第27話 古沼に住まう海鼠(後編)

 その姿からまず連想されたのは、ヒルの化け物。だが、それにしては体がずんぐりむっくり過ぎる。太長いボディは黒ずんでおり、その表面には血管のような赤い線が幾重にも走っていた。


「勘弁してよ、ここにはこんなのばっかしかいないの?」


 チヅルはうんざりしたように愚痴る。どうやらチヅルはこの手のグロテスクなものは苦手なようだった。


「まあそう言うなよ。こいつがこの世界の主、トリピングだ。とりあえず、さっきの議論は後だ。今はこいつを倒す事に集中しよう。こいつの……」


 ジェフェリーが敵の特性を語ろうとした時、既にチヅルはトリピングに向かって走り出した。


「ようするに、ぶっ叩いて動けなくすれば良いんでしょう? それならいつもと変わらないわ!」


 チヅルはハンマーを振りかざして先制一発。全身の力を込めてトリピングに振り下ろす。鈍重そうなトリピングは避けようともせず、モロにチヅルのハンマーを全身で受け止めた。


「げ、何これ!」


 その衝撃がトリピングに響く事は無かった。ハンマーが相手に当たる瞬間、トリピングは表面に緑色の透明な粘液を出したのだ。チヅルは驚き慌てふためく。

 その粘液はハンマーの衝撃を完全に吸収し、さらにハンマーを絡め取った。チヅルはそれを抜こうとするが、まるでびくともする様子が無い。


 必死にチヅルが抵抗する中、トリピングはその巨体に似合わない高さで垂直に飛び上がる。


「ああくそ、言わんこっちゃない!」


 チヅルはハンマーの柄を握り締めていた。ゆえに、その体はトリピングと同じように空へと上がってしまった。このままではトリピングと一緒に水の中へ引きずり込まれてしまう。

 ジェフェリーはカークをワイヤーに変化させ、チヅルに向かって伸ばす。そしてその足に絡ませると、力一杯引っ張った。


「きゃあ!」


 その力に柄を手放したチヅルが、ジェフェリーに向かって一直線に落ちてくる。

 このままの速度で受け止めれば、両者にダメージは免れない。

 そこでジェフェリーは、しなやかだったワイヤーの強度を徐々に上げ、その勢いをしなやかに殺していく。そして最後には、くの字に曲がったワイヤーに、チヅルが逆さ吊りになる形となった。


「ちょいと軽率過ぎるぜ。人の話は最後まで聞きましょう。お兄さんとの約束だ」

「……分かったから早く降ろしてよ」

「いやいや、こういう斬新な眺めもなかなか……」

「いいから、早く降ろせって言ってんのよ!」


 じたばたと癇癪を起こすチヅルにへいへいと小声で呟き、ジェフェリーはゆっくりと葉の上に降ろす。

 と同時に、トリピングが空から落ちてきた。葉の何枚かを体の粘液に付着させながら、また水の中に潜ってしまった。


「逃げたの?」

「いや、どう見ても不利なのは俺達の方だ。あいつは賢いぜ。確実に勝てる方法で仕留めにくるつもりなんだろう。まあ、チヅルは武器を奪われちまって、事実上戦力外通告だな」


 その言葉にギリギリとジェフェリーを睨みつけるが、何も言い返す事は出来ない。行動が軽率すぎたと分かっているのだろう。いつも馬鹿だと罵られているジェフェリーにとって、その表情はなかなか心地良いものだった。しかし、今はそんな事をしている場合ではない。


「だが、今のお前にもやってもらえる事があるぜ。タンクをあいつに貼り付けてもらいたいんだ。それぐらいならできるだろ?」

「あんたはどうするのよ?」

「俺はもちろん囮。カークを纏った俺の逃げ足は世界最速だぜ? そんじゃ頼んだ!」


 言うが早いか、ジェフェリーは一際高く跳ぶ、チヅルから離れた1つの葉の上に勢い良く着地した。衝撃で葉全体が大きく振動する。これで、この葉の上にジェフェリーがいる事は、あのトリピングに伝わっているはずだった。


 すぐにその効果は現れる。先程の振動とは違うざわめきが、ジェフェリーの乗ってい葉の中心に起こり始める。このままここにいては危険と、ジェフェリーはすぐにそこから離れた。

