第5話 異世界の住人

 ダイブアウトする時の独特な浮遊感が消えると、アレックスはゆっくり目を開いた。使い込まれた飴色のカウンターと、鼻腔をくすぐるかび臭い古書の匂い。間違いなく、元の世界に帰ってこられている。

 アレックスは大きく深呼吸した。生きているという実感が沸いてくる。何も収穫が無いのはとんでもなく痛いが、命あってこそだ。金はまた稼げば良い。


「おお、よく無事に戻ってこれたのう……ん? チヅル、お前さんの腰についているもんはなんじゃ?」

「……あ!」


 ロイスの言葉に、アレックスはチヅルの叫び声を思い出した。すぐにチヅルの方を向くと、その腰には白い布切れがついていた。いや、布切れだけではない。それから、緑色の髪と白い腕が生えている。

 その瞬間、アレックスの全身から血の気が引いた。


「チヅル!」


 すぐさま、アレックスはチヅルの腰についているものを引き剥がし、チヅルだけをこちら側へ引き寄せた。


「おい、大丈夫か! 何かされなかったか?」

「え、あ、う……ん?」


 アレックスは矢継ぎ早に問うが、意外にもチヅルに取り乱した様子は無い。むしろ、なぜアレックスがそんなに焦っているのか分からない、と言った顔でこちらを見つめている。


 とりあえず、チヅルに異常が無い事を確認できた。チヅルから手を離すと、アレックスは向こうの世界から連れてきてしまったものを改めて見直した。

 見かけは少女にしか見えない。髪は一見すると黒にも見えるが、限りなく深い緑だった。水色の透き通った瞳をきょとんと瞬かせ、こちらを見つめている。


「おい、アレックス。まさか、やりおったのか……」

「ああ、大失態だ。ロストブックの住人を連れてきてしまった……」

「おお……なんてことじゃ!」


 ロイスは大仰に天を仰ぐと、そのまま頭を抱えて蹲ってしまった。無理も無い。ただでさえモジュール以外の物を持ち帰るのは重罪なのだ。しかもそこの住民を連れてきてしまったとなれば、前例はないがそれこそ極刑に値する。

 しばらくぼうっとしていたチヅルだが、ようやくその事態を飲み込めたようだ。徐々に顔色が変わってくる。


「どうしよう……。私、とんでもない事を。ねえ、アレックス! どうしよう、ねえ!」

「……処分するしかない」


 冷淡に、アレックスはその一言を吐く。チヅルは一瞬その意味を理解できなかったように面食らった顔をしていたが、すぐに驚きと憤慨が入り混じった表情でアレックスを睨みつける。


「殺すって事? あんた、自分が何言ってるか分かってるの!」

「お前こそもっと良く考えろ! どう考えてもこいつは人間じゃないんだ! 放っておけば、どんな事になるか分からないんだぞ! 今ならきっと楽に殺せる。何か起きてしまってからでは遅い」

「あんた、殺せるの? 私達と同じ姿をしているのに。私には……出来ない。出来るわけ無いじゃない! う、あああああぁぁ!」


 チヅルはひどく狼狽し、顔を両手で伏せたまま激しく左右に振る。その手の隙間からは、涙が激しく溢れ出していた。


「お前が出来ないなら俺がやるだけだ。チヅル、じいさんとすぐにこの店から出て行け。見れば光景が焼き付くぞ。それに、俺が殺す姿もあまり見られたくはない」


 あくまで淡々と、何も感情が無いようにアレックスは言い放つ。

 端から聞いていれば、まるで機械が喋っているようにさえ思えただろう。だが、アレックスの背後にいるチヅルとロイスは気付かない。アレックスの顔が苦悩に歪んでいる事を。それはアレックスの決意の現れであり、同時に人の形をしたものを殺すという、言い知れない辛さを現していた。


