第6話 闇夜に紛れて
それから8時間後の午前0時。アレックスとチヅルは人目を忍び、人気の無い裏道を歩いていた。ロイスから教えてもらったその道は、本当に誰とも会う事が無かった。この調子ならば、目に付く事も無く郊外へ抜けれそうだった。
「チヅル、なるべくゆっくり歩こう。泣き出されでもしたら、気付かれる可能性が高くなる」
「大丈夫。大人しいものよ。あれから、ずっと目を覚ます様子が無いんだから」
2人はひそひそと会話する。かなり声を潜めたはずなのに、その声が妙に大きく聞こえ、アレックスは少しどきっとした。だが、そんなものは所詮気のせいだ。少しだけ深く呼吸して気を落ち着かせる。
こんな夜更けに人気の無い裏道を歩く大人2人とそれに背負われる子供など、見つかれば怪しくないはずが無い。誰かに見つかってしまえば最悪、噂となって街中に広がってしまう。その不安がアレックスを無意識に強張らせていた。
いくつもの角を抜けてしばらく歩くと、突然視界が開けた。ようやく街を抜けたのだ。
目の前には秋風に揺れる草原と、灰色の石畳で舗装された1本の道があった。アレックス達は道の上は通らず、脇に離れるようにして歩き出した。道の上では、誰かと鉢合わせてしまう可能性があるからだ。
民家がちらほらと見当たるが、明かりさえ点けなければ、そうこちらに気付けるものではない。それに住民もすでに寝てしまっているようだ。まだ明かりがついている家など、ほんの僅かしかない。
「これでとりあえずは一安心だな」
「まあね。早く行きましょ。まだ見付かる可能性が無い訳じゃないんだから」
「ああ」
チヅルの家は、ここからさらに30分ほど歩いたところにある。そう遠い距離ではない。
アレックスは歩きながら、チヅルの表情を伺ってみる。無表情で特にこれといった様子は無い。ほんの数時間前まで荒れていたのが嘘のようだ。
と、チヅルがその視線に気付き、切れ長の目をさらに細めて睨みつけてくる。
「なーに、ジロジロ見てんのよ。気色悪いわね」
「お前じゃない。背負っている子供を見ていただけだ」
アレックスはとっさに嘘をつく。だが、その嘘は看破されてしまったようだ。チヅルは浅く溜息をつき、子供を軽く背負い直す。
「もう平気よ。心の整理は大分ついたわ」
「……すまん」
「何で謝るのよ、馬鹿」
しばらくすると、前方に林が見えてきた。道はその中に続いている。ここまで来れば、あともうすぐだ。
林に入り、微妙に蛇行した道を歩くと、先に赤レンガ造りの一軒家が現れた。シンプルな造りだが、かなり大きく2階建てだ。2世帯でも余裕で住めるほどの広さがあるだろう。
アレックスはチヅルを呼びに何度か来た事はあるが、一度も中に入った事は無かった。だからチヅルが玄関の戸を開けてアレックスを招き入れた時、その惨状に思わず眉間に皺を寄せた。
アレックスの家も相当な荒れ様なので、気にはしないつもりだった。だが、この汚さは訳が違う。アレックスの家を例えるなら、さしずめ無機質な汚さだが、チヅルの家は有機質な汚さだった。まんべんなく飲食物の残骸が散らばり、仕方なく集めたと思われるゴミ袋からも、軽い酢酸臭が漂ってくる。
「お前な……もうちょっと、女だって事を自覚したらどうだ? こんなんじゃどんな男も寄ってこないぞ?」
溜息をついて、呆れた眼差しをアレックスはチヅルに送る。その視線にカチンときたのか、烈火のごとくチヅルは捲くし立てる。
「いつもはもっと綺麗にしてるわよ! あの馬鹿クライアントが無茶な追加注文さえしてこなきゃ、こんな有様にならなかったのに……。結局、睡眠時間を取るのが精一杯で、掃除する暇が無かったんだから!」
「ああ、だからあんなに不機嫌だったのか」
そう言われて、アレックスはブックに潜る前の様子を思い出した。妙にテンションが低いと思ったら、こういう事だったのだ。
「あとな、せめて散乱した下着ぐらいは片付けてくれ。別に興味はないが、流石に目のやり場に困る」
「指を指すな!」
「ぐあ!」
惚れ惚れするほどに見事なストレートが、アレックスの顔面に決まる。インパクトの瞬間に拳が顔に減り込み、空を仰いだまま3メルセルクほど吹っ飛んだ。そして体が地面についたと同時に、チヅルの家の戸がけたたましい音を立てて閉じられてしまった。ご丁寧に金属質な音を立てて、鍵まで閉められてしまう。
