壁耳、障子目。空には・・・

大谷寺 光

プロローグ

 宗男は走っていた。駅へと向かう細い裏路地だ。100キロを超える体重に、心臓が悲鳴を上げている。あと5分早く起きれば良いだけの話なのだが、それがどうしても出来ない。ダイエットをして、この突き出た腹を引っ込めればもっと楽になるのに、それもどうしても出来ない。

 「はぁ、はぁ・・・ ぜぇ、ぜぇ・・・」

 夏でも冬でも、雨の日も晴れの日も、朝の宗男は走る。朝っぱらから体は汗だくだ。だから宗男は、真冬でもワイシャツ一枚である。そのボタンは今にもはち切れそうで、寒風吹きすさぶ厳冬の朝でも、脇の下には汗染みが浮き出ている。耳が隠れるほど伸びてしまった波打つ髪は汗と油にまみれて、いかにも不潔そうだ。臭いそうだ。宗男とは逆方向に向かって歩く女子高生たちが、毎朝、無様な宗男の姿を見てケラケラと笑う。露骨に身体を避けて道を開ける。

 「何、あのオッサン」

 「うわっ、キモっ!」

 「アハハハ、マジウケるぅ~」

 改札口の直前で、ポケットから取り出した定期券を落とす。それを屈んで拾おうとすると、肩から斜めにかけた開けっぱなしのバッグから中身がこぼれ落ちた。宗男が改札レーンの一つを潰してしまうので、他の乗客達から非難の声が上がる。中には、宗男の身体につんのめって転びそうになる奴も居る。

 「おわっ! 危ねーな! 邪魔だよ! オッサン!」

 床を滑って行ってしまったスマホを拾おうと這いつくばると、その腰の辺りからは、ワイシャツの裾の一部がだらしなくはみ出していた。あちこちにラーメンの汁が染み込んだヨレヨレのスラックスは既に膝の部分がテカっているが、この四つん這いで小さな穴が開いてしまったようだ。そこから入り込んだ小石が、宗男の膝頭を容赦無くゴリゴリと擦った。あまりにもの激痛で膝を浮かしカエルのような姿勢で移動すると、OL風の女性の足に触れてしまった。

 「きゃっ! 何、この人!」

 主婦らしきオバサンが宗男の頭をピシャリと叩く。

 「この、ヘンタイ!」

 弾みでメガネが飛んで誰かが踏んづけた。その際の不快な音が聞こえた。幸いにしてレンズは割れなかったが、フレームは見事に歪んでしまっている。ここ10年くらいはかけ続けた愛用のメガネなのに。その黄色く濁った分厚いレンズは既に傷だらけだが、今日また新たな傷が刻まれたに違いない。

 人混みの合間を縫って改札を通り、エスカレーターを一段飛ばしで走り降りる。元々運動神経が悪い上に、40過ぎの身体にそれは過度な運動だ。足を滑らせてエスカレーターの最下段まで転げ落ちた。その際、下の段に立っていた女性たちの太腿にしがみ付くやら、スカートを引っ張るやら。当然ながら悲鳴が上がった。

 「きゃーっ! 変質者よーっ!」

 「誰か、駅員を呼んでーっ!」

 そんな罵声やら怒号を背中に浴びながら、転がるようにして電車に向かって駆けよると、宗男の目の前で無情にもドアが閉まった。

 プシューッ・・・

 呆然と立ち尽くし走り去る電車を見送る宗男。その肩に、誰かが手を置いた。駅員だった。

 「チョッと、駅長室まで来ていただけますか?」

 宗男は肩で息をしながら、その顔を見る。

 「はぁ、はぁ・・・ ぜぇ、ぜぇ・・・」


 駅長室でこっぴどく絞られた宗男が解放され会社に辿り着いた時、既に時計は9時を回っていた。オドオドしながら事務所に入り、こっそりとデスクに着いた宗男を待っていたかのように、早速、声が掛かる。

 「みぃ~やがぁ~わくぅ~ん」

 ビクッとして宗男が顔を上げると、窓際の席でこちらを見ている課長の顔が目に入った。メガネフレームのグラグラしている部分は、今朝、駅長室のセロテープを借りて補修済みだ。その黄ばんだレンズ越しに映るのは、宗男が在籍するヤマブチモーターの営業部、第二営業課長の森である。森は宗男より年下であったが、出世コースには縁の無い宗男を追い越し、この春から宗男の直属の上司となっていた。生まれも育ちも横浜で、大学も地元の一流私立大学を卒業しているエリート意識旺盛な森は、出来の悪い宗男をことある度にイジメては優越感に浸る様なゲスな男だ。そのくせ上司の前で見せるおべんちゃら・・・・・・は堂に入ったもので、役員からの評判は極めて高く、彼の会社員としての人生はすこぶる順調と言ってよかった。

 「重役出勤ですか、宮川君?」

 森は無表情を保ったまま、宗男を問い詰めた。

 「は、はい。スミマセン・・・ チョッと駅でトラブルに巻き込まれまして・・・」

 「巻き込まれた? 君が『招いた』の間違いじゃないのか? それにしても電話の一本くらい出来なかったのかね?」

 ゲス野郎とはいえ頭は悪くない。というか、森の人物評価は適切であった。黙って二人の会話に耳をそばだてていた課員たちは、机に向かったままクックと笑いを堪えた。

 「はい・・・ スマホの液晶が割れてしまって・・・」

 もみあげから流れ落ちる汗を右手で拭った時、一本だけヒョロリと伸びた剃り残しを発見した宗男は、それを無意識に引っ張った。「プチッ」といって抜けた髭が5センチほども有って目を丸くした宗男であったが、今は森に叱咤されていることを思い出し、慌てて表情を戻す。

 「で、今日のプレゼン資料は出来てるんだろうな?」

 疑うような森の視線に射すくめられ、抜けた剃り残しを手にしたまま宗男が固まった。頼りない八の字の眉毛が、更に急勾配を描いた。

 「へっ?」

 森が「やっぱり・・・」という表情で肩を落とすと、事務所の奥に向かって声を張り上げた。

 「二宮ーっ! 大丈夫か―っ!?」

 「課長、オッケーでーす! 資料、作っておきましたーっ!」

 宗男が使えないことを見込んで、予め昨年入社したばかりの新人にプレゼン資料の準備を指示しておいたのだ。森は二宮の方に歩きながら言った。

 「よーし! じゃぁ、今日のプレゼンはよろしく頼むよ!」

 「判りました! 任せて下さいっ!」

 森は宗男を無視して二宮との打ち合わせを始めた。一人ポツネンと取り残された宗男がため息をつくと、手にした剃り残しが鼻息で揺れた。

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