エピローグ

 「で? どうすんのよ?」

 恭子は冷蔵庫で冷え過ぎてなかなか溶けないバターに悪戦苦闘しながら、焼き上がったトーストに塗り付けていた。冷蔵庫の温度設定を変える必要が有りそうだ。

 「うう~ん・・・ どうしたらいいと思いますか、恭子ちゃん?」

 「そんな事、私に判るわけ無いじゃん! 自分で決めなさいよ」

 強固に固まり続けるバターに敗北し、まだ塊が残ったままのトーストを宗男に手渡す恭子。

 「って言うか、私は宗男の判断に従うから。宗男がやりたいように決めればいいよ」

 この言葉には、恭子の意思表示が含まれていた。所信表明演説のようなものか。今までは、モタモタする宗男の尻を叩いて叱咤激励する役目が恭子の持ち回りであった。しかしそれは表面上の配役でしかなく、実際には宗男に全ての決断と責任が負わされていた事は、恭子も宗男自身も心の何処かで認識はしている。ただ、表面上はあくまでも、恭子が宗男を引っ張っている様な芝居・・を共に演じ、二人の関係を安定させていたに過ぎない。便宜的にしつらえられた、その偽りの・・・関係を終わらせる潮時だと恭子は感じている。そういった気持ちを込めた発言であったのだが、その真意をくみ取れるほど宗男は敏感ではない。いや、ひょっとしたら・・・

 「うう~ん・・・ うう~ん・・・ どうしよっかなぁ・・・」

 トーストを受け取った宗男は、それを口に運ぶことも忘れて唸り続けた。その時、ダイニングテーブルの隅に置いた、宗男のスマホが電話の着信を告げた。ディスプレイには『警視庁 西村さん』と表示されている。二人は顔を見合わせた。宗男が恐る恐る通話ボタンをタップする。

 「もしもし、宮川です」

 するとスマホのディスプレイから爽やかな風が吹き込んで来た・・・ ような気がした。西村のキビキビした声が聞だ。

 「もしもし、朝早く申し訳ありません。警視庁、西村です」

 「ご無沙汰しております、西村さん」

 「ご無沙汰しております。今、チョッとお時間、宜しいでしょうか?」

 「はい。大丈夫です」

 「実はですね・・・」


 西村の話を要約すると、こうであった。

 2020年、東京にてオリンピックが開催される。その際は、世界中の人々が一挙に集まり、その一定期間は東京が人種の坩堝と化すことは間違い無い。当然ながら、外国人の絡んだ犯罪なども多発することが懸念され、メンツを重んじる警察としては頭を悩ませているという。しかしながら、警察が最も警戒を強めているのはそういった犯罪ではなく、実は大規模なテロ攻撃であった。戦争を放棄した中立国という美徳をかなぐり捨てた現政権の愚行の煽りを受け、今、日本はテロリストの格好のターゲットとなっているからだ。ましてや、首相の点数稼ぎの為に、テロリストたちの敵対勢力に何百億円もの資金援助をする日本は、真っ先に叩かねばならない存在であろう。以上から、競技会場はもとより、都内各所に監視カメラを増設すべく、既に特別予算も織り込み済みの状態らしい。だが、監視カメラのみでは柔軟な対応が出来ず、抑止力を発揮できないのでは、との危機感を募らせた警察庁首脳部は、波多野大臣の件で活躍(暗躍?)したドローンに目を付け、警備体制の拡充に寄与することは出来ないかと、内々に西村の所へ話が来たのだと言う。


 「ちょ、ちょっと待って下さい、西村さん」

 「はい、何でしょうか?」

 「何でしょうか?じゃありませんよ。ウチみたいなちっぽけな会社が、そんな大規模なイベントの監視なんて出来るわけ・・・」

 「どうしました、宮川さん?」

 もしや、と宗男は思った。まさか、とも思えた。果たしてそこまでするのだろうか? いや、ドローン屋を始めて以降、世の中には数々の裏側が存在し、自分自身もその一端に絡んできたではないか。宗男の知らない蜘蛛の糸が、まだまだ何重にも張り巡らされていたとしても、今さら驚きはしない。誰かが知らぬ間に、誰かの外堀を埋めてしまうことなど日常茶飯事なのだ。