 間髪入れず、先程ジェフェリーが立っていた場所から、トリピングが突き上げるように姿を現した。その巨体には、びっしりと葉が纏わり付いている。


(ちっ。隙間がほとんど無い。これじゃ、タンクをひっ付けるのは厳しいか。あれらをなんとかするしかないな)


 だがその一方で、この状況は好機とも言えた。

 あの葉は浮力が非常に強い。現に、巨大なダライアやトリピングが上に乗っても、沈まずにそれらを支えている。水の中に逃げられれば、こちらから手を出す事は難しかったが、葉があれだけ大量に絡み付けば、おそらくもう水には潜れないだろう。この利点は大きいものだった。


 不意にリピングがぶるっと身震いした。どうしたのかとジェフェリーが見ていると、トリピングの先端が8つに裂けて開く。中から円形に並んだ鋭い歯が現れた。

 そこから、何か黄色い細長いものがジェフェリーに向けて発射された。それらはジェフェリーを絡めとろうと、1本1本軌跡を変えて襲い掛かる。それは、ダライアを水の中に引き摺り込んだあれと同じものだった。


 ジェフェリーは素早く反応した。カークをブーツに変え、トリピングを左から回り込むように走る。

 だが触手の動きは早い。その1本がジェフェリーの足に巻き付いた。しかし、ブーツからカークの首が生え、触手を食い千切る。触手の切り口から、黒い体液が流れてジェフェリーに付着した。


 触手との距離を引き離したところで、今度はトリピングへと一直線に進路を変える。触手はジェフェリーの背を追うが間に合わない。あっという間にジェフェリーはトリピングの至近距離に近付いた。


 トリピングとぶつかる瞬間、ジェフェリーはトリピングを飛び越す形でジャンプした。そして、空中でカークをブーツからワイヤーに変化させる。

 先程とは違い、ワイヤーの表面には毛のような棘がびっしりと付いている。それを鞭のようにしならせ、張り付いている葉に棘を引っ掛けるようにして何度も切り裂いた。


「くそ、固え!」


 反対側へ着地を決めたジェフェリーは思わず毒づく。予想以上に葉の弾力が強く、思うように切れなかったのだ。おかげで、上部の葉を全て排除するつもりが、半分程度しか切り裂く事が出来なかった。

 だが、それでも十分に効果はあった。切り裂いた葉の隙間から、あの粘液が染み出してきた。この状態なら、タンクを投げつければ容易く貼り付ける事が出来る。


「チヅル、今だ!」

「分かってるわよ!」


 ジェフェリーが声をかけるより早く、チヅルはトリピングの頭上高く飛んでいた。手に持っていたタンクを、そこからトリピングに向かって投げ下ろす。

 チヅルの怪力で放たれたタンクは重力も手伝い、隕石の如く落ちていく。そしてバシャという爆ぜた音と共に、上面の前側にびったりと張り付いた。


「よし!」


 ジェフェリーは思わずガッツポーズを取る。これで片方はセットされた。後は反対側にでももう1つ付けられれば、準備は万端となる。

 だが、その成功が一瞬の油断を生んだ。空中にいたチヅルの足にトリピングの触手が巻きついたのだ。


「うそ!」

「チヅル!」


 チヅルとジェフェリーは同時に声を上げる。その触手は、先程ジェフェリーが葉に付けた傷の間から伸びてきたものだった。


「くそ、触手は口からしか出せないんじゃなかったのかよ!」


 すぐにジェフェリーはチヅルを助けに行こうとカークをブーツに変える。だが、トリピングを取り巻く触手はさらに数を増し、まるでイソギンチャクのように逆立ち、チヅルの姿を遮っている。


「チヅル、なるべく抵抗しろ! 絶対に食われるような隙を見せるな!」

『んな事分かってるわよ! 誰が大人しく食われるもんですか!』


 姿は見えないが、チヅルの気丈な声は確かに聞こえた。それを聞いて、ジェフェリーは少しだけ安堵する。あの手のものは苦手のはずなのに、チヅルはまだパニックに陥ってはいない。巻き付く触手を引き千切るなりして、抵抗してくれるはずだ。だが、それも長く続くとは思えない。


