第35話 悪鬼羅刹
チヅルはひたすら一本道を走り続けていた。何か罠でもあるのではないかと、気を張って警戒しているが、どうもそんな様子は無い。
(まさか本当に通しただけ?)
どうにも敵の意図が掴めない。わざわざ敵を中枢に向かわせるなど、普通ならありえない。まるで、戦いの勝敗などどうでもいいようだった。
長い通路をひた走り、ようやく開けた場所に出た。広さはさっきのと同じぐらい。正面には、出口らしき通路が見える。
そして部屋の中央。真っ赤な何かが、仁王立ちで佇んでいた。
「来た、か。あいつ、め。こんなの、をよこした、か」
話すのが苦手なのか、言葉がたどたどしい。不服そうに眉間に皺を寄せ、こっちを睨んでくる。
2本足で立っているが、足の関節が人とは逆に曲がっている。顔は、凛々しく伸びた鼻先に、広く裂けた口。犬歯は非常に長く、20セルクはある。真っ黒な瞳孔の中に、縦楕円の金色が光る瞳は鋭く、睨みつけられただけで言い知れない迫力に押されるようだった。似たような動物で言うと、狼辺りだろうか。
何より目を引いたのが、全身が深紅の毛で覆われている。あの世界の住人にしては、異質の存在といっていい。
チヅルは悟る。こいつは間違いなく強い。あの世界にいたものは、全て保護色である黒を纏っていた。しかし、こいつは真逆の目立つ色を持つ。自身の存在を隠蔽する必要が無い。それだけの力を持っているはずだった。
「そこをどきなさい。あんたに構ってる暇なんて無いのよ」
そう言いつつ、チヅルは武器を構える。言って見逃すような敵でない事は重々承知。むしろこれは、お前を倒すという意思表示だった。
「お前みたい、な弱そうな奴、など気は乗らん、な。まあいい。貴様、をさっさと殺し、残りの奴ら、も片付ける」
「え?」
敵が言い終わった瞬間、チヅルの視界が真っ赤に染まった。続いて下腹部に鋭い衝撃。体が宙に浮き後ろに飛ばされている事を、チヅルは全く理解出来ずにいた。
「が、は!」
壁に強かに背中を打ちつける。打ち付けられた衝撃と、下腹部の痛みで呼吸が出来ない。だがそれを押し殺し、本能的にチヅルは前を見据えた。もう一度赤に染まる視界。しかし今度は見える。下から突き上げられる拳を床を蹴って飛び上がり、間一髪でかわす。
「でぇい!」
上空から力任せにハンマーを振り下ろす。だがハンマーは虚空を切り、強かに床へ打ちつける。
「ちょこまかと!」
チヅルの目は捉えていた。敵が右に跳び、すんでのところで攻撃をかわしたのを。すぐさま視界を右に向けるが、敵は目の前まで迫っていた。むんずと腕を掴まれ、力任せに体ごと振り上げられる。
「む」
そのまま地面に叩きつけられる瞬間、チヅルは自分の足を敵の首に絡みつかせた。スレスレのところでチヅルの体の落下はぴたりと制止し、2人の動きが止まった。
「気安く触んじゃないわよ!」
勢いが止まったところで、チヅルが逆さ吊りの状態のまま、絡めた足を離して、敵の顎を思いっきり蹴り上げる。それも両足を使って二度。さらに腹を蹴って相手を吹き飛ばした。
「ぐ……う」
拘束から開放され、チヅルはふらつきながらも立ち上がる。だが、すぐに下腹部を押さえて膝をついてしまった。最初に貰ったボディのダメージが非常に大きい。無防備な状態で食らってしまったため、内臓に傷を負ってしまったかもしれない。
強い。何より速い。一瞬でこっちの懐に詰め寄る速さは脅威だった。今では何とか目で追えるが、予測していないと、とてもかわしきれない。
「なるほど、な。確かに、そこそこはやる、ようだ」
声に反応して顔を上げると、平然と敵が立っていた。本気で蹴った蹴りも、まるでダメージになどなっていないように見える。
「だが、足りん。この程度、なら俺の世界にも、いた。もっと、力を見せろ!」
敵がものすごいスピードで跳躍する。
「く!」
弾丸の如き勢いの突撃を、すんでのところで横っ飛びにかわす。ようやく目は慣れてきたが、それでも反応するだけで精一杯だ。体勢を立て直し、すぐに振り向く。敵もすでにこちらを向き、足を折り曲げて今にもこちらに飛びかからんとしていた。
しかし、これこそ好機。
(あの足は確かに前や上に飛ぶには都合がいい。でもその分、勢いを殺す事は苦手なはず)
あの関節の形では前に踏ん張れない。突っ込んだら最後、地面との摩擦で減衰させるか、体を反転させて踏ん張るしかない。そこに隙が生まれる。
チヅルはわざと体勢を作るのを遅らせた。敵の油断を誘うためだ。今飛びかかればこっちは成す術がない。そう思わせる。
敵はチヅルの思惑に見事はまった。より一層足を折り、全力でこっちに跳んできた。
すぐに、チヅルはハンマーの柄を長く、ヘッドを小さく変形させた。これで振り下ろせば、最大の威力で一撃が決まる。
