずくめのドローンが飛び立った。この時、「タッタララ~ン」と歌ったのは、宗男ではなく崇であった。彼の年齢からしてサンダーバードを知っているとは思えないが、いつも宗男が口ずさむのでうつってしまったのだろう。宗男は内心でクスリと笑った。

 程なくすると、例の男が現れた。見た目はまさに大学生のそれであった。顔は面長で色黒と言うより、不摂生な生活が祟って顔色が悪いといった方が当てはまりそうだ。ただ、その顔立ちはイケメンと言われてもおかしくはない程には整っており、その長身と相まって女の子にはモテそうな印象を与える。裏地がオレンジのよく見かけるアーミーグリーンのブルゾンと極めてスリムな、故意にくたびれ感を出したジーンズ。ただしブルゾンの下に着ているのは「IRON MAIDEN」とプリントされたロックテイストのTシャツで、その襟元はザクザクと破れたような装飾が施されている。そこから覗くこれ見よがしな金のネックレスが、付き合うと面倒くさそうなタイプと思わせた。よく見れば腰の辺りにも、無駄にジャラジャラしたチェーンと共に、同じく無駄に寄せ集めたかのようなキーがガチャガチャと騒がしそうだ。足元を見れば、ツンと反ったつま先が尖ったブーツで固め、手首にはゴツゴツとした鋲が意味も無く並ぶリストバンドを、さも自慢気にはめている。若い頃の一時期は許されるものの、歳を負うごとに封印せねばならない典型のテイストであろう。おそらく、いやまず間違いなく、ロックにカブレた鬱陶しい属性の若者であった。

 男が部屋の玄関を少し乱暴にノックすると、中から結花が顔を出して男を招き入れた。玄関から顔だけを覗かせた結花は、かなり小柄なタイプと見受けられる。その全身を見ることは出来なかったが、その丸顔とクリクリした瞳が愛らしい顔立ちから、少しふっくらとした印象を与えた。キュッと引き締まったと言うより、むしろマシュマロの様な柔らかな顎のラインが、その推察を裏付けているだろう。黒目がちな瞳と共に、色白の顔にアクセントを添えるピンク色で健康的な小さな口は、まるで少女のそれを思わせ、彼女の童顔をことさら際立たせていた。

 その姿をドローンのカメラ越しに見詰めていた宗男は、決して結花がその男を疎んじているわけではないと思えた。同じ映像を見た恭子も宗男と同様に感じたようで、「本当に付きまとわれてるのかしら?」と言葉を漏らした。男を部屋に上げる際の結花の顔は、それこそ待ちわびた恋人の訪問にはち切れそうな笑顔だったではないか。若い男女の良好な恋愛関係が、そこから見て取れた。そのような相思相愛の二人の仲を無理やりに裂くようなことは、いくら肉親だからと言っても、それは人権侵害に他ならない。宗男が黙って恭子の顔を見ると、恭子も腑に落ちない顔で見返しながら首を振った。熊林の言葉を100%信じてはいけないのかもしれない。結花の意志などお構いなしに、あの男から孫娘を取り返そうとしている祖父の姿が、熊林の面影と重なった。

 「裏に回ってみようよ」崇が言った。

 それは、ワンルームのアパートだ。玄関の反対側に回れば、そこには部屋に一つだけ取り付けられた窓が有る。そこから中を覗けば部屋の中を確認出来て、おそらくその奥には、今、男が入っていった玄関ドアが見通せることだろう。宗男はドローンを一旦、アパートの屋根より高く上げ、山を越えるように建屋を乗り越えて反対側に移動した。態勢を整えたドローンのカメラが結花の部屋の窓を捉え始めた時、それが全開に開け放たれていることを宗男は認めた。夜の町並みには、あちこちに明るく浮かび上がる窓が並んでいて、それらのどれもがピンクやオレンジの光を透かすカーテンによって遮られている。しかし結花の部屋だけはカーテンを引くことも無く、その室内を無防備に曝け出していた。アルミでできた華奢な柵の向こうに、同じくアルミでできたサッシが有る。そしてその向こうには、女の子らしい小物がに溢れる華やかな部屋が覗いていた。だが、一番大きく場所を取っているのは、やはりベッドであった。可愛らしい動物柄の布団カバーの上に結花がチョコンと座っている。その視線は、ドローンからは死角となる壁の陰の方に注がれているようだ。おそらくその一角に、あの男が居るのであろう。

 その光景をVRゴーグルを通して見た宗男は、デジャヴを感じていた。6号機のモニターを通して同じ画像を見ている恭子が息を飲む音も聞こえた。ドローンを自動ホバリングモードに切り替えた宗男が、ゴーグルをそっと外して恭子の方を盗み見た時、彼女が食い入るようにモニターに見入っている姿が目に飛び込んで来た。しかし恭子の眼は、それを見ているようでいて、実は遠い記憶に埋もれた自分の姿を見ているように思えた。宗男は「恭子ちゃん・・・」と囁くと、簡易テーブルの上でギュッと握られた恭子の拳を包み込むように、優しく触れた。恭子は、ハッと我に返る様に宗男を見つめ返した。

