第2話 ブックダイバー

 この世界には2つの本がある。

 1つは知識、思想、妄想などを後世に伝えるための書物。もう1つは、この世界と別の場所を繋ぐ媒体となる、ロストブックと呼ばれるもの。

 ロストブックが一体何のために作られた物かは分からない。だが、人はまだ見ぬ世界に憧れ、危険を顧みず本の世界へと潜り続ける。




 人々が豊かに暮らし、長きに渡って繁栄を続ける国、ジークス。その王都ガスタブルは、時代を感じさせる石造りの町並みが印象的な大都市だった。所狭しと家や店が立ち並び、路地裏を含めるとまるで迷路のようで、初めて街に来た者なら必ず迷ってしまう。住んでいる者でさえ、その全容を把握している者は数えるほどしかいないだろう。


 大通りから路地裏に入り奥深くに進んでいくと、この世から取り残されたかのようにさえ感じる古い店がある。

 店の中は一貫性の無い並びで本棚が立ち、まるで迷宮のように入り組んでいる。その奥にあるカウンターでは、1人の老人がうつらうつらと頭で舟を漕いでいた。目の前には1冊の本が開かれたまま置かれている。


 すると、急に本が赤い光を帯び始めた。光はどんどん強くなり、最後には炎が立ち昇るように溢れ出す。やがて一際華々しく輝くと、その光はゆっくりと本から消えていった。


 光が消えた後、カウンターの目の前に、どこから現れたのか、1人の男が立っていた。

 銀髪を短く切りそろえてこざっぱりとした印象だが、それに相反するかのように口元には無精髭。顔はいくつもの修羅場を潜ってきたかのような無骨さが伺え逞しいが、どこか端整な印象も覗かせる。くすんだ水色の瞳は強い力を持ち、真っ直ぐに前を見据えていた。体付きは正に筋骨隆々。鍛え抜かれた筋肉が、服の上からでも容易に分かるほど隆起していた。

 男は傍にあった椅子へと腰掛け、老人に話しかける。


「じいさん」

「……む? おお。お疲れさん、アレックス。で、成果はどうじゃった?」


 じいさんと呼ばれた老人は男に気付き、頭を跳ね上げた。口元から微かに垂れた涎を袖で拭き、軽い笑みを浮かべる。


 老人はこの書店、陰日向の店長である。本名はロイス・ボイドだが、近しい者はじいさんと呼ぶ。80近い高齢だが、体の衰えを感じさせずに1人でこの店を切り盛りしている。もっとも、あまりに奥まった場所にあるため、その存在を知っている者は数少ないが。

 惚けた所はあるがボケはまだ始まっておらず、むしろ頭は良く回る。特にロストブックの知識に長け、聞けば必ず明確な答えが返ってくる。


「大物1点狙いだったからな。これだけだ」


 アレックスと呼ばれた男は、背負っていたサックから1つの珠を取り出し、カウンターに置く。中心で煌々と揺らめく火を持つそれをロイスは手に取り、目を細めて見つめた。


「どうする? 市場へ流すか?」

「いや、こいつは自分で使う。これから先、リフレクトブロウ1本では厳しい局面も出てくるだろうからな。チヅルにトリガーを作ってもらって、新しい武器を開発してみるつもりだ」


 アレックスはロイスから珠を取り上げると、さっさとそれをサックの中へと戻す。

 ロイスは1つ溜息をつく。


「勿体無いのう。それ1つで500万は下らんというのに」

「先行投資だよ。今回のようなグレードB2なら良いが、グレードA以上に1人で潜るとなると、装備を増強する必要がある」

「そのためにチヅルがおるんじゃろうて。そう言えば今日は来とらんな。夫婦喧嘩でもしたか?」


 ニヤニヤとロイスの顔がいたずらに歪む。そんな様子を不快に思ったのか、アレックスは眉をひそめてロイスを睨む。


「誰が夫婦だ。別に喧嘩などしていない。ただ、仕事の締め切りが近いからと断られただけだ。今頃徹夜で作業してるだろうさ。終わったらこっちへ来るとは聞いたが」

「ほう、まあええわい。ところで見せたいものがあるんじゃが……」


 ロイスの目が不敵に怪しく光る。

 席を立つと店の奥に引っ込んで、何かごそごそと探しだした。しばらく掃除をしていないのか、あっという間に埃が立ち昇る。アレックスは口元を押さえて手を自分の前で仰ぎ、少しでも埃を吸わないように努力した。


