よどみに浮かぶうたかたは 002

 気付けば僕は幹線道路にふらふらと出て行くところだったようだ。

 とても効率がいい。

 自覚のないうちに死ねる。

 そろそろ降りてくれ、とキティーはムーンジャガーさんに言った。

 キティーは僕が見ていない歳月の内に、少しだけ他人に優しくすることを覚えたらしい。

 テトラが良い教師を見つけてくれたのだろう。

 僕は安心した。

 ムーンジャガーさんは大人しく地面に立ち、泣きはらして腫れた目で夜空を睨む。

「いい加減にしろ。オレはイカレたやつをふたりも引きずって歩かないからな」

 ヘッドライトが僕たちの間際を照らした。

 反射的に身を竦めたが、すぐに走り去って行く。

 僕たちは世界のどこにも存在しなくなったようだった。

 ぼうっとしていたら、凄まじい速さのパンチが飛んできて僕の右の頬を殴り飛ばす。

 突然のことに僕は濡れた草と泥とゴミの中に倒れ込んだ。

 死ぬほど痛い。

 頬っぺたに穴が開いたんじゃないかと思った。

 血の味がする。

 歯が折れたかも。

「なんてことを!」

 ムーンジャガーさんが怒っている。

 ようやく電源が入ったんだな、と僕は少し笑った。

 その僕の顎をキティーの頑丈な靴が蹴っ飛ばす。

 世界が二重になって三回転していた。

 月は四つに分裂したようで、夜風が頬に熱い。

 ヒューゴのクローンに首を絞められたときよりも体が苦しい。

「オレはな、死んだつもりで生きてるやつが一番嫌いなんだ!」

 キティーの吐息が矢になって僕を突き刺した。

 頭がぎゅっと痛くなる。

 何てことだろう。

 何て。

 拳を握りしめたキティーの姿に、スラムから拾い上げたばかりのガリガリに痩せて、頭になけなしの白髪を乗せて、隙あらば僕を殴り倒そうとしていた目つきの悪い少年が重なる。

 ああ、頭が痛い。

 僕は彼の生に責任を持つ立場にある。

 何故ならば保護者だからだ。

 彼を拾い、運命のレールに乗せたのは僕。

 けれどレールをいま彼は蹴り倒した。

 そうだね。

 親離れするときは、やっぱり僕から手を離すんじゃなくて、君が蹴飛ばすものだったんだね。

 子供の方が早く大人になるなんて不思議だな。

 これが心の欠けた僕の限界なんだろう。

 どこまで考えてキティーがやったのかはわからない。

 ただ腹を立てて暴力に至っただけかもしれない。

 僕はそうじゃないと信じているけれど――信じるという行為を僕が許されるのであれば。

 キティーの行為は僕の頭をひたすら痛くした。

 脳みその内側が爆発したみたいな痛み。

 これはファンタジー・キラーによって削られた感情を、何とか脳が演算しようとしている痛みに違いないということは確信していた。

 

 僕がこの時に感じようと思っていたのはどちらなんだろう。

 それとも、ふたつの感情は一体のものなのだろうか。

 だから併せてブロックされるのだろうか。

 分からない、ああ、分からない。

 だけど僕は今、何かを実感しようとしている。

 この期に及んでようやく。

 頭が痛い。

 涙が出てくる。

 四重にもにじんだ世界の天井にキティーの瞳があって、銀河じゅうの星を詰め込んだみたいにきらきらして僕を見下ろしていた。

「目細。オレは、はっきり言ってあんたが神様だろうがただのクズだろうがどうだって良いんだよ。いつまで難しいごっこを続けるつもりだ?」

「ごっこだって?」

 それだけ言うのに口の中の血の味にむせてしまう。

 僕の感情の棚は詰まっていて、力づくで開けようとするものだから易々と壊れそうだ。

「何も難しいことなんてねえだろ。目細はあのイカレた馬鹿医者の事が好きなのか?」

「ヒューゴのこと?」

「それ以外に誰がいる」

「ドクター・ヒューゴだったら、嫌いだと……思う」

「は? 思う?」

「キティー、今ようやくわかったよ。僕には嫌いと言う感覚も欠けているらしい。ここは嫌悪感を滲ませて嫌いだと吐き捨てる場面であるべきはずだよ、ねえ?」

 どうして僕は、こんなことで困惑しなければならないのか。

 通り過ぎるホバーヴィークルのヘッドライトがキティーの大きな瞳を煌々と輝かせた。

 まるで真っ黒な瞳の奥に怒りの炎が、彼が産まれたときから持っていて僕が失ったそれが灯ったかのように。

「よし決めた。オレはあの馬鹿医者を殺す。オレの手で絶対殺す」

「駄目だよ。君のキャリアに傷がつく。そんな価値はないんだ」

「嫌だね」

「僕は反対する」

「だったらひとりで死のうとするな!」

 真綿に包まれた僕の脳に電撃が走ったのはキティーの背後の空に――キティーそのものは眩しすぎて僕は直視できなかった――キティーの形の星座を探していた、まさにその時だったと覚えている。

 僕はひとつの真理に到達したのだ。

 どれだけ死にたくても生きる意味を見失っても、必ずぶれないひとつの真理。

 嵐の海を見下ろす灯台のように。

 そこに辿り着けば存在意義を得られるのだという答え。

 僕は鼻血を拭った。

 残っていた体力をかき集めて上半身を起こす。

 キティーが手を差し伸べてくれた。

「ありがとう、キティー」

「けっ」

「随分とませちゃって、まあ」

 僕はその手を取る。

 これで僕たちの間の貸し借りは無しということだ、きっと。

「行先を決めなきゃね」

 僕は前に進むことにした。

 気付いたのはこういうこと。

 <僕にとってキティーを失望させることほど嫌なことは無い>

 そして、その条件を満たす解は今のところ一つだけしか見当たらない。

 ヒューゴの暴威を阻止し、レイニーへ帰投し、そのうえで僕が生存していること。

 まったくキティーは何て難しい計算式を突き付けてきたのやら。

 それでも地獄に垂れた一本の糸を、僕は掴んだんだ。

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