「はあああああぁ!」
全身全霊の力を込めて、チヅルはハンマーを振り下ろす。タイミングはドンピシャ。チヅル最強の一撃が、カウンターで飛び込んできた敵の頭上に迫る。
鉄槌が敵を捉えた。衝撃が柄を通して伝わり、間違い無く命中した事をチヅルに伝えた。だが何かおかしい。砕いたという感触が伝わってこないのだ。
「ぐ、ぬうう」
「そんな……」
チヅルは目を疑った。敵は、チヅルのハンマーを両手でしっかりと受け止めていたのだ。その威力は、ジェフェリーのカークファングブレイドに匹敵する、いやそれ以上の会心の一撃だったはず。チヅルの心に動揺の波紋が広がっていく。
動揺は判断を鈍らせる。チヅルは武器を掴まれているのも忘れたまま、その場に立ち尽くしてしまった。
「重い、な。だが、ぬるい!」
「あ!」
気付いた時にはもう遅かった。ハンマーをぐいっと引かれて、柄が手からすっぽ抜けてしまった。
奪ったハンマーを、敵が離れた場所へぶん投げる。鋭い風切り音を響かせて回転しながら飛んでいき、壁に激突した。瓦礫が飛び散り、ハンマーは壁に刺さって、墓標のようにそそり立つ。
圧倒的な力量差。それを目の当たりにさせられ、チヅルは戦慄した。
今まで、チヅルに力で勝った者は誰もいない。それはロストブックの住人のような人外でも例外ではなく、1対1の真っ向勝負であれば、どんな相手でも力でねじ伏せた。それが今、初めて自分よりも強い相手と出会ってしまった。自分の全力を易々と凌がれ、それまで培ってきた自信とプライドは粉々に打ち砕かれた。
(だからって……諦めるわけにはいかないのよ!)
気圧される自分を叱咤し、必死に奮い立たせる。心は今にも折れそうで、無意識に後ずさりしようとしてしまう。武器だって捨てられてしまった。それでも、チヅルは逃げない。構えを取り、戦意が削がれていない事をアピールする。
敵はチヅルの姿勢に驚く事は無く、むしろ当然といった表情をしていた。
(まずは先手を)
相手の速さは殺人的だが、動きは直線しかない。右へ左へとかく乱するように動けば、相手は狙いを定めづらくなる。チヅルは軽い足捌きを見せながら、敵に素早く近付いていく。
チヅルの軽快なフットワークに狙いが定まらないのか、敵は一歩も動けずにいた。
「は!」
素早くチヅルは右から回り込むと、下から拳を突き上げる。当たれば悶絶もののボディブローだ。ジェフェリーなど、これでどれだけ血反吐を吐いたか分かりはしない。鮮烈な一撃は確かに相手の脇腹を突き刺した。
だが、チヅルは気付いていなかった。そもそも、近付く事こそが愚策という事に。
「武器、がなければこの程度、か?」
ぼそりと、不満と怒気が入り混じった声色で敵が呟く。
確かにチヅルの拳は相手に当たった。だが、ただそれだけだった。拳は少しも相手に減り込まず、全くダメージを与えられている様子が無い。
「こ……のおおおぉぉ!」
チヅルの凄まじい猛打。頬に、顎に、肩に、腹に。ありとあらゆる場所に拳を叩きこんでいく。だが、敵は微動だにしない。真っ直ぐチヅルを睨みつけたまま、仁王立ちで甘んじて全ての攻撃をその身に受ける。
「……つまらん」
ひどく不機嫌な声色でただ一言、ぼそりと敵が呟いた。
「……え?」
次の瞬間、チヅルはわけも分からず、その場に倒れ込んでいた。続いて襲い来る耐え難い嘔吐感。
「げ、ほ! ごほ、ごほ……ぐえ!」
一度咳き込んだらもう止まらなかった。一つ咳をするごとに流れ出してくる、胃液の入り混じった血液。それを床に散々ぶちまけ、どす赤黒く染め上げた。
「う……ぐ、お……」
床にだらしなく寝そべったまま、チヅルは立つ事が出来ない。体中に今まで味わった事の無い、苛烈な痛みが走り続ける。まるで、全身を一瞬で、ずたずたに引き裂かれたようだった。
チヅルは気付かなかったが、敵はほんの僅かの間に、チヅルの体中に何十発もの打撃を叩き込んだ。そのどれもが、チヅルが叩き込んだどの一撃よりも遥かに重い。普通の人間なら確実に即死している。
「これ、で終わらせる」
敵が右拳を振り上げた。これをチヅルの頭に振り下ろせば、確実に頭蓋は砕け、チヅルは絶命する。
「1つ、だけ……聞、かせて」
懇願するように、チヅルは右手を天に仰ぐ。
「あの子は、もうすぐそこにいるの?」
「……この部屋、を出てすぐ、だ」
「そう」
そう呟くチヅルの声には、計り知れない嬉しさが滲み出ていた。後少しでスーに自分の声が、手が届く。考えただけで心が震えた。
しかし、それが叶う事は無い。後数秒で、チヅルの命はここで終わってしまう。
「終わり、だ」
無常に冷徹に。死の鉄槌が、チヅルに向かって振り下ろされた。
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