カノア 001

<カノア>


 あたしたちの秘密基地は、母なるレイニーとの通信が途絶えて大騒ぎになっていた。

 脳径接続ダイブ汎銀河環状通信網PaLNのレイニー・ホームも応答無し。

 最高のハッカーであるテトラですら何もメッセージを残せなかったらしい。

 あたしたちの通信機器がおかしくなったのか、レイニー自体の通信網がおかしいのかは不明。

 レイニーのダウンタウンと桜ヶ丘、それから雲雀鉱山跡地にあった<日本語解放戦線>の基盤のすべてが何者かに組織的な襲撃を受け、すべてが壊滅したのは間違いなさそうに思われる、とあたしたちのリーダーが結論付けていた。

 ピエロが撃たれたあの日から、あたしたちは勝利に酔っている。

 誰も尻尾を掴まれることはなかったし、ゾーイ・ユーラノート殿は無事ニューハワイキに亡命、あたしたち<日本語解放戦線>の声明は国際社会の同情を得た。

 マイナー言語排斥派は目下アルマナイマ星の悪口を言うのに忙しいし、ピエロの信奉者が軍事組織を抱えてるなんて噂も知らない。

 だから、あたしたちの間には衝撃が走っている。

 たった半年でこんな手痛い敗北に直面するなんて思ってもみなかった。

 でも最高に衝撃的なニュースはその後に届いた。

 ユーラノート殿下が軟禁中のドーンタイムビルがテロリスト集団に襲撃され、倒壊したという。

 今のところビルから救出された人数はゼロを数えたままだ。

 殿という事実が、あたしたちの胃袋を逆さまにする。

 テロリスト集団の犯行声明は出ていない。

 <日本語解放戦線>の最後の生き残りになった、という事実はあたしたちの背中にずっしりとのしかかった。

 旗印の殿下はいない。

 レイニーにすら帰れない。

 そんなあたしたちに、何の価値があるだろう。

 二十人の生き残り、あるいは死にぞこないは、みんな呆然としてどこかにもたれかかり、虚ろな目で燃え盛るドーンタイムビルのニュースをずっと眺めていた。

 全部終わっちゃったな、と思う。

「ちょっと外出るね」

 とあたしは言ったが、誰も何も言わなかった。

 重くてよどんだ沈黙だけが部屋の中に漂っている。

 テロリストが徹底的に叩こうとするなら、次はここが狙われるだろう。

 ドーンタイムビルのあるニューマウナケアシティからは南へ三百キロ。

 海を隔てているとはいえ、テロリストにその気があるならもうすぐ銃弾が降るだろう。

 でも、本当にそれすらどうでも良かった。

 丸っこい扉を開けると、外は雨。

 サンダルをつっかけただけで、傘もささずにスコールの中に歩み出す。

 レイニーなら絶対に出来ない「雨にうたれる」行為は、あたしにとっては贅沢だ。

 先住民族のテント<ホロ・パックス>のレプリカが並んだ集落は、闇夜に落ちる雷に照らされて、蛍の群舞のように白く光っていた。

 あたしたちの秘密基地はそのホロ・パックスのレプリカに納まってる。

 外面は完璧な植物性のテントだけど、中は頑丈なナノ素材でコーティング済み。

 スコールが来てもびくともしないし塩害に悩まされる心配もない。

 冷房も良く利いて快適だった。

 あたしたち<日本語解放戦線>のメンバーは、ここではニューハワイキの先住民族に汎銀河系共通語を教えるという皮肉な役割を担うことで居住を許されている。

 まあ多分、それも今日でお別れだけど。

 もし今夜を乗り切って生き延びたなら。

 足を止めて、夢を見る。

 アルマナイマ星のドクター・アムみたいに、先住民族の研究でもするのがいいかもしれない。

 レイニーの事も日本語のことも、何もかも忘れて。

 ユーラノート殿下が訳されたドクター・アムの著作『アルマナイマ・銀河でいちばん無垢な星のフィールドワーク』の文章があたしの頭の中で踊っている。


 <……文化とは何だろう。アルマナイマ星の先住民族セムタムにインタビューしたことがある。私は彼らに「私たち余所者と接していて、いちばん違和感を覚える事柄は何か」と尋ねた。セムタム族は幾分悩んでから、それを「言葉」だと結論付けた。老若男女問わず、住環境を問わず、時間帯を問わず、社会的地位を問わず、彼らの答えはそのひとつであった。むろん、この事例だけを上げて文化=言葉と結論付けることは誤りである。しかしながら言語が変容することと、文化が変容することは非常に近しい関係にあることには疑いの余地が無い。フィールドワーカーは、このような意味において常に苦悩する必要があると私は考える。何故なら観測することによって社会の形を記録しようとするフィールドワーカーそのものが、社会の形を変える爆弾に等しいからである。余所者たちが乗ってくる宇宙船に対しての「ヘカー・イテ(悪魔の卵)」という単語はすでに生み出されて定着した。この視点において、私は果たしてこの星で生きていていいのか。痕跡も残さず出て行った方がいいのか、それともとどまって彼らの精神を出来るだけあるがままに記録する役を務め続けた方が良いのか分からなくなる時がある……>


