血の道 001
<ゾーイ>
燃えている。
燃えていた。
僕の周りの、あらゆるものが。
外は嵐が荒れ狂ってるはずだ。
ニューマウナケアシティでは毎日この時間にスコールが来る。
でも今はその音すらかき消されていた。
ただ炎を前に、僕は立ち尽くしている。
「君はつくづく人のいい男だね、ゾーイ・ユーラノート。この期に及んでもまだ、君には守るものがあると見える」
ドクター・ヒューゴにそっくりの男が、スプーンを持ってるのと同じくらいの気軽さで、銃をちらつかせている。
「それは皇族の矜持かい」
炎に照らされたその顔は悪魔的だった。
魅力的な笑顔ですらある。
僕は後じさりした。
足の裏で、砕けたガラスがじゃりじゃりと擦れ合っている。
「君は殺さない。何故なら、私の戴冠式に付き合ってもらわなくてはいけないからね。わかるだろう?」
「分からないな、ちっとも」
銃声と悲鳴。
まだ抵抗を続ける職員たちがいる。
「ただし君が必要なのはそこまでだ。本当に必要なのは、君の子猫ちゃんだからね」
「キティーを巻き込むつもりなのか」
「迎えは出しているよ」
「迎え……」
じりりと下がった僕の左足が何か大きくて柔らかいものを踏んで滑る。
尻もちをつくと、そこにあったのは死体だった。
僕は踏んだのはその足。
ドクター・ヒューゴそっくりの男が、喉の奥で低く笑う。
「民の開いた血の道。お似合いじゃないかね」
「御免こうむる」
おやおや、とドクター・ヒューゴそっくりの男は肩をすくめて手を広げて見せた。
「怒っているのかな、ゾーイ? 私を殺しておいてかい?」
脳の中のどこかが、焼ききれそうに痛い。
僕はキティーに教えてもらった言葉を、小さく呟いた。
「発言はもっと大きな声で」
ドクター・ヒューゴそっくりの男がにっこり笑う。
討論番組に出ていた時と同じ、親し気で、理解力のある、懐の広い男の表情。
僕は言った。
キティーの真似をして。
「くそったれ」
そして、死体が持っていた銃を取り上げると反射的に引き金を引いた。
弾丸はドクター・ヒューゴそっくりな男の肩をかすめ、男は驚いた表情で床に倒れる。
その隙に僕は走り出した。
怒号が追ってくる。
だが、ドクター・ヒューゴそっくりな声がそれを制止した。
「殺すな! 生け捕りにしろ!」
僕は掴みかかってきたテロリスト集団の手を避けると、非常階段に続く扉を何とか開けて、中に滑り込む。
震える手でロックをかけて上を見た。
32/52の表示。
屋上まで逃げられるだろうか。
逃げたところで救助はくるだろうか。
でも行かないという選択肢はなかった。
階下は燃えている。
誰かが扉に体当たりする音が響く。
続いて銃の炸裂音も聞こえた。
僕は急いで階段を駆け上がる。
胸の内側でどくどくと、心臓が荒く跳ね回っていた。
こんなに運動したのはいつぶりだろう。
僕はほんの少し駆けあがったところで早くも重くなってきた太ももに、情けなさを感じる。
キティーだったら軽々と屋上まで走り抜けるだろう。
目が染みる。
非常遮蔽が行われているはずなのに、火事の焦げ臭さが鼻につくようだった。
40/52の表示を見て、僕はそっと非常階段の脇の扉が開かないかと試してみる。
暗証番号――不正解のビープ音。
駄目だ。
ここに逃げ込めれば、敵の目を欺けたかもしれないのに。
階下で爆発音がした。
どっと人の声。
湧き上がる怒号。
僕は慌てて屋上への逃走を再開する。
重たい足に意識が行かないように、僕は別の事を考えようと思った。
ドクター・ヒューゴ、そのそっくりな男、キティー、テトラ、リチャードさん。
どうしてこんなことになっているのか、僕はまったく見当もつかなかった。
僕が撃ったのはドクター・ヒューゴではなかったのか?
彼の身代わりをまんまと撃たされたのか?
