ムーンジャガー

<ゾーイ> 

 

 翌朝、目を覚ますと、いつもと違う空調の香りが僕の鼻をくすぐった。

 かすかに花の香りが混ざっている。

 それで、ああ、僕はギヴンに来たんだなと思い出した。

 先住民族レ・オロの村。

 ニューハワイキでは数少ない、ニューが頭につかない地名。

「起きたか」

 足元から声がして驚いて跳ね起きると、電子銃を片手に持ったキティーがベッドの脇に座っていた。

「おはよう。……もしかして、寝てない?」

「バカじゃねえの。敵さんがいつ来るか分かんねえのに」

「キティー、寝不足が一番の敵だよ」

「スラムで一日何時間寝られると思ってる?」

 僕はひどく恥ずかしくなる。

 初めて会ったときのキティーの姿を思い出した。

 ガリガリにやせ細った、骸骨みたいな彼を。

「悪かった。僕は無神経に寝てたね」

「いい。あんたの目の下にクマが出来んのも、敵みたいなもんだ」

 キティーは手の平で銃を器用に回転させて遊ぶ。

 警戒するのはここまで、と宣言するように。

 頭上のハンガーにアイロンをかけられた礼服が吊られている。

 近くの町までは浮遊車でも片道一時間はかかるはずだが、いつの間に用意してくれたのか。

 それとも<日本語解放戦線>の人たちは、まさか僕の身に何かが起こることを予見して、サイズの合うものを事前に用意してくれていたとでもいうのだろうか。

「着替えな」

「お兄ちゃんになってまあ」

「撃つぞ」

 僕は両手を上げて降参の意を示した。

 キティーは僕に背を向ける。

 それで、ああ覚えててくれた、って感動した。

 僕が他人に見られながら着替えをするのが、非常に苦痛なのだということを。

 手記を読んでくれた今ならキティーにはその本当の意味が伝わっているはずだ。

 僕の体には、いくつもの物理的/象徴的な刻印が押されている。

 軟禁中に少しだけ筋肉がついた。

 キティーのトレーニングメニューを少しだけ真似てみたけれど、残念ながら強くなった感じは全然しない。

 肋骨の下に刻まれた精緻な桜の花をなぞる。

 デジタル上でも複製不可能な特殊な加工で施された刺青。

 それは僕の血統を証明している。

(よう、ぼんぼん。やっとその気になったかい)

 テトラの声が何処かから聞こえる気がした。

(その気って何の気だい)

 僕は声に出さずに返事する。

(怒るな、怒るな)

 テトラが笑っている。

(怒れないよ僕は)

