ユーラノート 005
「こちらです」
僕は客人の前に立って、自宅の長い廊下を歩く。
呆れるほど長い廊下を。
桜宮殿下の肖像画と、レイニー
「ははあ……」
と、驚嘆なのか語彙力低下なのかわからないが、ウララカバーガー・ダウンタウン駅前店のマネージャーはそのように僕の家の廊下を評価した。
概ね正しいと、僕は思う。
家名だけが大きく実態を伴わない皇族の家。
実体を伴わないのは僕の責任でもある。
それについては祖父と父に謝らなければならないとは感じるが、ただそれだけだ。
僕にとって大事なのは家名ではなく、日本語というアイデンティティ。
「キティー」
名を呼びながら重い木製のドアを開けると(そうしないと殴り掛かられることがある。気が立っているときには)予想外に大人しく青年は着席していた。
テトラに頼んで整えてもらった髪は、何処からどう見ても非の打ち所がない好男子を演出している。
後から部屋に入ってきたウララカバーガーのマネージャーが、
「お!」
と言って目を剥いた。
その評価も正しいだろう。
僕の知る限り、これ以上に顔の整ったレイニー男子は
「いつも通りに食べればいいんだよ、キティー」
「こんなに知らねえやつがぎゅうぎゅう詰めてる時点でいつも通りじゃねえだろうよ」
「それはそうだけど」
僕は苦笑した。
キティーはいつの間にか、とても滑らかに舌が回るようになっている。
◇
<ウララカバーガーが似合うイケメンコンテスト>の優勝は、僕とキティーの生活をがらりと変えた。
とはいえ、僕はそこまでに覚悟を決めていたし、キティーにはがらりと変わる生活がそれまで存在しなかった――スラムでの日々を僕はそう形容するしかない――ので、僕たちは淡々と激流に呑まれる。
天賦の魅力に磨きをかけるためテトラが組んだ身体トレーニングプログラムを、キティーは軽々とこなした。
スラムで鍛えられた体力と俊敏性には舌を巻くしかない。
トレーニングははすべて家の中でやる。
外はいつも雨だから。
由良戸屋敷には沢山の部屋があり、ほとんどが埃をかぶっていたから丁度いい。
ご先祖様が見たら卒倒するかもしれないが、たぶん許してくれるだろうと僕は思っている。
「弛むな、惜しむな」というのが由良戸の家訓。
ただし特殊な装置を買う余裕はなかった。
ランニングはくだんの廊下を使って行われ、僕は赤絨毯をはがされた長い廊下に立って、毎日バイオリズムモニタとキティーの俊敏な身のこなしと動かない四人の肖像を見ている。
キティーはそこに飾られている人物についてはまったく興味が無いようだった。
僕にはそれがありがたい。
この今やスーパーモデルとなった友人(と言ってもいいだろうか?)に、レイニーの残酷な歴史を語って聞かせるような無残な行いを、僕は望まないのだ。
とはいえ、僕自身には思うことが沢山ある。
因縁はすべてレイニーと絡み合っていた。
「あと五往復」
僕はそう言って、父の写真と目を合わせる。
「足が下がってるよ、キティー」
高らかな舌打ちが返ってきた。
僕は祖父の写真に目を移す。
「息を乱さないで」
僕は桜宮殿下の肖像画を見る。
日の丸の国旗が目に入って、僕の心はざわめいた。
ジャパニーズ・オリジン。
死にゆく言語を話す人々。
僕には彼らを率いる責任があるはずだ。
由良戸の血族はもはや私生児の僕しかいない。
けれども――。
「おい」
キティーがバイオリズムモニタの電源を叩き落した。
派手なビープ音が鳴り僕は悲鳴を上げる。
「壊れちゃうよ」
キティーは、僕がようやく理解できるようになったほんのりとした笑顔を見せ、肩にかけたタオルで整えたばかりの髪をわざわざぐしゃぐしゃにしながら言った。
「見てなかったじゃねえか」
「ごめん」
「ジジイどもの顔の方が楽しいんだろ。ヘンタイ」
本当によく舌が回るようになったと僕は思う。
トレーニングの後には筆記の勉強と、キティーお楽しみテレビ鑑賞の時間が待っていた。
この三つの要素は、<ナチュラルヒストリー>ないし<ポーラー>の番組表とキティーが睨めっこして、その後に僕が時間配分を考える。
例えば今日は朝八時からの「アニメ古代地球史」と午後一時からの「踊る民族パラニア・密林を拓く」が見たいと言ったので、その前後にトレーニングと勉強を入れた。
キティーは外の世界のことを何も知らない(当然だ)。
だから僕は、彼がちゃんと生きていけるように、この二つのチャンネルと契約した。
これからキティーは都会に出て行く。
僕の手を離れるかもしれない。
多角的に物事を考える能力は、絶対に必要だ。
キティーは非常に好奇心旺盛である。
僕は番組と番組の間に勉強をすると
今日も「アニメ古代地球史」で学んだ人名と格言が、その後の書き取り訓練と合わせて、無事にキティーのピュアな記憶域にメモリされたようである。
「オレのオレによるオレのための」
と言いながら彼は冷蔵庫を開け、大好きなバニラアイスを取り出して食べ始めた。
僕も並んでチョコチップアイスを食べる。
途中で自分と違うものを食べていることに気付いたキティーがむすっとしたので、僕は半分あげることで彼の機嫌を取った。
良く冷えたアイスは僕の歯にしみ、痛みをやり過ごそうと少しずつ食べ進める。
キティーは僕の様子が可笑しかったらしい。
何だ何だとはやし立てたので、
「歯が痛い」
と説明すると、途端に真面目な顔になる。
「なあ、もうすぐ死ぬのか」
なんでと僕は問うた。
どちらかのチャンネルで、老人性知覚過敏の話でもしたのだろうか。
「スラムで死ぬときはまず歯がイカレる」
キティーはそう言った。
「黄色くなってボロボロ抜ける。それから……」
僕はキティーの言葉を遮る。
「大丈夫だよ。それは鉱疫の話だからね。僕の歯がしみるのは、ただ君より年上で、歯磨きが苦手だからさ」
キティーはスプーンをくわえたままずっと、僕の言葉を反芻していた。
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