第14話 それぞれの変化
「捕まえた!」
スーヤが地を照らすメルファの黒点となり、一直線に地上へと落ちてくる。その落下地点にはカークが佇んでいた。そこにスーヤが全身でルークに覆い被さる。しかし、
「あ、あれ?」
スーヤの腕の中にはカークはいない。スーヤが慌てて周りを見渡すと、当のカークはチヅルの家の玄関前にちょこんと座り、前足で首元を掻いてあくびをしていた。
「こ……の、馬鹿にしてぇ!」
「そこまで」
再びカークに飛び掛ろうとするスーヤを、アレックスが静止した。スーヤは不満極まりないという顔でアレックスを睨みつける。
「アル、何で止めるの!?」
「これ以上やっても無駄だからだ」
「そんな事ないもん!」
まるでアレックスの言う事に聞く耳を持たない。地団駄を踏んで、丸っきり癇癪を起こした子供の仕草だ。アレックスは軽く溜息をついて、スーヤの目線まで腰を落とし、真っ直ぐにスーヤの目を見て諭す。
「スー、なぜお前がカークを捕まえられないか分かるか?」
「カークが速過ぎるんだよ!」
「確かにそれもあるだろう。だが決定的なのは、お前が相手の先を読もうとしないからだ」
「相手の……先?」
微かにスーヤの顔から険が消えた。
「そうだ。相手の行動を予測したり、こちらの意図したように相手を動かしたりするんだ。少し手本を見せよう」
そう言うと、アレックスはカークの元へと歩いていく。カークはその気配に気付き、ピクッと顔を上げてこちらを見る。向こうもこちらの意図に気付いたようだ。油断無く、こちらの出方を伺っている。
両者の距離は5メルセルク弱。俊敏にアレックスが走り出す。その方向はカークから少し右側に寄っていた。当然、カークはアレックスから見て左脇へすり抜けて逃げようする。
もちろん、これはアレックスの狙い通りだ。巧みに体重を右足へ掛け、即座に左斜め前へ移動する。
これでは捕まると考えたのか、カークは華麗に反転して今度は右へ。だがアレックスはさらに右へと切り返し、逃げ道を作らせない。
尽く進路を読まれ前面からは逃げられない。後ろにはチヅルの家があって引く事が出来ない。となると、残りの逃げ道は決まっている。カークは後ろを向いて、2階のベランダへ飛び移ろうとした。
だが、カークはベランダに届かなかった。アレックスはカークが後ろを向いた僅かな時間に距離を詰め、カークが飛んだと同時に自分も飛んでいた。そして、ギリギリのところでカークの尻尾を掴んだのだ。
哀れ、カークはそのまま引き摺り降ろされ、アレックスの腕の中に納まってしまった。尻尾を掴まれたのがよほど不満だったのか、カークはアレックスの顔を見て低く唸っている。
「すまんな。足を掴むつもりだったが、後一歩届かなかったんだ」
そう言いながら、アレックスはカークの頭を撫でる。それでもカークは機嫌を直さず、じたばたとアレックスの腕を蹴って逃げ出してしまった。
「アル……すごーい!」
スーヤがアレックスの元へ駆け寄り、羨望の眼差しで見つめてくる。あまりにもキラキラとした目だったので、アレックスは妙に気恥ずかしくなり、スーヤから少しだけ目を逸らした。
普段、何があってもあまり動じる事の無いアレックスがこういう態度を取るのは、実に珍しい事だった。チヅルやジェフェリーがいれば、すぐにからかわれていただろう。
「スー、なぜ俺がカークを捕まえる事が出来たか分かるか?」
「えっと……アルがいっつもカークの先回りをしてるように見えたけど」
おずおずとスーヤが答える。アレックスは頷いて肯定し、
「その通り。今のはこちらが意図した動きになるように、カークを誘導したんだ。こちらがどう動くと向こうはどう動くか。そして、最終的に捕まえるところまでのビジョンを描く。言うのは簡単だが、これがやってみると意外に難しい」
「スーヤにも……出来るのかな?」
珍しく、スーヤが不安げにアレックスの顔を見上げてくる。アレックスはスーヤの頭に手を置くと、優しく笑いかけた。
「ああ。スーはまだまだ経験が足りないからな。相手の動きを予測するのは難しいだろう。だから、まずは落ち着いて相手の癖や弱点を見抜け。生き物には必ず付け入る隙がある。それを利用する事で、こちらが大きく有利になる事だってあるんだ」
「もしかして、これってそういう特訓だったの?」
「もしかしてって……お前は一体何だと思ってたんだ?」
「カークと鬼ごっこ。だって、アルはカークを捕まえろとしか言わなかったじゃない!」
「いやまあ、それはそうなんだが……」
純真過ぎる言葉に、アレックスは返す言葉がすぐに出てこなかった。何と言えばいいかと思いあぐねていたが、ようやく考えが纏まり口を開く。
「ちょっとお前は素直過ぎるな。もう少し、言葉の裏側を読んだ方が良いぞ。人の言葉を無差別に信じ過ぎると痛い目を見るからな」
「人を信じるのはいけない事? 人って本当は皆悪いの?」
スーヤの外見からは似つかわしくない、子供じみた疑問。だが、アレックスは返答を躊躇った。
ここで正直に人は全てが善人ではないと言えばどうなるだろうか。素直なスーヤの事だ、全てが疑心暗鬼で見えてしまうだろう。下手をしたら自分達にさえ、心を閉ざしてしまうかもしれない。
かと言って、全てが善人だと言ってしまえば、また堂々巡りだ。スーヤは一度信じた事はそう簡単に覆さないため、後から訂正しようとしても頑として聞かない。
どう返答して良いものか悩んでいたその時、
「スー、ご飯よ!」
玄関が開き、白衣にエプロン姿というどうにも珍妙な格好をしたチヅルがスーヤを呼んだ。渡りに船とはこの事だ。
