第8話 葛藤と決意

 チヅルは脇目も振らず階段を駆け下り、リビングを抜けて壊れた玄関から飛び出した。


「はぁ! はぁ! はぁ……」


 あんな少しの距離を走っただけなのに、異常なほど息が切れている。それほど、あの場所にいるのが怖かったのだ。

 しかし、その恐怖が安らいだ分、罪悪感がチヅルを苛ます。後の事を全てアレックスに任せてしまった事が、チヅルの良心にずっしりと圧し掛かっていた。


「だめ、やっぱり戻らなきゃ……」


 チヅルは引き返そうと振り向く。だが一歩が出ない。恐ろしいのだ。子供が殺される現場を見る事を。そしてまたあの場所へ行き、子供と向き合う事が。


「動け! 動きなさいよ! 言ったじゃない、もう迷惑はかけないって。なのに、アレックスに押し付けてどうするのよ! あの子を手にかけるのは、私がやらなきゃ駄目なの! お願い、動いて!」


 全身全霊をかけて己を叱咤する。だが足は動かない。石膏像のように固まったまま、その場に留まっているしかなかった。


「なんて……情けない……」


 チヅルはその場に膝をついて崩れた。両目から悔し涙が溢れてくる。チヅルはそれを拭おうともせず、地面の草を握り締めて悔しさに耐える事しか出来なかった。

 チヅルの耳に、カタンという音が聞こえた。何事かと涙で霞む目で音の方向を見ると、あの子供が窓を開いて身を乗り出している。


「まさか……」


 喋る事が出来ない子供が、あの状態からやる事と言えば1つしかない。


「駄目!」


 チヅルは子供に向かって叫ぶが、その意味が理解できた様子は無い。子供はさらに身を乗り出し、ついに窓枠を蹴って飛び出した。

 その瞬間、あれだけ動かなかったチヅルの足が反射的に地面を蹴り、ものすごい加速を見せた。

 チヅルと子供の落下地点までの距離は約10メルセルク。子供の落下速度はどんどん増し、もう後1秒足らずで地面に落ちてしまう。この時点で、チヅルはあと3メルセルクほどのところまで来ていた。


「間に合ええぇぇ!」


 このままでは間に合わない。とっさにチヅルはダイビングキャッチを試みる。地面スレスレの低空飛行。その差し出した手の平に、重たい何かが落ちてきた。重みで体が地面に着き、地面に腹ばいになる体勢でチヅルの体は止まった。

 チヅルは素早く顔を起こすと、擦り傷でボロボロになった顔を、自分の掌へと向けた。そこには、あの子供が怯えた表情で丸くなっていた。


「この……馬鹿! なんであんな所から飛び降りたの! 下手したら死んじゃってたのよ!」


 チヅルは身を起こし、子供の肩を掴んでしかりつける。その剣幕に子供は圧倒されて放心していたが、すぐにチヅルの胸倉を両手で掴み、首を激しく横に振った。


「え、ちょっと……」


 予想外の反応にチヅルは困惑する。子供は涙で顔をくしゃくしゃにさせ、何かを訴える目でチヅルの顔を凝視した。胸倉を掴む両手がさらに力を増し、チヅルを引き寄せる。そして子供はチヅルの胸に顔を埋め、さらに首を振り続ける。まるで、何かを懇願しているように。


「あんた、もしかして……」


 チヅルはふと考えた。もしかして、この子供は置いていかれたと思ったのでは無いだろうかと。だから2階から飛び降り、置いていかないでと首を必死に振っているのではないか。

 チヅルはそっと頭に手を置く。それを皮切りに、子供は大声で泣き出した。


「あーー! あーーーーー!」


 胸倉を掴んでいた両手が離れ、チヅルを抱き抱えるように掴み直した。

 その時、チヅルの頬を熱い涙が伝った。


「ごめん……ごめんね!」


 チヅルはしっかりと子供を抱く。少し熱いくらいの体温が伝わってくる。子供特有の甘い匂いが鼻腔をくすぐる。


「あんたは人間よ……。他の誰が何を言ったって、もう私は迷わない! ずっと、傍にいるから!」


 より一層、チヅルは抱きしめる力を強くする。それに呼応するように、子供がチヅルを抱く力も強くなった。

 チヅルはひとしきり泣くと、そっと子供から手を離した。そこに声を聞きつけたのかアレックスが家の中から飛び出してきた。


「チヅル!」


 息を切らせたアレックスはチヅル達を見て呆然と立っていた。なぜそうなったのか理解が追いついていないように。


「アレックス、私、この子を育てるわ」

「大丈夫、なのか?」

「ええ、もう大丈夫。この子は私の子。もう何があっても絶対に手放しはしないから」


 そう穏やかな顔つきで語るチヅルの顔は、まるで子を守る母親そのものだった。

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