 「うん。大丈夫だよ」そう言って不器用に笑った。

 するとその時、死角の中から男の姿が現れた。部屋の照明を背中に受けた黒い人影が、腰高の窓に取りついたのだ。一瞬、宗男はヒヤリとしたが、暗い夜空に浮かぶ黒いドローンを、そう易々と見付けられるわけは無い。宗男は有らん限りの勇気を振り絞って、ドローンをその場でホバリングさせ続けた。本当に大丈夫か? 恭子はそれを、まんまと見付けたではないか。あの男の眼には、今まさに暗闇に浮かぶ得体の知れない物体が映り込んでいるのではあるまいか? 宗男の手に、嫌な汗が浮かんだ。しかし今度は恭子が、プロポを握り締める宗男の手に自分の手を添えた。

 「大丈夫だよ、宗男。見つからない」

 宗男はゴクリと唾を飲み込み、ただ「うん」と答えた。

 男の影は、暫く窓の外を眺めていた。カメラを通して見るその黒い人影は、まるで結花の部屋に突然現れた邪悪なブラックホールか何かのようで、今にでも周りの物を吸い込み始めるのではないかとさえ思えた。男がそうしていた時間は、とてつもなく長く感じたが、暫くの後、男は乱暴に窓を閉め、そして同じように乱暴にカーテンを閉めた。後には葉っぱの柄がプリントされたカーテンを透かして、柔らかな黄色い光を漏らす窓が残された。宗男と恭子はいつから止まっていたか判らないような長い息を吐き出し、力尽きた様に椅子に身体を預けた。二人は顔を見合わせ、力無く笑い合った。今見ていた光景が二人にとってどういう意味を持つのかを知らない崇だけが、「あっぶねぇ~」などと一人呑気なのであった。

 「引っ込んじゃいましたね」宗男が言うと、恭子がため息混じりに応じた。

 「そうね。明日の朝まではお手上げかもね」

 「取り敢えず・・・ 晩御飯でも食べに行きますか?」

 宗男の提案に崇が飛びついた。

 「近くに旨いラーメン屋が有るよ! そこ行こうよ! 八角屋って家系だけどいいよね?」

 「えぇ~、家系? 太っちゃうじゃん~」

 恭子は不満気だ。コテコテのラーメンを好む女性など、そう居るもんではないということか。

 「大丈夫だよ。油少な目とか油抜きも出来るから! 兄さんは?」

 「久し振りに家系ラーメン、食べたいですねぇ」

 「よっしゃ、決まりっ!」崇のガッツポーズが出た。

 「アンタら、乙女心が判ってないわね」

 文句タラタラながら、恭子も楽しそうだ。その様子を見て宗男は、密かに胸を撫で下ろした。


 ズルズルッと太麺で有名な八角屋のラーメンをすすり上げながら崇が聞いた。

 「で、これからどうするの、兄さん?」

 箸でチャーシューを細かく切りながら、宗男は答える。

 「そうですねぇ・・・ あの男を監視できるのは金曜の夜から土曜の朝にかけてだけですからねぇ。ここは少し頑張って、明日の朝まで張り込みますか」

 「そうね。ひょっとしたら夜中に外出するかもしれないし」

 「そうなんですよ。結花ちゃんの生活パターンからすると、その可能性が低いのは判ってるんですけどね」

 すると崇が、とてつもなく良いアイデアを思いついたように言った。

 「じゃぁさぁ、明日の朝、あの男が部屋を出たら、俺がこっそり後をつけようか?」

 前回、警察の依頼を受けて以降、何かと刑事の真似事をしたがる崇に、恭子がピシャリと言った。

 「その代わり、明日の朝まで寝かせろって言うんじゃないでしょうね?」

 「へっへぇ~、バレたか」

 「当たり前よっ。バレバレだっつーの!」

 しかし宗男は、違うことを考えていた。

 「あの男がどんなやつか判らないですからねぇ。もし尾行がバレたら危ない目に遭うかもしれませんよ。だから崇君には、そんな危険な橋を渡って欲しくは無いのですが・・・」

 「俺、やるよ」崇は宗男が言い終わる前に声を上げた。先ほどまでのはしゃいだ様子の時とは、ガラッと表情が変わっていた。

 「ちょっと崇。危ないかもしれないって宗男が言ってるじゃん! 宗男も宗男よ! アンタが止めなくてどうすんのよっ!」

 「大丈夫だって、姉ちゃん」

 「大丈夫じゃないでしょ! アンタ、刑事じゃ無いんだから。ちょっと宗男、何とか言ってやってよ!」

 「崇くんなら大丈夫だと思ってます」

 ガラにもなく、宗男が毅然と言い放った。普段の宗男からは想像も出来ない様な、キリリとした態度に気おされて、恭子が言葉を飲んだ。崇も箸で摘まんだ麺を空中に放置したまま、宗男の顔を見た。