 ホロ・パックスの壁の向こうで、様々な人々が立ち働いている気配が感じられた。

 二十人強の<日本語解放戦線>に賛同する人々。

 どう利用されるにせよ、どう活かされるにせよ、僕は僕が生きるために彼らの手をかりなければならない。

 そうでなければ、僕はこの建物の外へ足を踏み出すことすらままならないのだから。

 ピエロを撃って僕の正体がすべて明らかになってからは、すべてそうだ。

 僕は僕でなく僕はユーラノート殿下。

 もう、オーロラコートのポケットに手を入れて、ダウンタウンのウララカバーガーへ買い物に行くことも無いだろう。

 僕はそのひと時が一番好きだったのに。

 レイニーの礼服は地球時代の裃を洗練されたデザインにアップデートしたもの。

 動きにくいから後々着替えるつもりだけれど、形から入るのも大事だろう。

 彼らの良き主君であるように。

 彼らを活かし、支える旗印であれるように。

 僕には実感はないが、どうやらそういう立場になってしまった。

 僕……。

 と、考えたところで、どうやら自分本位なループに思考が迷い込んだのを自覚する。

 そうではなくて。

 僕がこの戦いにそもそも身を投じたのは、護るためだ。

 それが僕にしか出来ない役割だったから。

 ならば精いっぱいに演じきらなくてはならない。

 終演まで――終焉まで、自分に酔ったように。

 僕は、高貴でありたいなんて願ったことはないが、それでも祖父や父への誇りだけは持っている。

「終わったか?」

「うん、あと紐だけ」

 喋りながらも手だけはきちんと動いた。

 幼いころに父から叩きこまれた指捌き。

 伝統的な紐結びのかたち。

「オデマシを待ってるぜ、殿下」

「茶化さないでよ。僕も緊張してるんだから。昨日から頑張ってるけど目が泳いじゃう」

「目ぇ細いから分からんだろ。気にすんな」

「うう」

 銃を下げたままのキティーが寝室の扉を開けると、その外が緊張した空気に包まれた。

 僕はにわかに胃が痛くなる。

 丸くて低いドアを潜って出ると、控えていたロジャーが、凄まじくバツの悪い顔で僕を見て、膝をついて深々と頭を下げた。

 呆気に取られたが、つまり僕が扉を潜るときに彼よりも低く頭を下げることになったのが僕に対する不敬なのだ、と思ってるらしいことに気付いて、さらに胃を痛める。

 胃潰瘍になったらどうしよう。

「顔を上げて下さい」

 僕は出来るだけ動揺していないように――ロジャーの行動は礼儀に敵っているのだと彼自身が納得できるように、平静を装って言った。

「朝餉になさいますか」

 ロジャーはあからさまにほっとした様子で、そう言う。

「ムーンジャガーさんの報告を聞きたい」

「カノアですね」

 黄褐色のロジャーの目に、ムーンジャガーというコードネームを喜ばしく思っていない感情がありありと見えた。

 そのシャツ越しでも陰影が分かる筋肉質の背中がテントの外へ出て行くと、

「シットしてんな。ムーンジャガーが殿下になついて」

 と、キティーが言う。

「違う。彼女が恋をしているのはキティー、君にだよ」

「バカ言うな」

「賭けてもいい」

「何をかける?」

「ダブルチーズスペシャル、ビーダマコークとドラゴンポテトのLサイズ」

「乗った」

 僕とキティー、それにカノア=ムーンジャガーとロジャーの四人がテーブルについた。

 ムーンジャガーは流石に疲れが顔に出ている。

 僕は申し訳なく思う。

 軽い朝食メニューは炊き立ての白米と味噌汁、目玉焼きとベーコンのジャパニーズ・スタイル。

 ロジャーが人払いをして、

「ご安心してお召し上がりを。毒見はしてあります」

 と言った。

「ありがとう。いただきます」

 この空気、僕が口をつけないと誰も食べられそうにない。

 食欲は無かったが味噌汁の椀をそっと手に取って、喉に流し込んだ。

 懐かしい味。

 味噌は細菌の問題上、星間輸送が難しい。

「手作りですか?」

 僕が尋ねると、

「このキャンプで作っています。平和な時であれば蔵をお見せできるのですが」

 ロジャーは悔しそうに言った。

「とても美味しい。また味わいに来ます」

 本心から僕はそう応え、ロジャーは深々と頭を下げる。

 その横のムーンジャガーはじれったそうな様子で遅々として箸が進まず、たいして僕の横のキティーは元気いっぱいに白米を掻き込んでいた。

 足らなさそうだったので僕の椀もそっと押してやる。

 昨日の夜はカツを一枚ぺろりと平らげてしまったというのに。

 胃袋が若い。

 その点、僕はもう駄目だ。

「ムーンジャガーさん」

 呼びかけると、はっと顔が上がる。

 戸惑いと羞恥が浮かんでいた。

 箸先が震えている。

 僕はそれに気づいていないようにふるまう。

「結果は如何ですか」

 さりげない世間話であるかのように。

 ムーンジャガーは箸を置いて、

「はい、殿下。声紋と虹彩のパターン分析により、三人とも、ドクター・ヒューゴのクローン体であるとの結果が出ました。殿下のお召し物についたDNAから、少なくとも三人目は遺伝子レベルで間違いなくクローンであることがわかってます」