「駄目よ、そんなの。わ、私のせいなんだから、わた」

「いいから早く出て行け!」


 アレックスがチヅルに向かって激昂する。びく、とチヅルの体が跳ね上がり、その場に縮こまって萎縮してしまう。

 その時、黙り込んでいたロイスがようやく口を開いた。


「アレックス、殺すのは少し早計じゃないか?」

「なんだと! あんたまでそんな事を……!」

「確かにこの子供は明らかに怪しい。この姿も、こちらを油断させるものなのかもしれん。しかし例えば、そう例えばじゃ。殺す事によって何かが発生、もしくは発動する事も考えられはせんか? 何かたちの悪い病原菌を持っているとか」

「詭弁だ。全ての可能性を考慮してしまえば、何も決まらない」

「ならば様子見、というのはどうじゃ?」


 あまりの突拍子も無い意見に、アレックスは数秒呆けてしまった。だが、すぐに我を取り戻し、彼には珍しい荒々しい感情をむき出しにしてカウンターを叩き、ロイスに噛み付く。


「な……何を血迷った事を! ふざけるな!」

「今下手に手を出すよりも、このまま監視を続けた方が安全だと思っただけじゃ。現にこの子供らしきものを見てみろ。こちらの世界に渡ってきたと言うのに、一切こちらに危害を加えてこようともせん。その気になればあの時、チヅルを殺す事も出来たはずじゃ」


 あの時、この子供はチヅルの腰にしがみついているだけだった。ロイスが気付き、アレックスがチヅルから引き剥がすまでにもそれなりに時間はあった。ならばなぜ、その時にチヅルを殺さなかったのか?

 疑問がアレックスの決心を揺らがせる。


「こちらから何もせん限り、無害だと言う可能性も無くは無い。この子供を成長させる事が狙いなのかもしれん。じゃが、所詮はどちらもあくまで可能性の話じゃ。一か八かの大博打を打つよりも、ここは安そうな手で逃げた方がわしは得策だと考えておるんだがな。それに……」


 ロイスは少し優しい顔になり、少女を見つめる。


「邪気が感じられんのじゃ。まるで本物の人の子のように。馬鹿な話じゃが、少し……信じてみたくてな」


 当の子供は泣くでもなく、怒るでもなく、ただ地べたに座ってこちらを見つめている。その目には少し動揺の色が見えた。こっちの会話が理解できているようには思えない。多分、なぜ言い争っているかが分からずに不安なのだろう。その反応は、親の喧嘩を目の当たりにする子供そのものだった。


 その時、アレックスは一瞬だけ考えてしまった。もしかしたら本当に害は無いのではないかと。出来れば、アレックスとてこれを殺したくは無いのだ。人の姿をしたものを殺せばきっと、その光景が、その感触が、自分を一生苛ませ続ける。

 改めて殺すという事の恐怖を考えてしまい、アレックスは尻込みしてしまう。殺す以外に選択肢があるという事が、アレックスの決意を大きく揺らがせた。一度揺らいでしまえば、決意は意味を成さない。恐れが、その選択肢を殺したのだ。


「……分かった、少しだけ様子を見よう。だがもし危険があると感じれば、その時こそ迷い無く俺はこの子を殺す。それでいいか、チヅル?」


 アレックスはしゃがみこみ、蹲っていたチヅルの肩に手をかける。

 しばらくは鼻をすする音が聞こえていたが、しばらくするとようやく落ち着いたらしい。涙でくしゃくしゃになった顔を上げた。


「……うん。ごめんなさい、アレックス。何が“下手は打たない”よ。本当に、自分が嫌になるわ……」

「あまり自分を責めるな。注意を怠った俺にも責任はある」


 多勢に囲まれたあの状況で、2人は完全に冷静さを失っていた。責任の所在など追求しようが無い。


「さて、それはいいとして、まだ大きな問題が1つ残っとるぞ。この子供を誰が引き取るか、じゃ。わしは無理じゃ。ここには協会の関係者だって来る。見付かったらどうにも言い訳が出来ん」