 「それに・・・」宗男は言葉を探した。

 「それに?」と恭子は聞き返したが、彼女には宗男の気持ちが判る様な気がした。

 それは、自分の心のしこり・・・を揺さぶるこの案件を、なんとしても成功裏に終わらせたいという思いではないだろうか。それによって自分が、過去を過去として押しやれる強さを手に入れてくれるかもしれないと、宗男なりに考えているのではなかろうか。

 「いや、何でもないです。崇くんが動いてくれるなら、その心意気に感謝しましょう」

 恭子は黙りこくった。

 「んじゃ、俺、明日の朝まで一眠りするから。後はよろしくね!」

 そう言って残りのスープを平らげた。


 現場に戻った6号機を鼬川沿いのチョッとしたスペースに停めると、宗男は再びドローンを夜空へと送り出した。見込みは薄いと判っているが、一応、結花の部屋を確認しておこうということだ。ラーメンを食べている間に充電しておいたので、ドローンのバッテリーは元気一杯である。それに反して、崇は車が止まるや否や助手席で毛布に包まってしまったので、荷室には宗男と恭子の二人だけが居た。例によって宗男がVRゴーグルでドローンを操作し、同じ画像を恭子がモニターを通して見ていた。

 先ほどと同じようにアパートの前面からアプローチし、フワリと屋根を越えて反対側に移動する。直ぐさま結花の部屋の窓が見えてきた。カーテンを透かす明かりも変わりなく、その向こうで何が行われているか判らない。しかし、よく見ると窓が20センチほど開いているではないか。しかもその隙間から覗くカーテンは最後までしっかりとは閉められてはおらず、時折吹く風にその裾を揺らしている。宗男には直ぐに理解した。近付けば部屋の中を覗ける。

 しかし宗男は躊躇した。中で行われている何か・・を見た恭子が、どういった反応を示すか不安だったからだ。宗男はゴーグルを外し、恭子の顔を覗き見た。その視線を感じた恭子も宗男を見た。彼女もドローンを近づければ、部屋の中を確認できることは理解しているのだ。そして恭子はゆっくりと頷いた。

 「いいわ、宗男。行って」

 宗男は黙って頷くと、再びゴーグルをかけてプロポを操作した。

 カメラの映像に映し出された窓の隙間が、徐々に近づいて来る。それに伴い、狭い間隙から垣間見れる部屋の内部が広がって行く。鎖に繋がれた恭子に優しく近づいたあの時の様に、ドローンはそっと窓に寄り添った。そして宗男がドローンの位置を少し右に修正すると、宗男の見るゴーグルにも、恭子が見るモニターにも、ベッドの上で肌を重ね合う男女の姿が映し出された。

 二人は立ち膝の姿勢でベッドの上に居て、壁と男に挟まれるような形の結花が、後から執拗に突き上げられていた。両手はパントマイムの様に壁に添えられ、こちらに向けられた顔は苦痛、或いは快感によって歪んでいる。少女のようにあどけない顔立ちの結花であったが、夜には女へと変貌しその全身で男を受け入れている。男がグィグィと身体を突き上げる度に、結花の小振りな乳房は壁に押し付けられ、痛々しい程に圧し潰されていた。おそらくその部屋は、悲鳴にも似た結花の甘い吐息と呻き声で満たされているに違いない。そのシーンだけを抜出せば、愛し合う男女の激しい交わりと言えなくも無かったが、宗男も恭子も、その風景の薄ら寒いような印象を拭いきれなかった。その特異な印象を決定づけているものは明らかだ。男の表情である。

 男が顔に張り付けているのは、愛しい女性と交わる際の情愛に満ちたそれではなく、オモチャの人形をいたぶる子供のような、ある種の猟奇的な光を帯びたものだったからだ。片方だけを微かに吊り上げた口角から、何とも言えない不気味な笑みが溢れている。当然ながら結花は、男のそのような表情を見てはいない。結花を後ろから攻め立てるこの男が、今にも彼女の首にその凶悪な手をかけ、ギリギリと締め上げる情景が目に浮かびそうだ。「この男はヤバい」宗男は直ぐに気が付いた。勿論、恭子もそれを感じ取った。いや、むしろ宗男よりも敏感に、それを察知したに違いない。そして恭子の心が悲鳴を上げた。

