第37話 ギグス
(これ、はなん、だ?)
ギグスは確かに殺す気で拳を振り下ろした。だが、チヅルに当たる直前でぴたりと止まり、全く動かせないでいる。
原因は手首を掴んでいるチヅルの手だった。凄まじい力で押さえつけられ、押しても引いてもびくともしない。
「後、ちょっとなのよ……」
「ぬ」
手首がぎりぎりと締め上げられる。さらに、拳が徐々に押し返されていく。
その時、チヅルの白衣がまばゆく白く輝いた。あまりの強さにギグスは目が眩み、一瞬だけ目を閉じてしまう。
「絶対に諦めない! 何が立ち塞がろうと、私は全て壊してみせる!」
チヅルの声に答えるように、白衣の輝きはさらに増した。まるで白銀に輝く真昼の光のように気高く、力強く。
ギグスの体が宙に放り出される。チヅルがぶっきらぼうに投げ飛ばしたのだ。ようやく視界が戻ったギグスはチヅルの姿を探すが、もう地上にはいなかった。
「が!」
突如、背に激しい衝撃が走った。空に昇っていた自身の体は、今度は地に急降下していく。ギグスは地面に激突する前に空中で一回転して体勢を整え、四つん這いの状態で着地した。
すぐさまギグスは顔を上げる。正面には既にチヅルが待ち構えていた。
「はあああああああ!」
息も吐かせぬチヅルの猛攻。その一発一発が、ほんの少し前とは比べ物にならない破壊力を持っていた。ガードしても、上から無視できないダメージを残していく。
「は、はははははははははは! そう、だ! 是非、もない!」
最初の数発はガードしたが、ギグスはすぐにノーガード戦法に切り替えた。
チヅルの正拳突きがギグスの鳩尾に食い込む。咄嗟に腹筋を締めるが、そんな事はお構い無しに拳は減り込んだ。骨の砕ける音が体内に響き、内臓が吐き気と共に深刻なダメージを伝えてくる。
だがギグスも怯まない。チヅルの顔面目掛けて、目にも止まらぬ猛烈なラッシュを叩き込む。先ほど、チヅルに血反吐を吐かせて倒れさせた攻撃だ。それも今度は米神や下顎などの急所を、これでもかと容赦なく攻め立てる。僅か1秒の間に、50発以上をぶち込んだ。
ぐらりとチヅルの頭が揺れる。これは倒れると踏んだギグスは、脳天にとどめの1撃を入れるべく、右腕を大きく振りかぶった。
その時、チヅルの目が前髪の下から覗き、ギグスと視線が交差した。瞳の奥に紅蓮の炎を灯し、目に映るもの全てを焼き尽くさんと燃え上がらせる。
ギグスは思わず身震いした。今まで数多の敵を打ち倒してきたが、こんな目をした相手は初めてだった。脳が痺れ、これ以上無い快感が全身を包み込んでいく。
ほんの僅かに、ギグスの動きが止まった。その隙に、チヅルの鉄拳がギグスの顔面の正中線を正確に穿った。骨が嫌な音を立てて砕け、ギグスは遥か後方へ吹っ飛ばされた。
「ぬおおおおお!」
地面に着く事も許されず、抗えぬままギグスは壁に激突する。衝撃で壁が砕け、ギグスは瓦礫に埋もれて沈黙した。
(つい、に見つけた。こいつ、が俺の……)
瓦礫の下で、ギグスが牙をむき出しにして笑みを浮かべた。
ギグスはずっと探していた。自分とまともに戦える相手を。唯一、ファルムだけは自分と渡り合えたが、やり口が小賢しく求めているものとは違った。だがこいつは、
「ハハハハハハハハハ!」
両手を振って瓦礫を吹き飛ばし、ギグスは立ち上がった。牙と爪の疼きが止まらない。全身の筋肉ははちきれんばかりに踊り、血がたぎって抑えが効かない。
生まれて初めて、ギグスは遠吠えを上げた。自分と対峙するに相応しい相手を見つけた喜びを乗せて。
初めてだった。こんな気持ちになったのは。後少しでスーに会える。それを聞いたら嬉しくて、本当に嬉しくて。
実は、怒りの感情なんてこれっぽっちもない。今あるのは嬉しさ。ただそれだけ。なのに、こんなに力が溢れてくる。今までどんなに怒ったって、こんな力は出せなかったのに。今ならきっと、どんな相手にだって負けはしない。
突然、瓦礫が散らばる音の後に地を揺るがすほどの咆哮が聞こえた。見れば、敵が狂ったように鳴き喚いている。殴り飛ばされた事がそんなに悔しかったのだろうか。
(けど、そんなのどうでもいい)
チヅルは拳を握り直す。今は一刻も早く敵を倒してスーに会いに行く。それだけしか考えられなかった。
咆哮がようやく収まり、敵が猛然とこちらに飛びかかってきた。もう逃げる事はしない。小細工無しで、真正面からぶつかる。
「貴様、が貴様、が貴様が貴様が貴様こそが!」
雷雨のような激しい攻勢。手数、速さ、重さが全て、さっきのさらに上をいっている。だが、チヅルは1発もガードしようとはしなかった。上体を巧みに動かして急所を狙わせず、最低限のダメージに抑えながら、自分も反撃していく。