 程なくして、ロイスは1冊の本を持って帰ってきた。見るからに年代物で、古びてささくれ立った羊皮のハードカバーが印象的だった。色は深みのあるこげ茶色で実に味わい深い。額にでも入れて飾れば、インテリアとしても十分通用するだろう。何より普通の本と違うのは、本自体が光を湛えている事だった。この本からは、言葉には現しづらい黒ずんだ光が放たれていた。


「ついこの間、闇市場に出たロストブックでな。タイトルは『闇にうごめくもの』。そしてなんと! グレードS3級じゃ」

「Sグレード……本物なのか?」


 アレックスは疑いの目でそれを見つめる。

 ロストブックはDからSまでのグレードで分かれており、さらに1つのグレードで1から5までに分類される。つまりDからS、5から1という順で価値は上がっていく。数字は上がっても上がる値はそこそこだが、グレードは1つ上がると、その価値は飛躍的に跳ね上がる。グレードSのロストブックなど、そうそうお目にかかれるものではない。その価値は押して知るべきものだった。


「本当はジェフェリーに売ろうとしたんじゃが、最近見かけんでな。少々危険ではあるが、お前になら売っても良いじゃろう。とりあえず、これでどうじゃ?」


 そう言ってロイスは右手の指を5本立て、そこに左手の指を3本付け足す。これは8億という意味だ。それだけあれば、3代まで遊んで暮らせるほどの金額だった。

 だが、アレックスはその条件に渋い顔を示し、待ったという風に手を広げてロイスに示す。


「その前に、ロストブックに関しての情報提示が先だ。グレードSのロストブックなら、なぜオークションなり何なり、もっと値の上がる場所へ出さない? そっちの方が良い値で売れたはずだ。と言う事は、何か曰くがあるんだろう?」


 推理を聞いたロイスの顔が一瞬曇る。すぐに元の表情に戻るが、その変化をアレックスは見逃さない。


「さて、なんのこ……」

「白を切るならそれでもいい。だが、もし俺が調べて何か出てくれば、困るのはじいさんの方だ」


 ロイスはぐっと言葉を詰まらせ、喉の奥で小さく唸る。何か言おうと口をもぐもぐさせていたが、ようやく観念したように大きく溜息を吐き出した。


「相変わらず頭が回るのう……。お前の言う通り、ちょっと難があってな。このロストブックは過去2回ダイブされておるが、その2回とも潜ったダイバーは帰ってこんかった。そのせいで危険図書指定がされていてな、よほど腕の立つダイバーにしか売れんのじゃよ。お前さんならその資格を十分持っていると思ってな」

「なるほどな。ならば、これぐらいが妥当だろう」


 そう言ってアレックスは指を3本立てる。さっきの提示金額の半値以下だ。だがロイスはさらに食い下がる。


「冗談じゃない。それじゃ仕入れ値の方が高く付くわい。負けに負けてこれじゃな。これ以上は譲れん」


 ロイスが提示した指は5本。アレックスはまだ少々高いと思ったが、これ以上値切れないと踏むと、その値段で了承した。


「分かった。交渉成立だ。ただ支払いはちょっと待ってくれ。チヅルとも相談しないとな」


 その時、店の入り口が大きな音を立てて開いた。鬱憤を晴らすのようにどたどたとでかい音を出して歩き、何かが近付いてくる。


「あーもう、あの馬鹿クライアント……勝手に納期を2週間も早めるんじゃないわよ! おかげでこっちはどんだけ徹夜した事か。じいさん、カフイ出して! 眠気が覚めるように、思いっっっきり濃く」

「チヅル、わしの店は喫茶店じゃないぞ?」


 乱入してきた主は乱暴に傍にあった椅子を引っ掴んで座ると、足をどかっとカウンターの上に置く。まさに傍若無人ここに極まれりといった態度だ。


 チヅルと呼ばれたそれは20歳後半ぐらいの女性だった。まず目に付くのは真っ白な長い白衣。そしてその上を流れる黒曜石の如き艶髪。それを無造作に腰まで伸ばしている。

 顔立ちはすっきりした鼻筋と切れ長の目が印象的な美人だが、目の下に出来た真っ黒なクマがそれに陰りを見せている。それから想像するに相当疲れているはずなのだが、当の本人は異様にテンションが高い。俗に言う徹夜明けのハイな状態なのだろう。