 「西村さん・・・ トヨサンの増田さんってご存知ですか?」

 「増田さん? トヨサン精機の? はて、どなたでしょう? 存じ上げないと思いますが」

 「そうですか。であれば結構です。ご提案の件、前向きに検討いたしますので、今暫く返事をお待ち頂けますか?」

 「もちろんです。よろしくお願いいたします。それでは失礼いたします」

 宗男は西村の意図を感じた。彼ほどの男が、そのようなチョンボをする筈は無い。おそらくアレは、故意に情報提供したのであろう。そう、宗男は「精機」とは言わなかった。「トヨサンの増田」を知っているかとの問いに、西村は「トヨサン精機の増田」は知らないと答えたのだ。

 自分を飲み込もうとする、大きなうねりが迫っている。だが一方で宗男は思う。そのうねりに飲み込まれるのか、或いはそれに乗っかるのか? それを決めるのは自分だ。

 「西村さん、何だって?」

 眉間に皺を寄せる宗男の様子を見て、恭子が心配そうに声を掛けた。それを人差し指で制して、宗男はスマホを操作し始めた。

 「もしもし、増田さんですか? おはようございます、宮川です」

 宗男の視線は、ボンヤリと恭子の方を見ている。恭子もその電話の成り行きを見守った。

 「はい・・・ はい・・・ えぇ、例の件ですが。お受けいたします」

 恭子の眼がキラリと光った。やはり思った通りだ。宗男は増田の提案を受けるに違いないと踏んでいたのだ。

 「はい、そうです・・・ そうなんですが、今のMKエアサービスは別会社として、現状のまま残したいと思います」

 そりゃそうだ。もしMKがトヨサンの一部になってしまったら、これまでの様な裏稼業・・・が出来なくなってしまうではないか。別に裏にこだわるつもりは無いが、表の仕事が面白いとは限らない。あのドキドキ・ワクワクするような高揚感を、表の仕事で得られるだろうか? 答えはノーだ。我々からあのドキドキ・ワクワクを取り去ってしまったら、いったい何が残ると言うのか?

 「はい、ですから私個人の参画ということになります・・・ はい、雇用形態はお任せいたします。そこでご提案というか、ご相談というか・・・ もし可能であれば、というレベルの話なのですが・・・ いえいえ! とんでもございません。条件というような意味合いではなく、少し考えて頂けたらな、という感じで・・・」

 この辺の話にになってくると、もう恭子にはその会話内容を推し量ることは出来なかった。でも、それでいいと思った。宗男がどのような判断を下そうとも自分はそれを信じ、宗男に付いて行くことを決めたのだから。恭子は視線をテーブルに戻し、朝食の続きを採り始めた。

 「えぇ、マスブチモーターってご存知ですか? ・・・はい、そのモーター屋さんです。それがですね、年内にも会社更生法の適用を受けそうな状況なんですよ・・・ で、もし可能なら、モーター部門としての吸収合併の可能性をご検討頂けたらなと」

 その時、宗男のコーヒーが、既に冷め切っていることに恭子が気付いた。

 「はい・・・ はい・・・ 判りました。来週月曜ですね。承知いたしました・・・ はい、それでは。失礼いたします」

 恭子は宗男のコーヒーカップを回収し、新たに熱々のコーヒーを注いだ。何だか嬉しそうだ。やる時にはやる、それが宗男だ。恭子が見込んだ通りの男だ。

 「何笑ってるの、恭子ちゃん?」

 怪訝そうに聞く宗男に恭子が言う。

 「ううん、何でもない・・・ 頑張ってね、宗男」

 自分に向けられた美しい笑顔に、宗男も笑顔で応えた。

 「うん、頑張ってみるよ」

 その時、玄関のロックをガチャガチャと開く音が聞こえた。この部屋の鍵を持っているのは、二人の他は崇だけだ。新事務所に初出勤といったところか。暫くすると、リビングと廊下を隔てるドアが開き、崇が顔を出した。

 「おはよう、お二人さん」

 ニヤニヤする崇に、二人が挨拶を返すと、その手に、フルーツが山盛りの籠が見えた。恭子の顔がパッと明るくなった。

 「どうしたの、それっ!? 千疋屋じゃないっ!」

 崇は少し気まずそうだ。

 「あっ、これ? んと・・・ 熊林組長からの引っ越し祝い」

 「えぇっ!? お爺ちゃんから? すっごーぃ!」

 恭子が素っ頓狂な声を上げ、宗男は口に含んだコーヒーを飲み下すことも忘れて固まっている。

 「ど、どうして組長が・・・」

 恭子がそこまで言うと、崇の後ろにもう一人、誰かが居るのが見えた。崇は「えへへ」とだらしなく笑い、身体を横にずらす。そこには、はにかんだ表情の結花が立っていた。どうやらあの後、二人はコッソリとそういう関係になっていたようだ。

