ユーラノート 004
警察への提出書類を出し終えると、スラムの青年は正式に僕の被保護者になった。
スラムの住民に関しては好きなように取り扱ってくれ、というのがレイニー政府のスタンスである。
青年はいつまで経っても名前を教えてくれなかったので、売り言葉に買い言葉で僕が名づけた<キティー>というのがそのまま彼の名前になってしまった。
もしかしたら教えなかったのではなくて、本当に、名前が無かったのかもしれない。
スラムの世界のことを僕は何も知らなかった。
でもいいか、と僕は思う。
改名に関する法律はレイニーにもちゃんと整備されている。
他所の星の人々が思うほどレイニーは無法国家じゃない。
確かに日本語原理主義者は沢山住んでいるし、銀河系全体へのテロリズムや、反体制的な暴力が吹き荒れた時期もあった。
でもそれは、もう七十年も昔の話なのだから。
栄養状態が改善したキティーの体には、日増しに目に見えて肉がついていた。
このまま順調に生活が続けばテトラが予言した通りの顔になるだろう。
キャピタルで話題をさらっている
僕はキティーの成長(といっても差し支えないと思う)を見守るのが楽しかった。
それと同時に怖かった。
テトラの言葉通りに事態が進んでいるという、その現実を考えると。
◇
僕とキティーの関係は、あまりよろしくなかった。
キティーは別に助けられたいなどとはこれっぽっちも思っていなかったし、同情なんかくそくらえだと言った。
僕の方はと言うと、キティーを助けたのは半ば義務感みたいなものだった。
だって、雨の中で子猫が捨てられていたらせめて温かくしてやろうと思うだろう。
外骨格の上からキティーが落ちてきた日、彼を保護できそうなのは僕だけだった。
さもなければ警察に送られるだけ。
流石に僕も、スラムの住人が刑務所に行ってどうなるのかということくらいは察しがついた。
つまり処分される。
だから拾ったのだ。
テトラの計画に賛成したわけじゃない。
キティーが出て行かないのは彼の銃を僕が隠したから。
誰だって、撃たれるのは嫌だろう?
僕が外出から帰ってきたとき部屋の中に台風が発生したみたいになっていたことも、一度や二度じゃない。
残念ながら僕は戸棚に銃を隠したりはしないから、キティーには見つけられない。
僕が銃を置いているのは電子錠のかかった地下金庫だ。
キティーは脳径アクセスポイントを取り付けていなかったし、生体認証を騙せるような高度な器具を持っていそうもなかったからしばらく安全だろう。
彼は、真実、自分の体ひとつでスラムを渡り歩いてきたのだった。
僕にとっては尊敬に値する。
だからといってお互いに好きになれるわけではなかった。
その関係がやっと好転しだしたのは、キティーを拾って一週間ほどしたころだった。
土曜日の夜だと記憶している。
僕はウララカバーガーのダブルチーズスペシャルを買ってきて、ふたりで食べることにしたのだ。
かんしゃくを起こさなかったら買ってくると約束したので、キティーはその日、冗談のように大人しかったのを覚えている。
僕が買ってきた袋を渡すと同時に、キティーは必死の形相でバーガーを食べる。
サイドメニューで買ってきたドラゴンポテトも必死に食べる。
僕が、誰も取らないよ、と言っても聞こえていないふうだった。
それで、あまりにも可哀想に思えたから、まだ口をつけていない僕のバーガーを彼の方に押しやったのである。
するとキティーはぎょっとした顔で、僕とバーガーを見比べて、それから明らかに(しまった)という表情で、舌打ちした。
「食べていいよ」
僕は言った。
キティーは意外にも首を横に振った。
「食わない」
「どうして」
「食うと死ぬ」
「嫌だなあ、僕は毒を混ぜたりしないよ」
とげとげしい色を隠さないキティーのまなざしが、僕を睨んだ。
「食いすぎると死ぬんだ。スラムでは」
それから、喋りすぎたというように目を伏せる。
「ねえ、キティーは帰る気なのかな」
「帰す気だろう?」
僕は反射的に、ううん、と言った。
「僕はキティーの保護者だから」
キティーはもう一度だけ目線を上げ、ついと逸らすと、
「くそくらえ」
と言った。
それから、飲みなれないビーダマコークにむせた。
ビー玉くらいの強炭酸というよくわからない宣伝文句が有名な、レイニー産のコーラ。
キティーはストローが苦手なようだったので、僕は透明なグラスを持ってきて、それにコーラをうつした。
この炭酸飲料は透明だが、光の角度によって赤や橙や緑や青の筋が入るのが美しい。
それが本当の名前の由来だけれども、本物のビー玉を見たことがある者はレイニーの日本語コミュニティにも早々いないだろう。
作成技術が失われて、目玉が飛び出るほど高価な骨董品なのだ。
ふと気づくと、キティーはバーガーにかじりつくのをやめて、グラスの中で変化するビーダマコークの色をじっと見つめている。
ああ、その時の衝撃をどう表現したらいいだろう。
僕が見たのは<無垢>であったと言える。
レイニーでいちばん汚くて危ない場所で生きてきたはずの魂が、ただの子供だましのビーダマコークの色を魅入られたように見つめている現象を、ほかに何と形容するのだろう。
さっきまで隙あらば僕を殺そうと睨んでいたキティーの瞳が、楽しそうにうるんでいる。
上っ面の言葉では掬い取れないものがこの世界にあるということを、僕は見た。
この目でしっかりと。
僕はそれで、この青年をすっかり贔屓し始めていることを悟った。
そしておそらくキティーの方は、大人しくしていれば今すぐにスラムへ蹴り戻す気はないということを納得したのである。
テトラに取材の日取りを一週間後にするように連絡を入れたのは、その日キティーが満腹になって寝入ってしまった後の事だった。
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