「ほら、今日の特訓は終わりだ。明日は本試験だからな。今日はしっかり休んでおくんだぞ」
そう言って、アレックスはスーヤの背中を押す。だが、スーヤは振り返ると、
「アル、さっきの答え、いつか聞かせてね」
そう言い残し、スーヤはチヅルと二言三言ほど話し、家の中へ消えていった。
チヅルがアレックスに近付いてくる。
「アレックス。スーはどんな感じ?」
「身体的なポテンシャルに関しては全く問題無い。ただ、正面からぶつかっていく癖がどうしても抜けないな。トリッキーなタイプ相手だと苦戦するかもしれない」
ブックダイバー資格試験は、当日に発表されたロストブックへ潜り、指定されたモジュールを手に入れる事が合格条件だ。
試験で使用されるロストブックのランクはC5からC3まで。低いランクではあるが、甘く見ると痛い目を見る。試験官が付き添うとはいえ、実質たった1人で潜る事になるのだ。さらに敵はターゲット1匹だけではない。その世界に存在するほぼ全ての生物が敵となり得る。それらを対処しながらターゲットを探すのも、かなり骨が折れる。
「あの子、本当に正直だから。向かってくる者全てを相手にしかねないわね」
不安げな表情で、チヅルが右手を顎に当てて軽く俯く。
「ロストブックの内容にもよるが、確率は5割がいいところだろう。相性がかち合えば、もう少し上がるかもだが」
「……かもしれない。でも、きっとあの子は受かるわ。確率はどうあれ、私達があの子を信じてあげないと」
その言葉を聞いて、アレックスは思わず目を見張った。チヅルからこんな理屈抜きの前向きな思考が出てくるとは夢にも思わなかったのだ。
おそらく、スーヤと共に過ごしてきた影響だろう。前回の一件は例外としても、ここのところのチヅルの性格は、日に日に変わってきている。常にスーヤの事を第一に考え、それに伴って精神が安定して性格が穏やかになってきている。
「……あれで良かったんだな」
「な、何よいきなり。気色悪いわね」
「いや、ただの独り言だ。そうだな、確かにその通りだ。俺達が信じてやらなければ駄目だ」
「? まあ、いいけど。あと、明日の試験が終わった後だけど……」
「大丈夫だ。しっかり覚えている。準備はスーヤがロストブックに潜っている間で十分だろう。そのための買出しも、ジェフェリーを見舞いに行くついでにやっておこう」
「あー……その、ジェフェリーはまだ具合が悪いの?」
煮え切らない様子で、チヅルがアレックスに尋ねる。
あの日の後、アレックスの忠告も聞かずにジェフェリーはチヅルの家に出向き、2人の料理をたらふく食べたのだ。結果は案の定、1時間後に猛烈な胃痛を訴え、6日経った今でも家を出る事が出来ないでいた。
「一向に良くなる気配が無いな。お前、本当に毒でも入れたんじゃないのか?」
「私とスーも一緒に食べたのよ! 毒なんて入れられるはず無いじゃない」
「それじゃ食器の方だな。いくらスーが危ないからといって、そこまでする必要も……」
「しつこい!」
チヅルが拳を振りかざしたのを見て、すかさずアレックスは両手を上げて降参のポーズを取る。
「まあ、冗談はこれくらいにして。ジェフェリーにお前が心配していたと伝えておこう。スーはまるで気にしていなかった、ともな」
「……あんた、最近そういう冗談を言うようになったのはいいけど、ちょっと陰険よ」
「そ、そうか?」
チヅルに指摘されて、アレックスは以前の自分を振り返ってみる。
確かに昔は、チヅルの前でこんな冗談など言った事が無い気がする。チヅルの険が取れたおかげで、こういった話題を振る事が出来るようになったのだろうか。
「次からは気をつけよう。さて、すっかり遅くなった。スーによろしく伝えてくれ」
「せっかくだから夕飯ぐらい食べてったら? スーも喜ぶし」
「おまえこそ冗談を言うな。これ以上犠牲者を増やしてどうするんだ」
「分かってるわよ。ちょっと言ってみただけ」
そう言ってチヅルは笑顔を作る。
チヅルは気付いていないだろう。今、自分がスーヤ以外に笑顔を向けている事を。彼女を知る者なら、まず確実に嘘だと断言するだろう。今、目の前で見ているアレックスでさえ信じられないのに。
「何よ、ぼーっとしちゃって。ほら、行くんでしょ。さっさと行っちゃいなさいよ」
「あ、ああ」
アレックスはチヅルに背を向けて歩き出す。
この時、チヅルに対して背を向けているアレックスは気付かなかった。チヅルが自分に向かって小さく手を振っている事を。もし気付いていたら、新種の病気にでもかかったのではないかと疑い、チヅルを抱えて医者の元へ走って行っただろう。そんな事をすれば、ハンマーが飛んでくるのはまず間違いないが。
「この年になってもまだ変わるのか。人ってやつは」
感慨深くアレックスは呟く。
きっかけはたった1人の少女が現れた事だけ。しかし、それはゆっくりとだが確実に、周りに良い影響を与えている。そう、自分自身にさえ。
だが、それと共に一抹の不安も確かにあった。スーヤは一体何者なのか。ただの少女だとしたら、なぜあの世界にいたのか。
無視する事は出来ない。しかし、疑問を突き止める手段が無かった。病院で精密検査をすれば何か分かるかもしれないが、それは同時にスーヤの正体を世に知らしめる事になる。それでは本末転倒だ。
だから、常に起こり得る事態を想定しなくてはならない。それが自分の役割であり、唯一成せる事なのだから。
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