「ほら、疲れてるんだから早く! 少しは客にサービスしたって、罰は当たらないわよ」

「全く、しょうがないのう……」


 この状態のチヅルに何を言っても無駄だとロイスは分かっているようだ。渋々立ち上がり、カウンターの奥へと消えていった。

 二人きりになった店内で、アレックスが先に話題を切り出す。


「で、結局終わったのか?」

「当然! 元々約束を破ったのは向こうだけど、その分思いっきりふんだくってやったわ。ざまあみろってのよ! まあ、これでスケジュールも大幅に前倒しできたから、少しはゆっくり出来るわね」


 そう言って、チヅルは得意げに右手の人差し指を振る。


「なら丁度良かった。ちょっと良い話があってな……」

「ほれ、カフイじゃ。苦すぎて文句を言うんじゃないぞ」


 いつの間にか戻ってきたロイスが、カタンと音を立ててカップをチヅルの前に置く。適度に金色の模様が入った趣味の良いカップから、香ばしい香りが漂ってくる。

 チヅルは礼も言わず、それに口をつける。


「で、アレックス、良い話ってのは?」

「ほら、今お前の目の前にあるだろう」


 アレックスが顎を使って視線を促す。チヅルはカフイをすすりながら、そっちへ目を向けた。その瞬間、チヅルの目がそれに釘付けとなった。


「え、これってまさか……」

「察しが良いな。グレードS3のロストブックだ」


 静かに時が止まる。そのジャスト2秒後、店内に絶叫が響き渡った。


「嘘! ちょっと、こんなのここにあって良い物じゃないわよ! 何? って事はこれに潜れるの! ああもうどうしよう! まさかこんな日がこんなに早く来るなんて!」

「お、落ち着け……。その状態で、首を……絞める、な。く、意識……が……」


 興奮のあまり、アレックスの首にしがみつく状態になっていたようだ。腕がチョークスリーパーに近い形となり、完全に決まっている。アレックスの弱々しいタップも虚しく、彼はその場に音を立てて崩れ落ちた。


「チヅル! お前は興奮すると人を殺しかねんのじゃから、もうちょっと自覚を持たんか!」

「うっさいわね! こんなの見せられて、興奮しない方がおかしいってもんでしょうが! アレックス、いつまでも伸びてんじゃないわよ!」


 自分がしでかした事だというのに、チヅルはアレックスに罵声を浴びせかけた。

 わずかの間、アレックスは床に倒れていたが、瞼を震わせて意識を取り戻した。首を押さえ、頭をふらふらさせながら立ち上がる。


「……全く、視界が真っ黒になったぞ。本気で死ぬかと思った」


 激しく咳き込みながら、アレックスはもう一度椅子に座り直す。


「まあいい、そこでロストブック購入代の折半だが、46でどうだ?」

「あら、気前が良いじゃない。あんたがそんな事言うなんて、銃弾でも降るんじゃないの?」

「馬鹿言え。俺が4、お前が6だ」

「な! 冗談じゃないわよ! 何で私が余分に払わなくちゃいけないわけ!?」


 チヅルの問いに、アレックスは自分の首を指す。そこにはくっきりと、先程チヅルが絞めた跡が残っていた。


「なんだったら訴えてもいいぞ。容疑は殺人未遂。証人はじいさんだ。十中八九俺が勝つと思うがな。それに、値段交渉したのは俺だ。その苦労は認めてもらいたいもんだな」

「ぐ……」


 チヅルはしばらくギリギリと歯を軋ませて睨んでいたが、やがて観念したように俯いて一拍置き、殺気立った目で顔を上げた。


「覚えてなさいよ……! で、これは一体いくらなわけ?」

「これだ」


 アレックスはチヅルの目の前に指を5本立てる。チヅルは一瞬首を傾げたが、すぐに意味する金額を悟り顔を歪ませた。チヅルはカウンターに手をついて、ロイスへぐいっと詰め寄る。チヅルとロイスの顔が、これでもかというほどに近付いた。


