第三章:それって産業スパイ?

3-1

 その後もMKエアサービスには、細々した依頼が舞い込み、それなりに忙しくなりつつあった。副業を始めてからは有給休暇を取らざるを得ない場合も増え、会社からは煙たい目で見られている。収入の方も二人がつつましく生きてゆくには十分なくらいの金額が毎月入って来るようになり、そろそろ本気でヤマブチモーターを退職せねばなるまい、と宗男は考えていた。その時、自分の思考回路の中にとんでもない一文が紛れ込んでいたことに気が付いた。

 「二人でつつましく生きて行く? それってまるっきり夫婦・・じゃん!」

 宗男は恥ずかしさのあまり赤面した。そして、枕代わりの座布団を抱き締めながら畳の上をゴロゴロと転がっていると、それをベッドの上から眠そうな顔をした恭子が覗き込んでいた。

 「宗男・・・ アンタ、朝っぱらから何やってんの?」


 意を決して辞表届を書き記し、それをスーツの内ポケットに忍ばせて出社した。今日が最後の出社になるかもしれない。別に、後ろ髪を引かれるような思いは無いし、立ち去り難い楽しい思い出が有るわけではない。だが、いざ退職するとなると色々と心に浮かぶものだなぁ、などと考えながら駅に向かうと、いつも乗るはずの電車に乗り損ねていることにすら気付かない宗男であった。当然、遅刻だ。またしても森の「宗男いびり」が始まる。朝の早い時間のオフィスに、森のネチネチした声が響いたが、同僚たちはいつもの事と言わんばかりに気にも留めない様子だ。

 「大体お前は何歳なんだ? いい年こいて時間も守れないって、どういうことだ?」

 勿論、反論なんてできない。全ては宗男の落ち度なのだから。

 「あと5分早く家を出ればいいだけじゃないか、んん? もしもーし、聞いてますかー?」

 「は、はい・・・ あのぉ・・・」

 「何だ? 何か言いたいことでも有るのか? 言い訳が有るなら聞こうじゃないか」

 そう言って森は、事務所の皆に向かって声を上げた。

 「なぁ、みんな! 宮川が何か言いたいそうだ! 聞いてやろうじゃないか! 一体何を言い出すのか、みんなで聞こうっ!」

 しかたなく宗男は、内ポケットから辞表届を取り出した。幾分しわくちゃになり、駅で走ったせいで汗でシッポリと湿っている。気合を入れて万年筆で書いたので、その文字が滲んでしまった。本当ならテレビドラマのように格好良く、ビシッと叩きつけたいところだが、宗男にそんなことが出来るはずも無かった。

 「あの・・・ これ・・・」

 宗男が差しだす封筒を怪訝な顔でむしり取った森は、その滲んだ文字を見て顔を歪めた。その身体はブルブルと震えている。また怒号が飛んでくると思った宗男は肩をすくめた。

 「ぶ・・・ ぶ・・・」

 森の口から言葉が発せられる前に、宗男は頭を抱える様な姿勢で身体を引いた。そして森が爆発した。

 「ぶぅぅぅわっはっはーーーっ!」

 森は自分のデスクに突っ伏しながら、それをバンバン叩いた。左手は自分の腹を押さえていて、息をするのも苦しそうだ。

 「ひぃーーーーっ、やめてくれーーーーっ!」

 宗男はどうしていいか判らず森を見下ろした。同僚たちも何事かと二人の方を覗き込んでいる。何か笑える事件が発生中らしい。

 「お前が辞表だと!? 大した仕事もしてないくせに辞表だと!? がぁーーっはっはっ、コイツぁ傑作だ。頼むから、もう勘弁してくれーーっ」

 またしても森はデスクを叩いてもんどり打った。その目からは、本当に涙がちょちょ切れていた。宗男は言った。

 「ですから今日一日働いて、定時をもって退職という形に・・・」

 宗男が最後まで言い切る前に、森が割り込んだ。先ほどまでの可笑しくて仕方がないといった風ではなく、突然、真剣な顔に戻っていた。

 「今からでいい」

 「は?」

 「いや、だから定時まで働かなくていいって言ってるんだ。たった今、退職したという扱いで良かろう、宮川君。色々、私物とかも有るだろうから、今日一日はその整理に充ててくれたまえ。あっ、勿論、今日は丸一日仕事をしたということで勤怠提出して貰って構わんよ。私はこう見えても、結構慈悲深いんだよ」

 「はぁ・・・」

 「おーぃ、みんなー! 聞いての通りだー! 先ほど・・・をもって宮川さんが退職された。我々営業二課にとってキチョーな戦力を失うことになるが、ご本人がどーしてもと仰るので・・・」

 どうしてもなどとは、一言も言ってないが。

 「・・・私としては断腸の思いで辞表届を受理したところだ。ヒジョーに残念だが、たっての希望とあれば引き留めるわけにもいくまい。みんな、宮川大先輩の遺志を継いで・・・」

 死んだことになってしまった。

 「・・・これからもこの営業第二課をどしどし盛り立てて行ってくれ。それじゃぁ、宮川さんに拍手ーっ!」

 パチパチパチと疎らな拍手が次第に大きな波となり、営業二課の事務所が歓声に満たされた。課員たちが口々に言葉を投げかけた。

 「宮川さん、お疲れさまでしたーっ!」

 「長い間、お世話になりました!」

 「バンザーイ! バンザーイ! バンザーイ!」

 そういった感謝の言葉に紛れて妙な発言も聞こえた。

 「さっさと消えろ、この給料ドロボー」

 「オマエまだ居たのかー?」

 だが、宗男の耳には入らないようだ。宗男は訳も無く笑顔で手を振り、周囲の声援に応えた。すると森がパンッと手を叩いた。

 「はぃっ! じゃぁみんな仕事に戻ってー!」

 その掛け声を合図に課員たちは潮を引くように自席に戻り、また黙々と仕事を再開した。いつもの風景がそこには有った。宗男の存在は空気のように透明で、誰の視野にも映り込むことは無かった。上げた右手を降ろすタイミングを逸し、宗男はそのままの姿勢で立ち尽くしていた。


