第9話 スーヤ

 それから1年後。世の中は大きな出来事も無く、ひたすら平穏に時が過ぎた。

 今日も王都ガスタブルは活気に満ち溢れ、様々な人種の人々が街を行き交う。この国は自国の繁栄のため、簡単な検査さえすればすぐに入国する事が出来る。またHOはもちろん、他の分野の技術水準も非常に高いので、それらを学びにやってくる者達は後を絶たない。


 その街中を文字通り、飛び回りながら移動する少女がいた。獣のごとく建物の屋上から屋上へと飛び移り、その度にポニーテールに結われた長髪が跳ねる。軽やかに空を舞い、一際大きく蹴りだすと、華麗に4回転半を決めて、より高い建物の屋上へと降り立った。


「うーん、やっぱりじっちゃんの店かな。微かだけど、向こうからアルを感じる」


 少女は目を閉じて呟く。

 真夏の頃と比べると大分涼しくなった風が、少女の深い緑色をした髪を撫でる。その様子はまるで、ざわめく森のようだ。

 少女はふと人の気配を感じ、目を開けて振り向く。そこには目を丸くして唖然としている女性の姿があった。どうやら、洗濯物を干していたらしい。


「あ……と、ごめんねお姉さん。驚かせちゃって。お邪魔しました」


 少女は目を瞑ってすまなそうに両手を合わせると、背面飛びをして落ちていってしまった。

 女性は慌てたが、すぐに何かを思い出したように口に手を当てた。


「そっか。あの子、今結構話題になってる子だ。名前は確か……スーヤって言ったっけ」




「おお、久しぶりじゃのう。だがここ最近、ロストブックの新しい入荷はないぞ」

「そうか。なら、B3からA2までのラインナップを見せてもらえるか?」


 アレックスはロイスからリストを受け取ると、それをぺらぺらとめくって目を通す。だが、めぼしい物は見当たらない。少し落胆の色を浮かべて、そのリストをカウンターへと戻した。

 カウンターには1冊のロストブックが開いている。どうやら、誰かが潜っているようだった。それが誰なのかアレックスは少し気になったが、ロイスに聞く事はせず、カウンターの前に座る。


「どうした、何か入り用じゃったのか?」

「いや、そうじゃないんだ。たまには潜ってみようと思ったんだが、思いのほか良さそうな物がなくてな」

「……お前、喧嘩売っとるのか? それじゃ、うちの店がいかにも品揃えの悪いように聞こえるが?」


 ロイスの機嫌が目に見えて悪くなる。ただでさえ深い皺がさらに深くなり、年を経た者特有の凄みを見せる。

 アレックスは大きく溜息を吐くと、ロイスに頭を下げた。


「すまない。別に嫌味や悪口で言ったわけではないんだ。ここには本当に世話になってるからな」

「け! 今更、世辞を言っても遅いわい……しかし珍しいな、お前さんがそんな事を口走るなど。疲れとるんじゃないのか?」

「少し、な。あいつが何かと俺の所に来て遊びたがるんだよ。どうも子供の相手は苦手だ」


 アレックスが頭を抱えてぼやいた。顔にはげんなりとした疲れが見える。体力自慢のアレックスにしては、とても珍しい事だった。


「子供といっても外見は大人のそれと変わらんぞ。本当は嬉しいんじゃないのか、この」


 ロイス得意の嫌らしい目つきで、アレックスを肘で突く動作をする。アレックスはうざったそうにそれを軽くはらってあしらった。


「……じいさんも、あれのパワフルさは知ってるだろうが。遊びに1日付き合ってみろ。全身骨抜きにされるぞ」

「骨抜きとはまた良い表現を使うのう。くかかか」

「ほざけ、色ボケジジイ」

「何か言ったか?」

「さて、どうだかね」


 アレックスがとぼけた瞬間、店の入り口が元気よく開かれる音が聞こえた。その音に、アレックスはびくっと肩を震わせる。


「じいさん、ちょっと奥を借りるぞ」

「お、おいアレックス……」


 アレックスはロイスが止める間もなく、するりとカウンターの奥へ身を隠してしまった。それと引き換えに、こちらに向かって少女が走ってくる。

 年の頃は見た目的に17、8。上背はアレックスの胸辺りより少し低いぐらいで、一般的な女性と比べると、背は小さめだった。

 服装はブラウンのジャケットとブラックレザーのホットパンツを合わせ、インナーに白のタンクトップを着込んでいる。一目で分かるほど、活発な印象だ。何より印象的なのは、森のように深い緑色の髪だ。ポニーテールに纏められた長髪は、少女が歩くたびに猫の尻尾のように跳ねる。