「ちょっと、じいさん! いくらなんでも吹っかけ過ぎよ! 舐めてるんじゃないでしょうね!」

「馬鹿言え、それでも激安じゃ。もうこんなものは二度と入らんかも知れんぞ。なんだったら、ジェフェリーに流してもいいんじゃがのう……」

「それでも値切った方だ。諦めろ」


 チヅルの剣幕にも涼しい顔で対応するロイスとアレックス。その様子はさながら、子供の癇癪に親が無視を決め込んでいるようだった。

 チヅルは悔しそうにカウンターの上で手を握り締めて俯いていたが、やがて観念したように椅子に座り直した。


「ああもう! まるで私が馬鹿みたいじゃない……分かった、それでいいわ。で、いつ潜るの?」

「俺はいつでも構わない。まあ、なるべく早くが良いとは思っているが」

「じゃあ3日後。私も休んで体力を戻さないといけないし、準備も必要でしょうから」

「分かった、その日にしよう。じいさん、支払いはその時でいいか?」

「ああ、構わんよ。ちゃんと取っておいてやるから安心しとけ」


 ロイスがいそいそと、ロストブックをしまい始める。


「交渉成立だ。さて、今日は帰るとするか。このモジュールの解析もしたいしな。チヅル、お前はどうする?」

「私も帰るわ。眠くて眠くて仕方ないんだから。2日は寝ないと体の調子が戻らないわ」


 チヅルが体を大きく伸ばし、片手を口元に当てて大あくびをかました。

 2人は椅子から立ち上がったが、ふとアレックスは忘れていた事を思い出した。


「そうだ。そのブックは預かっておいてくれ。どうせ後2年は経たないと、ダイブできないだろう」


 ロストブックは一度潜ると、その後しばらくは潜れなくなる。種類にもよるが、2~3年が一般的だった。力を取り戻すと、ロストブックは固有の光を放ち始める。


「ああ、いいぞ。力が戻ったら教えてやるわい」


 2人は店の出口へ歩き出した。本棚の迷路を抜け、「まいどあり」というロイスの声を後ろから受けて、古めかしい扉を開ける。

 微かに黴臭い店の空気をかき分けて、夜の澄み切った空気が流れ込む。大きくそれを吸い込めば、体の隅々が浄化されるようだ。


「少し風が冷たくなってきたな。もう秋も間近か」

「季節なんてどうでもいいわ。まあ、これで汗だくになりながら開発する事も無くなるのは嬉しいけど」


 そのチヅルの物言いに、思わずアレックスは小さく吹き出した。


「全く、お前は季節感が無いな」

「そんなものが無くても不自由はしないもの。私が考えるのは自分の作品の事だけ。他の余計なものは一切要らない」


 夜風にさらされたせいか、先程の興奮が嘘のように冷めた口調でチヅルは呟く。

 他に入る余地の無いきっぱりとしたその主張に、アレックスが少し呆れた顔をする。同じ工学者であるが、この部分だけが決定的に違う。それほどチヅルの開発や研究以外に対する無関心さは、他に例を見ないほど徹底されている。


「そうか。少しぐらい周りに目を向けても、俺は良いと思うんだがな」


 もうチヅルは言葉を交わそうとはしなかった。付き合いきれないとでも言うように、チヅルは無言でアレックスを置いて歩いていく。

 急に冷たくなったチヅルの態度にも、アレックスは動じない。そもそも、これがチヅルの本当の性格なのだから。だからただ一言、その背中に声をかける。


「あんまり根を詰めすぎるなよ。少しは体に気遣った方がいい」


 チヅルは返事をする事無く、そのまま脇道に消えていった。

 アレックスは肩をすくめ、サックを背負い直すと、自らも帰路へと歩を進める。チヅルはあれで自己管理がしっかりと出来る。だから口で言うほど、アレックスは心配などしていなかった。


 それよりも今は、あのロストブックの事で頭が一杯だった。果たして、あの本の先にどんな世界が待っているのか。考えただけで一人笑みがこぼれる。この高鳴りこそ、アレックスがダイバーを続ける理由なのだから。

 徐々に身を切るほど鋭くなる風は、しかしアレックスの興奮を冷ますには至らない。表面は静かに、しかし内には熱い昂ぶりを抱えながら一人歩くのだった。

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