8-3

 腕組みした熊林は、革張りのソファに深く身を沈め「うぅ~ん」と唸っていた。その向かい側に座る恭子にも、彼の皺くちゃの顔に苦悶の表情が浮かんでいるのが見て取れた。熊林の愛猫であるゴエモンは、恭子の膝の上を今日の昼寝場所に決めたようで、大きな欠伸をした後、そこで丸くなって目を閉じた。

 「エサと言われてものぉ・・・」熊林の顔の皺は、どんどん深くなってゆくようだ。

 「何か無いの、お爺ちゃん?」

 「そう言われてものぉ・・・」

 警視庁、西村のアドバイスを受け、神奈川県警に売る・・ためのエサを貰いに、恭子が熊林事務所を訪れているのだ。任侠の世界の常識として、或いは極道のプライドとして、同業者 ──たとえそれが敵対勢力であったとしても── を警察に売るようなことを、熊林が良しとすることなど無いことは恭子にも判っている。それでも今は、そんな美意識にこだわっている場合ではないのだ。

 「何か有るでしょ、何か。てか、結花ちゃんの身の安全が掛かってるんだから、何とかしてよ!」

 「うぅぅぅむ・・・」

 それでも躊躇う熊林であったが、遂にその目を開いた。覚悟を決めたのだろうか。熊林は後ろに控えるMIBの独りに向かって「あれを」とだけ言った。


 丁度その頃、宗男は西村の紹介で、神奈川県警の鬼頭の元を訪れていた。以前、横浜ふ頭の倉庫街で、ドローンの中継局を回収中に後ろから声を掛けてきた、あのマル暴刑事である。あの時に見た印象通り、ヤクザと見紛うばかりの凶悪なつらは相変わらずで、凄みの有る視線で宗男を睨み付けている。

 「つまり、どんなご褒美が貰えるかも判らないのに、お前さんの言うことを聞けと言ってるのか?」

 面だけでなく、言葉づかいにもその語気にも、まるで善良さは見当たらない。これが警察という組織の人間なのかと、改めて度肝を抜かれる思いだ。西村の時とは違った意味で、宗男は小さく縮こまった。

 「い、いえ、そういうわけでは、あ、あ、ありません。そ、そういった提案を受けてい、頂くことは、かの、かの、可能でしょうかと、お、お尋ねしているわわわけでして・・・」

 「ふん」と鬼頭は鼻を鳴らした。

 「そんなもん、聞いてみなきゃ判らん。要はバランスだよ、バランス。俺たちが得る物と、お前さんが求める物のバランスが取れなきゃ話にならねぇ。判るだろ?」

 宗男が「はい」と答えようとした時、胸ポケットのスマホがサンダーバードのテーマソングを、呑気に奏で出した。宗男は「スミマセン」と恐縮しながら、それを取り出した。発信は恭子からである。宗男はもう片方の手で覆い隠す様にして、小声でスマホに向かった。

 「ゴメン。今ちょっとマズくて。後で掛け直・・・」

 「宗男! エサを送ったから! メッセ見てみて」

 「はい?」

 「説明文と一緒に写真が何枚か添付されてるから、それを相手に見せて。でも、いっぺんに全部見せちゃダメだよ。少しずつ見せて相手の譲歩を引き出すんだから。判った!?」

 「は、はい。判りました」

 そう言いながら鬼頭の方を盗み見ると、彼は太々しい態度で明後日の方向を見ながら鼻毛を抜いていた。宗男に架かって来た電話など、さほど気にもしていないようだ。電話を切って一つ大きく息を吸い込み、思い切って話しかけた。

 「あの・・・ 鬼頭さん?」

 「ハ・・・ ハックション! 何だ? 言ってみろ」

 鬼頭は鼻水をすすりながら宗男の顔を見た。

 「この写真を見て頂けますか?」

 そこには、少々画質が荒いが、ある初老の男が映り込んでいた。夜にフラッシュを焚かずに撮影された物らしく、光量不足の写真ではあったが、男が足を踏み入れようとしている店の明かりを全身に浴び、その姿がオレンジ色の人影となって浮かび上がっている。その顔立ちからかなり痩せた男と思えるが、羽織ったコートでその身体の線は確認できなかった。粋に被ったパナマ帽は少し傾いており、どことなく熊林を彷彿とさせる風情を醸し出している。派手目のスーツを着込んだ数人の男たちに取り囲まれた姿は、素人が見てもヤクザの親分と推察できた。