 顔立ちはまだまだ幼さが残っているが、淡いマリンブルーのぱっちりとした瞳が印象的な美人だった。

 少女はロイスに両手をぶんぶんと振り回して、大きく声を上げた。


「こんちわ、じっちゃん! アル、こっちに来てるよね?」

「さて、どうだかのう……」


 ロイスは思わせぶりに目を細めて、口端に笑みを作る。それを肯定と受け取ったのか、少女はカウンターを馬飛びで跳び越すと、その奥を調べ始めた。


「アルめっけ!」


 ほどなく、アレックスは在庫の影に隠れている所を見付かってしまう。少女はそのまま、アレックスの顔に抱きついた。


「むぐ! ス、スー!」

「隠れるの下手だよ、アル。そんなんじゃスーヤは騙せないって!」


 アレックスはスーヤと名乗った少女を必死に引き剥がそうとするが、がっちりと手が頭に、足が首に組まれてしまって取れない。全力でしがみ付いているらしく、首に絡まった足がぎりぎりと締め上げる。

 さらに悪いのは、完全にぴったりとスーヤの体が顔に密着しているため、呼吸を妨げてしまっていた。事実、この時アレックスは酸欠状態で顔色が赤から青に変化しそうになっている。


「スーヤ。その辺にしとかんと、アレックスがぽっくり逝っちまうぞ?」

「むー。しょうがないなあ」


 ロイスに促され、スーヤはむくれながらもアレックスから離れる。


「……ぶは! はぁ、はぁ……」


 アレックスの視界が金色に染まる。息もそうだが、血まで止まっていたようだ。足取りは千鳥足になり、視界がぐるぐると回る。


「アルもだらしないね。男の子なんだから、もっとはつらつとしてないと!」

「男の子って……お前より20以上年上なんだが……」

「いちいち細かいと、そのうち禿げて白髪になっちゃうよ。そんなアルはちょっと見たく無いなあ」

「いや、順序が逆だろう。それ」

「かもね。あっはははははは!」


 スーヤが大口を開けて豪快に笑う。外見は20歳手前に見えるのに、その行動は10歳そこそこの子供そのものだった。

 アレックスがスーヤに手を取られて奥から出ると、またけたたましく店の玄関が開かれる音が響いた。スーヤ以外にこんな扉の開け方をするのは1人しかいない。


「スー!」


 そこに現れたのはチヅルだった。肩で息を切らし、本棚の脇をくぐって、こちらへ早足で駆けて来る。スーヤの姿を確認すると、ぱっと破顔してスーヤの元へ駆け寄り、抱いてそのまま抱え上げた。


「もう、心配したじゃない。一緒に行こうって言ったのに、途中から1人で行っちゃうんだから」

「チヅ、降ろしてよ。赤ちゃんじゃ無いんだから!」

「何言ってるの。中身はまだまだお子様よ。とにかく、あんまり街に1人で来ちゃ駄目」

「やー!」


 スーヤがばたばたと暴れるので、仕方無しにチヅルはスーヤを降ろした。それでも手だけは頑として離そうとはしなかった。


「相変わらずの過保護だな。あんまりしつこいと嫌われるぞ」

「あら、いたのね。この子はまだ子供なんだから、守ってあげるのが親の務めってもんでしょうが」

「チヅ、あんまりしつこいと嫌っちゃうよ!」

「スー、アレックスの言った事を真似しちゃ駄目! アレックスも、あんまりこの子に悪影響与えないでよ」

「俺は至極まともな事を言ったつもりだがな。事実、スーも納得したから真似したんだろう?」

「なんですって!」

「止めんか、子供が見とる前で!」


 チヅルがアレックスに掴みかかろうとする瞬間、ロイスがいつになく渇の入った声で2人を諫めた。チヅルはその場でぴたっと止まり、アレックスは表情こそ変わっていないが、内心はかなり驚いていた。


「全くお前達は。喧嘩なら子供のいない時にやれ。親の喧嘩が一番子供に悪影響を与えるんじゃ!」

「ご、ごめんなさい……」

「いや、俺も調子に乗りすぎた。すまない」


 チヅルは恥ずかしそうに俯き、アレックスもばつが悪そうに頬を掻く。2人とも滅多に見られない光景だった。


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