第八章:それって裏取り引き?

8-1

 宗男がトヨサン精機の増田に頼み事をしに行っている間、恭子は熊林組を訪れていた。「お爺ちゃん、居る?」と言いながらズカズカとヤクザの組事務所に上がり込んでくる恭子を、組員たちは一目置いて「姐さん」と呼んだ。組長のことを、「お爺ちゃん」などと呼ぶことが許されるのは、最近めっきり姿を現さなくなった孫の結花以来である。

 「へっ。組長なら二階に居りやす、姐さん」

 以前、ドスを持って宗男に飛びかかろうとしたチンピラが、腰を屈めるようにして言った。それを見ていた兄貴分が、その鳩尾に強烈なボディーブローを決めた。チンピラは「グェッ」と気持ち悪い声と共に崩れ落ちようとしたが、その兄貴分がチンピラの服を掴み上げて無理やり立たせた。

 「組長じゃねぇっ! 会長と呼べって、何回言ったら判るんだっ!」

 「へ、へぇ、すいやせん・・・」チンピラは涙目で答えた。

 この一連の作業・・が、過去に何度も繰り返されていることなど知る由も無い恭子は、「あっ、そ」と言って、二階へと続く階段をトントンと登っていった。


 「お爺ちゃん?」

 恭子がそう言って二階のドアを開けると、フカフカのソファに座って目を瞑る熊林の姿が有った。その後ろからは、熊林の妾なのか愛人なのか、恭子とさして年齢の変わらなそうな水商売風の女が寄り添い、熊林の肩を揉んでいた。女は、突然現れた恭子に敵意剥き出しの視線を投げかけたが、目を開いた熊林が「おぉ~、恭子ちゃんか」と優し気な声を掛けたので、そのギラギラした視線を床に移して不機嫌そうに肩を揉み続けた。熊林の両側には、例のMIBが二人控えているのはいつも通りだが、その片方が以前よりも少し太ったように見えた。よく見れば身長も若干ながら低いようで、ひょっとしたら人員交代が行われたのかもしれなかった。

 熊林の膝の上には、毛足の長い高級そうな猫が居て、飼い主の優しげな愛撫に目を細めていたが、恭子の姿を見るや否や膝から飛び降りた。そして挨拶するように尻尾をピンと立てて足元に擦り寄り、その鼻先を恭子の足に擦り付けた。恭子は足元の猫を抱き上げると、「はーい、ゴエモンちゃん。元気だったぁ?」と話しかけ、胸の前で抱きかかえた。顎の下をゴシゴシされた猫はゴロゴロと喉を鳴らしながら恭子に甘えた。

 「今日はどうしたんだい?」熊林が実の孫に話しかけるような口調で聞いた。

 猫の頭を撫でながら恭子が言った。

 「本当のところを話してくれないかなぁ、お爺ちゃん」

 それまで居心地のいい空間に身を置いていた熊林の表情が変わった。そこには任侠の世界で生き抜いてきた男の持つ厳しさが滲み出ていた。恭子の言葉に含まれている、熊林の心をえぐる様な鋭さに全てを理解した彼は妾に手を振ると、「お前は席を外せ」と小さな声で言った。妾の女は不満そうな顔をしたが、結局何も言わずに出て行った。その際、恭子とすれ違いざまに、挑発的な視線を投げかけることを忘れなかった。

 女が出て行った事を確認すると、熊林は恭子の顔を見据えた。

 「で、何を聞きたいのかな、恭子ちゃん?」

 「結花ちゃんのことよ」

 「あぁ、もちろん、そうじゃろう」

 「彼女、男に付きまとわれてなんていないよね? 違う?」

 熊林はその質問には答えず、質問で返す。

 「結花は幸せそうじゃった・・・ という報告だと受け取っていいのかな?」

 「そうね、幸せそうに見えた。それは間違いないわ。でも・・・」

 「でも?」

 イラついた恭子の声が大きくなった。

 「ちょっと待ってお爺ちゃん! 質問に来たのは私の方よ!」

 「あっはっは、そうじゃった、そうじゃった」

 「男の方は、いま調べてるところ。チョッとヤバそうな匂いがする奴だから、何か判ったら直ぐに報告するわ。でもそうじゃなくて、私が知りたいのは結花ちゃんのことよ」

 熊林は唸るような仕草をした後、今度は天井を見上げるような顔をした。でも彼が見ているのは天井ではなく、結花にまつわる過去なのだろう。

 「何から話せばいいのかのう・・・


 結花の両親は、彼女が小学2年生の頃に離婚していた。母親である美里に引き取られた結花は、母子家庭というハンデにも負けず、慎ましくも逞しく育ってきたと言っていい。一方、父親の丈志はどうしようもないクズで、今は府中刑務所に収監されており、その丈志こそが熊林の実の息子であった。元々、比較的品の良い家庭に育った美里が、丈志の様なヤクザ者と知り合った経緯は誰も知らないが、二人が結婚までした理由は、美里が結花を身籠ったことが要因であろうとの推察はできよう。