 ドクター・ヒューゴ本体を#1とする。

 僕をドーンタイムビルで襲ったクローンを#2、屋上で待ち構えてたのを#3、キティーとリチャードさんを迎えに行ったのを#4、そう僕たちはナンバリングした。

揃ったな」

「キティー、食べながら話すのはやめなさい」

「はいはい」

 これ見よがしにキティーが唇の端をぺろりと舐める。

 ロジャーの苛立った気配が刺さるようだ。

 彼はキティーという、僕に何の敬意も払っていない存在が我慢ならない。

 僕がキティーに敬意を払ってもらう筋合いはこれっぽっちもないけれど、ロジャーにしてみればすべてのレイニー星民は僕を尊重すべきだと信じている。

「殿下、恐れながら」

「うん」

「これからどうなさるおつもりなのでしょう」

 ムーンジャガーが言った。

 ロジャーがぎょっとして彼女を見る。

 殿下より先に口を開くんじゃない、とその顔が言っている。

 僕はやはり努めて、頓着しない鷹揚な人物になりきって答えた。

「元を絶たないといけない」

 食卓が静まり返る。

 キティーですら気遣って音を立てずにお椀を置き(その気になれば動作音を殺すくらい朝飯前なのだ)、僕の言葉の続きを待っていた。

 僕は深呼吸する。

 腹に力を入れる。

「すべてが終わるまで、ドクター・ヒューゴは限りなく僕たちを追う。自前の武装集団を用意しているし、警察にも食い込んでいた。逃げ切るのは難しい」

 早くもそこで息継ぎ。

 僕の心臓は高鳴っている。

「唯一、望みが見出せるとしたら、それは僕たちから攻めるという行為にしかない」

 ムーンジャガーが頷いた。

 彼女は無自覚だったかもしれないが、僕はそれで演説を続ける勇気を得る。

「反撃の為に必要な方策は、僕が想像できる範囲でふたつ。ひとつは僕とキティーの生存を公表し、併せてテロリストたるドクター・ヒューゴの存在を汎銀河系に向けて公表する。証拠としてはムーンジャガーさんが集めてくれたデータと僕たちのヘリの外部カメラ映像、ホテルの監視カメラのものも提出できるだろう。ニューハワイキ政府は偽装であれ内部の独断であれ、警察の問題である以上、介入しないわけにはいかない。世間の声は僕たちの味方につく可能性が高い。僕が政治犯であることは不利かもしれないけどね。もうひとつは、ドクター・ヒューゴの本体を探し出すこと。本体のないクローンは不法だから。騒ぎになれば、彼らは早くことを終わらせようと躍起になる」

 水を一口飲む。

 喉がからからだ。

 ここから先の言葉は怖い。

「焦れば向こうも悪手を犯す可能性がある。僕がおとりになるのが一番手っ取り早い。乱暴な言葉で申し訳ないけど、クローンを拘束する。製造元の情報が組み込まれていないクローンも違法のはず。そこから手繰って、彼の目的を知らなくちゃいけない。本体と交渉するのが一番だ」

 僕は一旦、言葉を切った。

 今の内容が全員に伝わるのを待つ。

「コウショウ?」

 一番最初に口を開いたのは、意外にもキティーだった。

「あのヘンタイとコウショウだって? バカじゃねえか」

 思わずロジャーが身を乗り出そうと腰を浮かせたその瞬間、テーブルの下にあったキティーの腕が目も止まらぬ速さで動いた。

 銃口がピタリとロジャーの額に向けられる。

「こうするんだよ」

 皿がテーブルから滑り落ちて、ガシャンと派手に割れた。

 青ざめたムーンジャガーが息を飲む。

 僕は待っていた。

 キティーは考え無しに人を傷つけるような馬鹿じゃない。

「ゾーイ、あんたは優しすぎる。あいつはオレが殺す。それで終わりにしろ」

 また目にもとまらぬ速さで銃が引っ込んだ。

 引っ込みの付かなくなったロジャーのことなど目に入っていない様子で、キティーは椅子を蹴って角度を変え、わざと乱暴に座って僕と正対する。

「いいか、あのヘンタイはオレにも手を出そうとした。その時点でオレの敵だ。あんただけの敵じゃない。わかれよボケ。いい加減に頼れって言ってんだろ」

 まくしたてるキティーの言葉を聞いて、そんなつもりはなかったのに、僕の目から涙がこぼれていた。

 僕はひとりじゃないし、僕は彼を先導する必要もない。

 頭が焼いた火箸を押し付けられているかのように痛んだ。

 僕は、これは、怒っているのか、あるいは悲しんでいるんだろうか。

 相変わらず僕にはわからない。


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