 アパートに戻り、「ただいま」と言って玄関に入ると、いきなり恭子が抱き付いてきた。ビックリした宗男がその身体を受け止めると、顔と顔が触れ合わんばかりの近距離で恭子がまくし立てる。こんなに近くで恭子の顔を見たのは初めてだ。宗男は左腕を恭子の細い腰に回したまま、片方だけズリ落ちたメガネを残りの手で上げた。

 「凄いよ! 宗男! 凄い依頼が舞い込んできたよっ!」

 興奮した様子の恭子を宗男がなだめる。

 「えぇ? 凄いってどんな依頼ですか?」

 「判んない」

 「それじゃぁ凄いかどうか、判らないじゃないですか」

 「でも、トヨサン自動車だよ! あの天下のトヨサン!」

 「へぇ~、トヨサンが? ディーラーとかの販売店じゃなくて、トヨサンの本体かな?」

 「うぅ~ん、私にはよく判んないから、この依頼メールを読んでみてよ」

 そう言って自分のスマホを宗男に手渡すと、「晩御飯、唐揚げだけどいいよね?」と聞きながらキッチンに向かう。宗男は「はい」と答えながら、スマホに残るメールをスクロールし始めた。


────────────────────

拝啓、MKエアサービス様


私、トヨサン自動車株式会社の成橋と申しま

す。いつもお世話になっております。


この度、SNSにて御社広告を拝見いたし、

つきましては仕事の依頼をさせて頂きたくダ

イレクトメールいたしました。


いきなり「トヨサンの成橋です」と言われて

も、貴殿にしてみれば確認のしようも無いと

思いますので、幣の在社確認の意味も含めま

して、一度、弊社にお越し頂き、直接会って

お話しさせて頂きたいと考えております。


ご都合の良い日時をご指定下さい。

よろしくお願いいたします。


====================

トヨサン自動車(株)

車両デザイン部 次期車両デザイン室 室長

成橋伸夫

〒150-8508

東京都渋谷区恵比寿南*****

Tel : 03-5447-****

Mail : Nobu-Naruhasi@toyosan.com

====================

────────────────────


 どうやら、トヨサン本体からのようだ。皿に乗せた唐揚げを運びながら、恭子が言った。

 「ねっ、トヨサンでしょ? それって、あのトヨサンだよね?」

 「うん・・・ そうみたいですね」

 「やっぱ超大手企業だから、ギャラもいいのかな? ねっ?」

 恭子は必要以上に騒ぎ過ぎである。弱小のヤマブチモーター時代に大手企業に売り込みに行った経験が有る宗男には、大手だからと言って気前がいいとは言えないことは良く判っていた。むしろ大手の方が「渋ちん」だと思ったことは、一度や二度ではない。

 「いや、依頼内容によってギャラが決まりますからね。大手だからと言って、いい商売が出来るわけではないですよ」

 「ふぅ~ん、そんなもんかぁ。つまんないの」

 「ま、明日、トヨサンの・・・ えぇっと・・・」

 そこで宗男は、もう一度スマホを見た。

 「・・・そうそう、成橋さん。この成橋さんと会ってきますよ。どんな依頼内容なのか、先ずはそこからですね」

 「明日って・・・ 会社はどうすんのさ? 休むの?」

 「あっ、ヤマブチなら辞めました。本日限りで」

 「何だとーーーっ!」

 機嫌の良かった恭子の表情が、一瞬にして豹変した。

 「へっ?」

 「てめぇ、私に一言の相談も無く会社辞めたってかぁっ!?」

 「えっ、あっ、ど・・・ あち! あちちっ!」

 宗男の頭上から、揚げたての唐揚げが降ってきた。そのうちの一個が、襟首から中に入っていまい、宗男は鬼の形相でシャツを脱ぎ捨てた。

 「うぉーーーっ、ちっちっ。あち、あち、あちちちっ!」

 恭子は空になった皿を卓袱台の上に「バンッ!」と置くと、プイッとキッチンに戻ってしまった。散乱した熱々の唐揚げを仕方なく一個ずつ素手で、「ほっ、ほっ」と言いながら皿に戻しつつ宗男は考える。自動車メーカーがドローンを使うと言ったら、やはりCM撮影ということになろうが、実績の無いMKエアサービスに依頼が来たのは何故だろう? 最大の日本企業である天下のトヨサンが、そのCM撮影に聞いたことも無いドローン屋に声を掛けるなどということは、さすがに有り得ない。そもそもCM撮影であれば、広告代理店などが一手に引き受けるはずなので、ドローン屋の選定や交渉も代理店が出てくるはずである。ひょっとしたら、事業所内のセキュリティ関係かもしれないが、それだったらなおの事、実績が重視されるはずだ。いったい、どういうった経緯でお声が掛かったのか? しかも車両デザイン部? 宗男は依頼内容を想像しかね、ボンヤリと唐揚げを口に運んでしまい、「あち、あち!」と言って吐き出した。

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