 雨があたしの天辺を叩く。

 歩き始めてすぐにずぶ濡れになる。

 孤独な言語学者の独白は、今のあたしの気分に良く似合う。

 日本語は痕跡も残さず汎銀河系共通語に同化した方がいいのか、それともとどまって最後まで日本語を生きた言葉として残そうと努力した方がいいのだろうか。

 自分の話している言葉がゆるゆると死んでいくことを目の前にして、あたしはなにができるのだろう。

 幼稚園の先生が汎銀河系共通語で読み聞かせてくれた「ももたろう」と、おばあちゃんがベッドの横で話す「ももたろう」は、全然違うって気付いたその時、あたしの世界は変わった。

 ドクター・アムは言う。

 <言葉とは、それで語られるにふさわしい物語を生かすものだ>

 日本語話者のうち、それを母語とする人々の総数は不明。

 体感では、あと数世代ももたないかもしれないと思う。

 今のところ、完全な形の日本語を記録しようという試みが汎銀河系の著名な機関で行われたことはなかった。

 それは由良戸暴動から始まりファンタジーキラーに収束する「桜の大乱」によって、日本語という言語のイメージがいささかエキゾチックになってしまったから。

 ならばあたしたちがやらないといけない。

 言葉が失われるというのは、どんな感覚なんだろう。

 <日本語解放戦線>の先輩たちからは、もし日本語が世界であたしひとりしか喋れない言語になってしまったらどう思う、という質問をされた。

 あたしはいつも、分からない、と答える。

 だけどきっと寂しいだろう。

 大好きな人たちと喋っていた言葉を取り上げられてしまったら、この言葉の音を誰も美しいと思わなくなったら。

 ばちゃばちゃと水たまりを渡って、誰かが追いかけてきた。

 足を止めて振り返ると、闇の向こうに小柄な少女の姿が見える。

 レ・オロ族の青い肌は夜に溶けてしまいそうだったから、あたしは目を凝らして彼女の輪郭を確定させようと頑張った。

 少女はあたしと同じように傘もささずに走ってくる。

「ロコ」

 と、あたしは彼女の名前を呼んだ。

「カノア」

 と、彼女はあたしの名前を呼んで返した。

 ニューハワイキの先住民族レ・オロの少女とあたしは、ずぶ濡れ同士で抱きしめ合う。

 ロコ――本当の名前はロカニロコティアアカンの身長はあたしの胸にやっと届くくらい。

 歳はあたしよりも少し上で、だから少女というのは、こちらの感覚としてはいささかちぐはぐだ。

「とても/悲しみ/大きい人」

 と、ロコが言う。

「そう。大事な人が死んじゃったから」

 私はそう言って、ロコが理解できるのを待った。

 彼女は汎銀河系共通語を学び始めたばかりで、とても優秀な生徒だが、まだ文法の会得には至っていない。

 レ・オロの言葉とはあまりにも思考法が違うからだ。

「あなたはどうして、あたしに会いに来たの」

 ロコは喉を鳴らしながら、あたしの言葉を咀嚼している。

 ビールを飲むようにレ・オロの人々は振動ののどごしを味わうのだ。

「雷/会う」

 ようやく紡ぎ出したロコの単語チョイスに、あたしは内心首を傾げる。

 こちらの質問が上手く伝わらなかったかな?

 少なくとも「雷」に「会う」という動詞では意味をなさない。

「どうしてここに来たの」

 あたしはべつの角度からそう言った。

 ロコは瞼のない目であたしを凝視する。

 それで、どちらかと言うと、あたしの方が意味を汲み取れていないのではないか、と感じた。

 脳径接続ポートから「汎銀河⇔レ・オロ辞典」をリンクさせて、雷についてのレ・オロ語の記述を精査するようにインプラントに命じる。

「大きい人/雷/会う/ない/?」

 とても不思議そうにロコは言った。

「雷を見たことはあるわ。ほら今も」

 あたしはインプラントの報告を待ちながらそう答える。

 ロコはそっと腕を離して、また別の方向へ歩き始めた。

 この手の気まぐれはよくある。

 でもあたしは彼女の後ろをついて行くことにした。

 インプラントがチャイムを鳴らす。

 目の前に検索結果を表示させて、あたしは腑に落ちた。

 レ・オロ語で「雷」と「神」は同義語だという。

 だったら汎銀河系共通語の「神」を「雷」といってもおかしくない。

 ロコは「神様に会いに行く」と言ったのだろうか。

 ただ辻褄は会うけれど、だから何なのだとあたしは思う。

「ロコ」

 インプラント内のリアルタイム翻訳をアクティブセット。

 あたしは彼女の名前を呼んだ。

 それから分かりやすいように、

「雷/何/レ・オロ語」

 と聞いてみる。

 ロコはさも当然というように、こう言った。

「雷(神)は神(雷)のことよ」

 ついでに、

「もうすぐ会うの」

 と続く。

「会う/どうやって」

 ロコの指がまっすぐ上に向かって伸びた。

 あたしはその指先をなぞって空を見る。

 一面の黒雲。

 時折雷が走っている。

 ただそれだけ。

「……ロコ」

 あたしが質問を重ねようとしたとき、それは起こった。

 割り込み音声がインプラントに入ってきて、言う。

【着陸許可を求める】

 あたしはそこそこ大きな悲鳴を上げた。

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