 「ひぃーーーっ・・・」

 発作を起こしたかのように息を吸い込んだ恭子が、声にならない悲鳴を上げ後ずさった。事態の緊急性を感じ取った宗男はドローンを窓から遠ざけ、直ぐさま自動ホバリングモードに切り替える。そしてゴーグルをむしり取ると、蒼白な顔で目を見開く恭子に駆け寄った。

 「大丈夫だよ、恭子ちゃん!」

 それでも恭子は、今は暗闇しか映し出していないモニターを見ながら、ワナワナと震えている。その両手は空をかきむしるような形をしながら、力無く恭子の顔の前で小刻みに震えていた。その呼吸は速くて小さく、過呼吸のように喘いでいる。宗男は恭子の身体を抱き締めた。それでも恭子の身体の震えは止まらず、その口からは意味をなさない言葉が僅かに漏れ続けた。

 宗男は強く恭子を揺すり、そして大きな声で言った。

 「恭子ちゃん、しっかしりて! こっちを見てっ!」

 真っ暗なモニターに吸い付けられていた恭子の視線が、少しずつ宗男の方を向いた。そして焦点の合わない目が徐々に宗男を捕らえ始め、ゆっくりと焦点が戻ってくる。

 「宗男・・・」

 宗男は少し優し気な口調に切り替えた。

 「そうだよ。ここに居るよ。もう大丈夫だよ」

 恭子の顔が歪んだ。子供の様な泣き顔になると、その目から涙が溢れ出た。それと同時に、喉から絞り出すような嗚咽が溢れ出た。

 「宗男・・・」

 恭子はもう涙を堪えることなど出来なかった。堰を切ったように泣き出した。宗男はその身体を強く、ことさら強く抱き寄せて、泣きじゃくる恭子に口づける。恭子はそれを受け入れ、宗男の大きな身体にそのほっそりした腕を巻き付け、しっかりと抱き付いた。宗男はもっともっと強く恭子の身体を抱きすくめ、二人の口づけはいつまでも続いた。前方の助手席にいた崇は安心したように寝返りを打つと、毛布を首の辺りまで引き上げた。


 翌朝、いつものように結花の部屋を後にした男は、いつものように駅に向かって歩き出した。この時、決して結花が行動を共にしないのには、何か理由が有るのだろうか? 二人の間に、いったいどういう取り決めが交わされているのだろう? 恋人同士であれば一緒に出掛けて休日を共に過ごし、そしてまた部屋に戻って再び愛を確かめ合う。そういった関係が当たり前だと思っていたが、近ごろの若者は宗男が理解し難い価値観でも持ち合わせているのだろうか? たとえそうであったとしても、昨夜ドローンのカメラを通して覗き見た二人の交わりは、今思い出しても戦慄を覚えるような醜悪な光景である。宗男は脳裏に焼き付く残像を振り払うかのように頭を振った。

 「それじゃぁ、崇くん。お願いします」

 そう言う宗男に、崇は明るく応えた。

 「オッケー」

 しかし恭子の心配顔が消えることは無い。

 「危ないこと、しないでね」

 崇はニコリとした笑顔を恭子に向けた。姉が自分のことをこれほどまでに、あからさまに心配してくれたことなど、いったいいつ以来だろう? 崇は少しくすぐったくなった。今は素直に、姉の気持ちに応えることが出来そうだ。

 「うん、判った」そして付け加えた。

 「兄さん、姉ちゃんのこと、よろしくね」

 そう言い残すと、二人の反応を待つことも無く助手席のドアを開け、アスファルトの上に降り立った。運転席と助手席の間に穿かれた、荷室へと繋がる出入り口から覗く宗男と恭子の心配をよそに、崇は男の背後を一定間隔を保ちながら尾行を開始した。その後ろ姿は眠気を振り払いながら、仕方なく学校に向かう大学生のようで、尾行する姿も堂に入ったものである。宗男は少し安心した。

 「崇くんなら大丈夫ですよ、きっと」

 「うん」恭子は遠ざかる崇の背中を見詰めながら頷いた。

 「さて!」

 宗男は気分を変えるかのように明るい声を上げた。

 「男は行ってしまいました。部屋に残された結花ちゃんを監視してても得るものは有りません」

 恭子は黙って、話の続きを待った。

 「一旦、事務所に戻ろうと思いますが、後でトヨサン精機の増田さんの所に行くつもりです」

 「増田さん? また何か作ってもらうの?」

 「はい。昨日みたいに、都合良く窓が開いていることなど、もう期待できないと思うんですよ。だから窓が閉まっていても、近付いただけで中の様子が判る様なシステムを作ろうと思っているんです」

 「えぇー、そんな都合の良いもん作れんの? いくら増田さんでも、それはチョッと無理なんじゃない?」

 宗男は少し誇らしげに胸を張った。その発言を待っていたかのようだ。

 「音を監視しようと思ってるんですよ」

 「音?」

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