ボディに深々と1発。頭が下がったところでアッパー。顎に食い込むが、踏ん張られて跳ね上げる事が出来ず、その隙に顔を打ち抜かれた。
「こ、の!」
額が破れて血が噴き出す。頭骨が悲鳴を上げる。脳が揺さぶられて目の前が暗くなる。それでもノーガードの激しい打ち合いはなおも続く。お互いが一歩も引かず、無我夢中で攻撃を繰り出していく。
放たれたチヅルの右拳が掴まれた。続いて左を打つがそれも掴まれる。
「カアアァァ!」
純粋な力比べ。敵が全体重をかけて、こちらを押し倒そうとする。チヅルも応戦するが、徐々に押されて、海老反りの体勢になっていく。
「くう!」
「もっと、だもっともっともっと! 俺、を失望させる、な!」
敵がさらに力を込める。チヅルの体勢はさらに崩れ、背中が地面に付きそうになっている。これ以上押し込められれば、マウントを取られて一方的に攻撃されてしまう。
だが、チヅルはわざと地面に倒れ込み、つんのめった相手の腹に自分の両足を入れた。
「ぬ?」
上に向かって思い切り跳ね飛ばす。易々と敵は空高く舞い上がった。チヅルは素早く立ち上がり、追撃するために自分も跳び上がる。
しかし打ち上げる高さが大き過ぎた。チヅルが追い付く前に敵は天井に着き、それを蹴ってこっちに向かってきた。
『はあああああ!』
2人の気合が重なり合い、放たれた拳は互いの顔に決まった。霧散する血飛沫。頬の骨は砕け、両者の顔が無残に変形する。
チヅルは地面に叩きつけられ、敵は天井に減り込み、重力に従って下へ落下する。2人は寄り添うように倒れ込んだまま、ぴくりとも動かない。
先に動いたのは敵の方だった。鼻から血をだばだばと流し、よろめきながら立ち上がる。そして未だ倒れたままのチヅルの頭部を鷲づかみにすると、無造作にそのまま持ち上げた。
「う……ああ」
「楽しかった、ぞ。貴様、は俺が認めた最初、で最後、の戦士、だ」
そう告げると、敵はぶっきらぼうにチヅルを投げ飛ばした。
「くあ!」
チヅルは壁に叩きつけられ、もたれる形で人形のように座り込んでしまった。続いて猛烈に咳き込むと、口から大量の血があふれ出し、自分の服を真っ赤に染め上げた。
朦朧とした意識で前を向くと、敵が前傾姿勢を取って力を溜めているのが見えた。あと数秒後には、頭が砕かれるか心臓が抉り取られているだろう。
すると、がしゃんという音がチヅルの耳に届いた。見れば、そこにはハンマーが転がっている。幸運にもチヅルが投げ飛ばされた場所は、敵がハンマーを捨てたすぐ近くだったのだ。
(負けない。絶対に負けない)
チヅルはハンマーの柄を握り締めて立ち上がる。心はまだ折れていない。いや、折れるはずが無い。スーの元に辿り着くまで、チヅルが諦める事は無い。
敵がにやりと笑った気がした。きっとここに投げ飛ばされたのは、偶然では無いのだろう。互いの死力を尽くした、最後の一騎打ちのためのお膳立て。多分そんなところだと思う。
「ウオオオオアァアアァアア!」
雄叫びを上げて、敵が真正面から突っ込んできた。速い。今まで見せた中で最高のスピードだった。
「吹っ飛べ!」
タイミングを合わせ、チヅルも敵に向かってハンマーを振り回す。互いの攻撃は衝突し、身を引き裂かんばかりの衝撃波が部屋全体に吹き荒れた。
接触した瞬間、硬質な音が響き渡った。見れば敵は手から1メルセルクはある鋭利な爪を伸ばしていた。おそらく、敵の切り札だったのだろう。爪はハンマーに深々と食い込み、今にも切り裂かんとしている。
最初、互いの力は完全に拮抗していた。だが、徐々にチヅルが押し始める。
「絶対に会うんだ! あの子に会って話したい! 抱き締めてあげたい! あんたなんかに、邪魔をされてたまるかあぁ!」
「ぬ、うう。なんだ、と!?」
チヅルの感情を力に変える白衣がさらに燦然と輝き始めた。スーヤに会いたいという気持ちが力となって、チヅルの力を引き上げているのだ。
「子を想う母親の激情、なめんじゃないわよ!」
ついに力の均衡が崩れた。チヅルはハンマーを振り抜き、敵を叩き飛ばした。敵は尋常ならざる勢いで壁に激突し、壁一面にひびの花を咲かせた。
「ぐふ、はあ! はあ! は、ははは……これこそ俺、の……」
か細くそう呟くと、敵の目から光が消え失せ、力無く崩れ落ちて床に倒れる。もう敵が動く様子は無い。チヅルは勝ったのだ。
「行かな、きゃ。早く」
だが、チヅルにはそんな事はどうでも良かった。ぼろぼろの体を引き摺って、奥へと進んでいく。あの子と、もう一度出会うために。
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