 「あの・・・ お爺ちゃんから・・・」

 「ぶぅぅぅぅーーーっ!」

 宗男が噴出したコーヒーが恭子を襲った。

 「あ、あのぉ、引っ越し祝い・・・」

 結花が言い終わる前に恭子の身体がヒラリと宙を舞った。

 「てめーっ! 宗男っ! ざけんじゃないわよっ!」

 「わぁ、恭子ちゃん! 許して下さい!」

 「許すかぁーーーっ!」

 背後からのネックロックは宗男の喉を完全に捉えていた。宗男は目をシロクロさせながら恭子の腕をタップする。

 「チョーク、チョーク・・・」

 崇は結花に耳打ちした。

 「ねっ、仲が良いだろ?」

 「うん」結花は楽しそうにクスクス笑った。

 「うぉぉぉりゃぁぁぁーーーっ!」

 「ギブ、ギブ・・・ 恭子ちゃん、ギブです・・・」


*****


 宗男の提案を受け、ヤマブチを吸収した新会社はトヨサングループの全面協力の下、オリンピック対応に向けた技術開発に邁進していた。トヨサン・データ通信と共同で、クラウドを用いた大規模監視ネットワークを構築するという基本方針の元、その受け手、つまり監視データの解析を世界中の企業に分担させるというアイデアは宗男によるものだ。現時点ではAppleやGoogleなどが手を挙げていて、このワールドワイドなシステムの端末としては、固定カメラだけでなくドローンが全面採用されることは説明するまでも無いだろう。オリンピックにおいてテロを未然に防ぐことに成功すれば、高い技術力を世界中にアピールする絶好の機会となり、否が応でもトヨサン全体の総力を挙げた一大プロジェクトとなっている。同様に国からの期待も高く、ドローン規制法 ──現行のドローン規制法には、飛行区域や高度に加え、その重量などにも厳しい基準が設けられていた── の一部改定による法的な後押しに加え、特別資金援助の注入も決定され、それは既に国家的事業の様相を呈していた。

 役員会議が終わり、会議室を後にする宗男に、一人の男が声をかけた。

 「専務! 宮川専務!」

 振り返った宗男が困ったような顔をした。

 「その呼び方、やめてくれませんか、森さん。お尻の辺りがムズムズしますから」

 「そういう訳にはいきません。宮川専務」

 「まっ、いいか・・・ で、何でしょうか?」

 「はい。配信データの暗号化アプリケーションに関し、インドの企業からのアピールです。一度、説明に上がりたいとの要望が出ておりますが・・・」

 「判りました。スケジューラーの空いてる所に、適当に入れておいて下さい」

 「承知いたしました。では来週あたりで調整を勧めます。それでは・・・」

 うやうやしく一礼して立ち去ろうとする森を、宗男が引き留めた。

 「あっ、そうだ、森さん。ちょっとお願いが有るのですが・・・」

 「はい? 私にでしょうか?」と、森が怪訝そうな顔をする。

 「はい。個人的なお願いです」

 「個人的・・・ いったい何でしょう?」

 宗男は大切な秘密を打ち明ける時のような顔になった。それはいたずら小僧のような、無邪気な笑いだ。

 「ちょっと面白そうなネタが有るんで、森さんにも手伝って貰いたいんですよ」

 「面白そうなネタ・・・ですか? 判りました。専務のご命令とあれば、たとえ火の中水の中。この森の命に代えてでも・・・」

 「やめて下さいよ、そういうのは」

 宗男は面倒くさそうに手を振ったが、森の役員向けのリップサービスは今もなお健在のようで、逆に少し安心した。あの当時の森に戻ってくれたようだ。

 「で、何をすれば宜しいのでしょうか? 私に出来ることならいいのですが・・・」

 「大丈夫、思ったよりも簡単です。直ぐに出来るようになりますよ」

 「???」森はポカンとした。

 「先ずはドローンの操縦から覚えて頂きます」

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壁耳、障子目。空には・・・ 大谷寺 光 @H_Oyaji

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