 そもそも離婚の原因は不明だが、離婚が成立した後も美里は、何故か熊林姓を名乗り続けている。物心が付いた後の結花は、その事で激しく美里を責めたが、母はいつでも「いずれ判る」としか言わなかった。当然ながら、結花にとっての丈志は母と自分を捨てたクズ野郎で、丈志を父と認めたことも無かったし、会おうともしなかった。それどころか、自分の身体にあの犯罪者の血が流れていると思うと、言いようの無い嫌悪感に苛まれる毎日を送っていた。だからこそ、熊林姓を名乗り続ける母が許せなかったし、理解できなかった。


 そんな美里も、母子家庭の無理がたたったのか身体を壊し、現在は都内の病院に入院している。結花にしてみれば、母がそのような目に遭うのも、全て丈志のせいなのだ。刑務所に収監されている丈志に代わり、その入院費用の工面を申し出た熊林を激しくなじり、それを突っぱねたのは結花である。彼女は取って返し、母方の祖父母の元に赴いて母の苦境を訴えた。そこで入院費の工面を請うたが、その反応は結花の想像に反して冷徹なものであった。親の反対を押し切ってヤクザ者と結婚した娘を、その老夫婦は許してはいなかった。それどころか、犯罪者の血を受け継ぐ結花を悍ましい虫でも見るかのような態度で追い返すと、その家の門が結花に対して開くことは二度と無かった。もう結花に行く所は残っていなかった。そして、また同じ結論に辿り着くのであった。全ては父、丈志のせいであると。結花が高校2年の時であった。

 路頭に迷う結花に手を差し伸べたのは、無論、熊林であった。苦境に立つ実の孫娘を見捨てることなど、彼には出来なかったのだ。たとえどんなに憎まれていようとも。結花も他に選択肢は無く、渋々熊林の申し出を受け入れ、美里の入院費用は熊林が工面することになった。それどころか、結花が大学に進学する費用さえ、熊林が面倒を見ている。つまり熊林と結花は表面上は和解した形になっているのだが、その実、二人の間に通い合う感情は存在しなかった。正確に言うなら、その感情は熊林から結花に向けた、完全な一方通行でしかなかったのだ。


 高三の頃の結花は、自分の身体を汚すことで何かへの復讐が果たされると信じているかのように、男友達と交友・・を深めた。あの一年で、結花が身体を預けた男の数は30を超え、誰が父親か判らない子供を中絶している。一方で結花と寝た男達は、彼女がヤクザの孫であることを知った途端、叱られた犬の様に尻尾を巻いて逃げ出し、口を閉ざして結花と関係を持った事すら口にすることは無かった。おかげで結花は、あと腐れなく次の男に触手を伸ばすことが出来たのだ。

 そんな結花は、大学に進学するや否や熊林の元を離れ、自由奔放に生き始めた。と言っても、高校生の頃の様に不特定多数の男と交わることは無くなり、その代わり、決して熊林が喜びそうもない男を、あえて選ぶかのように恋人にした。それは、心配する熊林への当てつけなのか、或いは呪われた自身の運命に向けた挑発なのか。


 どんよりとした空気が、その部屋に沈殿していた。結花が背負ってきた過去は、恭子の上に重くのしかかり、同じ女性として身につまされる様な痛みを与えた。結花の声にならない悲鳴が聞こえ、恭子は耳を押さえてうずくまりたい衝動にかられた。同時に、ドローンを使って垣間見た、あの不気味な男に嬉々として抱かれる結花の姿が思い起こされて、居ても立ってもいられない焦燥感に取り付かれた。

 「これで満足かな、恭子ちゃん?」

 床に落とされていた恭子の視線が上がり、熊林の皺だらけの顔に注がれた。そこには、ヤクザの世界で生きてきた男の厳しさは無く、愛する者を守れない自分の不甲斐無さに打ちひしがれる、惨めで弱々しい老人の顔が有った。

 「お爺ちゃんの依頼って、何だっけ?」

 唐突な質問に、熊林は怪訝な顔を向けた。

 「依頼? それは結花の・・・」

 「を!」

 「を?・・・」熊林はわけが判らない。

 「結花ちゃん!」

 恭子の語気に押され、熊林は同じセリフを続けた。

 「結花を・・・」

 恭子は頷いて、その先を促した。熊林の本心を聞きたい。その皺だらけで感情の読み取れない仮面の下に隠された、祖父としての心に触れたい。熊林は、見つめ合う恭子の瞳に吸い込まれるように口を開く。

 「と・・・」

 恭子が勇気づける様に繰り返す。

 「と?」

 老人の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

 「とり・・・」

 「とり?」

 いっとき、恭子と熊林の間の時間が止まった。老人の顔が歪んだ。

 「結花を取り戻したいんじゃっ! この腕にもう一度、結花を抱き締めさせてくれんかのう・・・ お願いじゃ・・・」

 最後は消え入りそうな声だった。恭子はグッと奥歯を噛みしめて洟をすすった。無理に笑顔を作った。

 「何とかやってみるよ、お爺ちゃん。それ位の借りは有るからね」

 「うんうん・・・ うんうん・・・」

 老人は、皺だらけの顔を更に皺くちゃにして頷いた。

 恭子は手を老人の肩に優しく添えた。その時になって初めて、直立不動のMIBが、まだ熊林の両脇立っていることを思い出した。彼らの目は真っ黒なサングラスによって、相変わらずどこを見ているのか判らなかったが、頬には涙の筋が有ることを知った。

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