慌ててアレックスは身を起こすと、固く閉ざされた戸を叩く。
「おい、ここまで来させておいて締め出すな! 流石にこの寒空の下で野宿はきついぞ!」
それはさながら、付き合いで深夜に帰ってきた旦那が妻に締め出しを食らったかのような哀れな光景だった。誰かがそれを見ていれば、惜しみない哀れみの念を送っただろう。
すると、背後にドスンという重たい音が聞こえた。アレックスが振り向くと、そこには茶色いサンドバックのような、円筒形の布袋が転がっている。口紐を解いて中身を出すと、それは寝袋だった。どうやらそれで凌げとチヅルは言いたいらしい。
「はあ……仕方ない。今日はこれで我慢するしかないか」
ぼそぼそと自分を納得させるかのように呟くと、アレックスは寝袋を持って玄関の前に移動する。そのすぐ前で寝袋を広げ、もぞもぞと潜り込んだ。
寝袋はしっかりと綿が詰め込まれていて、それなりに温かい。これなら今夜ぐらいは何とかなりそうだ。
「まさか……これからもこれで寝ろとか言い出しはしないだろうな?」
ふとそんな不安に駆られる。チヅルは執念深い。一度恨みを買うとそれが根深く残るものだから、あながち冗談とも言い切れないのが怖いところだった。
どちらにしても、今日は眠る事が出来ない。
あれが何らかの行動を起こすとすれば、今夜から明日にかけてまでの可能性が高い。今は考えられる限りの状況を想定し、それに対しての対策を練らなくてはならないのだ。そして、何かがあった際には、素早く対応しなければならない。眠っている間にそれが起きてしまえば、アレックスがここまで来た意味が無くなってしまう。
その晩、アレックスは襲い来る眠気と寒さを相手に懸命に戦いながら、一睡もする事は無かった。
力の限り戸を閉めると、チヅルはアレックスを外へと締め出した。だが、戸が予想以上にどでかい音を立ててしまったのを聞いて、慌てて背中にいる子供に目を向けた。しかしそんな音など一切気にせず、子供は静かに寝息を立てて寝ている。さっきから大きな声で口論をしていたというのに、随分と図太い神経だ。よほど眠かったのだろうか。
チヅルは傍のソファーに子供を置くと、地下の開発室から寝袋を引っ張り出してきた。自分の部屋に戻るのも億劫な時は、いつもこれで寝ている。
それを袋に詰めると、2階の窓から落としてやった。雨も降りそうに無いし、これで今日のところは凌げるだろう。
先程まで戸を叩く音が聞こえていたが、寝袋を落とした瞬間ぱたりと止まった。どうやらそれで諦めてくれたらしい。チヅルは窓を閉めて部屋を後にする。
(……明日からは入れてやろうかしら。元はと言えば、これだけ散らかしてた私も悪いんだし)
ふとそう思ったが、立て続けに失礼な事を言われたのを思い出し、首を横に振る。
「やっぱり入れてやるもんか……!」
そんな独り言を言いながら、チヅルは1階へと戻る。子供を抱き抱えると2階に上がり、客室のベッドに寝かせた。
「む……う……」
掛け布団をかけると、子供は唸りながら寝返りを打つ。
その様子を見て、ほんの少しだけチヅルは笑みを浮かべた。しかし本人はそれに全く気付かない。すぐに表情が元に戻ると、はだけてしまった掛け布団を掛け直し、静かにその部屋を出た。
ふと、チヅルはあの子供に対する不信感や恐怖感が薄れている事に気がついた。連れてきてしまったと分かった時は、あれだけ取り乱していたはずなのに、いつの間にか当たり前のように面倒を見ている。それが何だかおかしくて、少し苦笑気味に笑う。
「ふう、疲れた……」
今日は色々な事がありすぎた。一息つくと、体はずっしりとした疲れを訴え、眠気が津波のごとく押し寄せる。もう着替える余裕も無く、隣にある自分の部屋へ移ると、そのままベッドへと体を投げ出した。
痺れるように深く落ちていく意識。その気持ち良さを感じながら、チヅルはもう日が変わってしまった、長い1日を終えた。
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