「上にいるぞ!」
テロリスト集団のガチャガチャした足音が勢いよく階段を踏んで追っかけてくる。
50/52。
火事場の馬鹿力というものを信じて、僕は足を動かし続けた。
僕の走り方は全くの不格好で、右手を振り回しながら左手はお守りを掴んでいるというような調子。
お守りというのは、リチャードさんからもらった<龍の歯>で、なんとなく縁起担ぎで肌身離さず持っている。
これをもらった日にキティーを拾ったんだし、リチャードさんから受け取ったアム博士の原稿の日本語訳はとても評判が良かったんだ。
永遠と思えたほどの階段が終わる。
屋上に続く扉が見えた。
僕はぶつかるようにして扉に寄りかかると、通行証をスキャナにかざす。
じれったいほど優雅に扉がスライドする。
屋上に半分くらい転がりながら出ると、僕は安堵のあまり泣きそうになった。
「助けてください!」
水たまりに膝をつけながら叫ぶ。
屋上にいたのは警察の強襲部隊と、そのエンブレムをつけた二機のヘリ。
スコール雲はもう抜けて初めていて、しかし南から晴れつつある星空に、階下からの黒煙が禍々しい覆いをかけている。
「生存者だ、生存者がいるぞ!」
「救護班早く」
都市迷彩柄のスーツに身を包んだ隊員がヘッドマイクに手を当てながら報告をしている。
僕は腰が抜けかかっていたが、背後の扉にテロリストの誰かが強烈な体当たりをしたので背筋がしゃっきりと伸びた。
「テロリストが来ます!」
僕は無我夢中で走りながら(もう歩くくらいの速度だけど)言う。
背後で扉が爆発し、マシンガンを構えたテロリストが喚きながら出てきた。
咄嗟に伏せた僕に向かって都市迷彩柄の隊員が走り出し、双方の間で銃撃が始まる。
「立ちなさい!」
僕は隊員に腕を掴まれてへろへろと立ち上がった。
耳をつんざく発砲音の雨の中、引きずられるように僕は歩いた。
ヘリのローターが回り始める。
「生存者一名、援護願います」
僕を支える隊員がそう言っていた。
割れそうな心臓、ちっとも上がらない足、混乱し続ける頭を抱える僕は、もう抜け殻に近い。
助かったという安心感が何にも勝る。
「ありがとうございます、ありがとうございます……」
「大丈夫ですよ。もう助かりますよお兄さん」
僕は繰り返し、うわ言のように感謝の言葉を呟き続けていた。
銃撃戦はほんの短時間で終わり、少数の負傷者を出したものの警察側の勝利に終わっている。
ぽたぽたと前髪を伝って落ちる水滴を払った。
こちらへ、と隊員に腕を引かれるまま歩き出す。
ヘリの前面が開いてスロープになっていた。
その奥に僕は保護されるのだろう。
担架に乗せられた負傷者がスロープの先へ運ばれていく。
終わった、と胸を撫でおろした。
膝はがくがく笑っていて、肩を貸してもらっているのに足元が覚束ない。
「はは、すみません。おっと」
僕はよろめいた。
隊員が苦笑している。
きっと危なっかしく思えたのだろう。
もう一人の隊員が来て、もう一方の腕も支えてくれた。
「ありがとうございます。どうにも情けないなあ」
「礼には及びませんよ、ゾーイ・ユーラノート。私はあなたを待ちわびていたのだからね」
僕は悲鳴を上げてその手を振り払おうとした。
腕をがっちりつかんだドクター・ヒューゴの「本日ふたりめのそっくりさん」は、気負いも無く悪意の欠片ほども感じさせない笑顔で首を傾げる。
オリジナルのドクターよりも二回りくらい膨れ上がった体は筋肉質で、僕よりも頭ひとつ背が高い。
そっくりなのは顔、仕草、そして声音。
グロテスクなモザイクのように僕は思う。
「混乱してらっしゃいますねえ、王子様。ほら」
支えてさし上げなさい、とドクター・ヒューゴ(#3)は言った。
最初に僕を励ましてくれた隊員が腕をつかむ。
ドクター・ヒューゴ(#3)は彼に向かい、
「動揺が激しい。早く保護を。君は左を持て」
「了解しました隊長」
抱え上げられた僕は、乗らない、と拒絶のつもりで首を振ったが、客観的に考えてもそれはパニックに陥った人のわがままにしか見えなかっただろう。
足を踏ん張ろうとしたがどうにも力が入らない。
ドクター・ヒューゴ(#3)は憐れみをたたえた眼差しで僕を見る。
その時、不意に風が吹いた。
スコール雲が再びやって来たかのような、冷たい風。
僕はその風に背筋を撫でられて驚き、僕を掴んでいたふたりも面食らったようだった。
バラバラバラバラ……と遠くからローターの音が届く。
それに、ドクター・ヒューゴ(#3)は緊張を解いて言った。
「増援部隊を呼んである。安心しなさい、君は私たちがちゃんと保護するからね」
ローターの音が近くなる。
風が僕たちを押し付けるように吹き下ろす。
どうやら頭上の雲の中から着陸しようとしている。
隊員はヘッドマイクを掴んで、
「ピクシー1からエポック3。これ以上は着陸するな! ビルに荷重がかかる」
と吹き込んだ。
「エポック3! 聞こえているか?」
「どうした」
「くそ、後続部隊と上手く通信が――」
どっ、と、豪雨に似た音がした。
それが雨ではなく鉛玉だと僕が現状認識するまで、ほんの少し間がある。
僕が乗りこもうとしたヘリではない方が、銃火のシャワーを浴びてローターを吹き飛ばされた。
悲鳴と怒号が入り乱れる。
「何だ」
ヘッドマイクを掴んだ隊員があっけに取られて呟く。
「敵襲に決まっている!」
ドクター・ヒューゴ(#3)が一喝しようとしたとき、正体不明のヘリがさらに高度を下げ、その声を吹き散らした。
代わりに。
<ゾーーーーーーーーーーイっ! 目細のくそったれ!>
雲を突き破ったヘリのマイク越しに聞こえるその声を、僕が聞き逃すはずはなかった。
「キティー」
僕は信じられない気持ちで、頭上を見上げる。
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