「くそ、言われてみればそうだ。俺の家の周りも、昼夜問わず人通りが多い。誰にも気付かれず、連れて帰るのは不可能だ」


 渋い顔をしてアレックスが唸る。

 確かにロイスの言う通りだ。いつまでもここに置いていける訳ではない。誰にも見付からず、衣食住が確保でき、常に監視が出来る場所が必要なのだ。そんな都合の良い場所などあるはずが無い。


「アレックス、私が引き取るわ」

「な……本気か!?」


 およそ考えの及ばなかった予想外の発言に、アレックスは声が裏返ってしまった。先程まで、この子供の事であれだけ取り乱していたチヅルから引き取るなどという言葉が出るなど、誰が考えただろうか。

 だが、確かにチヅルの住居はうってつけだった。チヅルは人付き合いが面倒と言う理由で、人のいない郊外に1人で住んでいた。あそこならまず見付かる事は無いはずだ。また、チヅルの家はほとんど誰も訪れる事は無い。クライアントとの打ち合わせも、必ず自宅以外の場所で行なう。それほど、チヅルは自分の家に誰かが入る事を嫌うのだ。条件だけを見れば、十分にクリアしていると言える。


「本当に良いのか?」

「ええ。元はと言えば私のミスなんだから。これ以上迷惑はかけられない。自分の後始末は自分でやらなきゃ駄目だもの。あんたにこいつを殺させようとした私が言える事じゃないと思うけど……」


 そう言うチヅルは、まだ少し動揺が見られた。本当はまだ、心の整理がついていないのだろう。だが、そんなチヅルの決意をアレックスは無駄にしたくなかった。


「分かった。その代わり、俺もお前のところに泊めてくれ」

「いっ! それは……ちょっと……その、散らかってるし……」


 チヅルが素っ頓狂な声を上げた。せわしなく目が泳がせて両手をばたつかせる。だがアレックスは、なぜそんなにチヅルが慌てるのかまるで分からなかった。


「まあそうだろうな。俺は気にしないぞ。それにもう、恥ずかしがる年でもないだろう」


 無神経なこの一言が、チヅルの逆鱗に触れる。とたんにチヅルのこめかみに青筋が浮かび上がり、目が殺さんばかりに殺気を帯びてぎらついた。


「うっさいわね! あんたに何が分かるってのよ!」

「おい。どうしたんだ急に……」

「自分で考えろ、この鈍感! ボケ! 馬鹿! もう勝手にすればいい! その代わり、家の物勝手にいじったら外に放り出すわよ!」

「あ、ああ。分かった……」


 アレックスはなぜチヅルが怒り出したのか、見当もつかない。それがさらにチヅルを苛立たせ、すっかりむくれてしまった。


「くく……。まあ、痴話喧嘩もその辺にして、そろそろ話を戻すかの」

「痴話喧嘩じゃないわよ!」


 チヅルの剣幕などどこ吹く風か。ロイスはにやけた笑いを浮かべる。


「今日はもう閉店じゃ。夜までここにいると良い。後で郊外へ抜ける裏道を教えてやろう。ちゃんとその子も連れてこい。いつまでも地べたに寝かせるのは忍びないでの」


 ロイスの言葉通り、子供はすやすやと寝息を立てて寝てしまっていた。こっちのぴりぴりした空気は伝わってきただろうに、よく寝られたものだと、アレックスは思わず感心してしまう。

 チヅルが少女にゆっくりと近付く。そしておっかなびっくり両手を伸ばし、少し躊躇った後、意を決して子供を抱え上げる。少しだけ子供は声を上げたが、起きる様子は無かった。


「大丈夫か?」

「うん、平気。本当に普通の子供と変わらないわ」


 そう言うチヅルの表情は複雑だった。だが、アレックスはもう何も言わず、その様子を見守っていた。

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