 スマホを覗き込んで、その写真を見た鬼頭が「ほぉ」と言って、その邪悪な目を細めた。明らかにその男が誰なのか判っているようだ。宗男は脈アリ・・・と感じたが、まだこちらに歩み寄って来る気配は無い。鬼頭に見せる様に持っていたスマホを手元に戻し、恭子が送ってきたメッセージをスクロールさせると、別の男が映る写真が現れた。

 今度はもう少し若い男だ。先ほどの写真より、少し離れた場所から写したらしく、今度は店のディスプレイなども映り込んでいる。間違いなく、さっきの写真と同じ店と思え、その雰囲気からしてチャイナタウンなどに有る中華料理店のようだ。肝心の男は、先ほどの初老の男の取り巻きと似たようなダブルのスーツを身に着けていたが、こちらは肥満の身体を持て余し、若干、歩くのもしんどそうな雰囲気が見て取れる。パンチパーマを当てた頭と、ガラの悪いメガネがその凶悪な表情を際立たせていて、先ほどの男と同様に、何人かの若い衆を引き連れて店に入るところのようだ。

 宗男はそれを、今度はゆっくりと鬼頭に向けてかざした。鬼頭は興味無さそうな素振りで、その写真を横目で見た。その瞬間、彼の小さな両目がカッと見開かれた。彼の全身を巡る血流が、一気に頭部へと集中したのが判った。鬼頭は飛びかかる様にしてスマホを取り上げようとしたが、宗男はサッと手を引っ込めて、その横柄なひったくり犯から自分のスマホを守ることに成功した。

 「もう一度見せろっ!」

 鬼頭の凄みの有る声に小便がチビリそうな宗男であったが、勇気を振り絞った。ここで引いては、恭子にドン叱られてしまう。

 「なな、なんと仰いましたたですか?」変な日本語になっている。

 鬼頭は「うぅ~ん」と唸った。

 「も、もう一度・・・ 見せてくれ・・・」

 酸素が薄い。冷や汗が出る。吐き気も襲ってきそうだ。でも宗男は頑張る。負けるもんか! だって、恭子に叱られる方がよっぽど怖いではないか。宗男は決死の覚悟で、鬼頭の顔を覗き込んだ。鬼頭は苦虫を噛み潰したような顔をした。

 「もう一度それを・・・ 見せて・・・ くだ・・・ さい」鬼頭の顔は茹でダコの様に真っ赤だ。

 「こ、こちらの要望を聞いてくれますか?」宗男の顔は、水死体の様に蒼白だ。

 ほんの一瞬の沈黙の後、遂に鬼頭が折れた。ため息交じりに、吐いて捨てる様に言った。

 「言ってみろ」

 その言葉を聞いた宗男の顔に、安堵の色が浮かんだ。鬼頭は取り繕う様に、或いは負け惜しみの様に付け足した。

 「先ずは聞くだけだ。その通りにするかどうかは、写真を見てから決める。いいなっ!?」

 「はい。それで結構です」

 宗男の全身から力が抜け、その代わりに、喜びの様なものが溢れてきて全身に満ちてくるのを感じた。


 鬼頭によると、最初の男は日本最大の暴力団組織住友会系で、川崎を拠点とする桐嶋組の組長、羽田総一郎。二枚目の写真に写っていたのは、仙台の三井会系暴力団松本組のNo.2、橋本健という男らしい。両組織は、血で血を洗うような凄惨な抗争を続ける敵対関係に有り、特に新興勢力の松本組が首都圏に進出し始めてから、その対立が激化していた。

 しかし、そんな二つの暴力団同士が人目を忍んで密会をしていたとなると、それは一大事である。つまり宗男が見せた写真は、双方が歩み寄って手打ち・・・となった可能性を示唆しており、日本の暴力団の勢力分布図が塗り替えられたことを表していた。勿論、写真からだけでは、それらの事実を確認することは出来ないが、3枚目、4枚目の写真からは、その会合が穏便に終ったことが窺い知れた。

 宗男は、熊林組が写真の連中とどういう関係に有るのか、鬼頭に聞きたいと思ったが、やめておくことにした。そんなことをしたら、熊林との良好な(?)関係が壊されてしまうような気がしたからだ。

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