 悠長にしている時間は無かった。ジェフェリーは右手からワイヤーを伸ばすと、離れた所に置いてあったタンクを、こちらへ引き寄せる。


 実はもう1つ問題があった。それはこの世界にいる事が出来る制限時間である。制限時間は1時間。だが、もうすでに30分強経っている。一刻も早く片を付けないと、目的の物を手に入れる事無く帰る事になってしまう。

 だからもう、チヅルを助けてサポートに回らせる時間さえ惜しい。ジェフェリーはチヅルが何とか抵抗している間に、このタンクを貼り付けなくてはならない。


「チヅル、ちょっとだけ我慢しててくれよ。すぐに何とかしてやるからな!」


 チヅルに向かって励ましの言葉を投げかけ、ジェフェリーはトリピングに向かって突貫した。


 既に上部にはタンクが設置されているが、その上にはチヅルがいるので使えない。狙うは側面。まだ葉を破いてはいないため、粘液で付着させる事が出来ない。だが、今はその時間さえ惜しい。要は至近距離で爆発させれば良いのだ。


 近付くジェフェリーに気付き、トリピングは口から触手を出してジェフェリーへ迫る。だが、ジェフェリーは逃げない。触手の隙間を間一髪ですり抜けていく。

 その内の何本かはジェフェリーに絡みつく。だが、それだけでは止まらない。引き戻そうとする触手を全力で引っ張りながら、一直線にジェフェリーは、トリピングの側面へ到達した。


「カーク、耐えてくれよ。いくぜ!」


 ジェフェリーは右手に持っていたタンクを、直接トリピングへ押し付ける。そして右腕に、カークがジェフェリーを覆い隠すほどの巨大な盾を出現させた。

 左手が懐に伸びる。そこから現れたのは、赤い2つのボタンが付いている銀色のリモコンだった。ボタンの1つ1つには、透明のカバーが取り付けられている。ジェフェリーは右側のカバーを外し、ぐっと押し込んだ。


 瞬間、押し付けていたタンクが白い閃光を撒き散らして爆発した。その炎はトリピングを覆っていた葉にまで燃え移り、ジュウジュウと水分を蒸発させながら、側面をこんがりと焼いていく。


「キィギャァァァ!」


 初めてトリピングが、耳をつんざくほどの金切り声を上げた。よほど辛いのだろう。水の中に逃げれば良いのに、パニックでそれに気付かないのか、体をくねらせてどうにか火を消そうとしていた。だが、全く消える様子は無い。


 一方、ジェフェリーは爆発の衝撃で吹き飛んでいた。葉の上をごろごろと転げ、100メルセルク超離れた所でようやく停止した。


「う……く。カーク、大丈夫か!」


 ジェフェリーは軽い脳震盪で揺らぐ世界の中を気力で立ち上がると、自分の体より先に、爆発から守ってくれたカークの状態を確認した。


 メタグレームの爆発は相当のダメージだったようだ。爆発の後、カークは全身を覆う鎧となって、ジェフェリーを吹き飛んだ際の衝撃から守ってくれていた。だがその形状はみすぼらしいほどにボロボロで、あちこちに大きな焦げ跡が見られた。ジェフェリーは鎧となっているカークを労わるように優しく撫でる。


「ありがとな、カーク。でも、あともう少しだけ踏ん張ってくれるか?」


 ジェフェリーは少し遠慮がちに問いかける。カークはそれに答えず、代わりに鎧からブーツへと姿を変えた。


「……ああ、そうだな。やるぜ相棒、最後の総仕上げだ!」


 ジェフェリーとカークは一心同体。その絆の強さを改めて確認したジェフェリーは、思わず笑みがこぼれた。


 ジェフェリーは、トリピングの方へ向き直る。未だトリピングは苦しげに身をくねらせている。トリピングの頭上で密集していた触手がばらけ、少しだけチヅルの姿があらわとなっていた。


 今ならチヅルを救える。そう判断すると、カークをワイヤーに変化させ、チヅルに向かって勢い良く伸ばす。狙い通り、ワイヤーはチヅルの手首へと巻き付いた。

 手首に巻き付いたワイヤーが、徐々に何かを形作っていく。最初は4足の何か。それがだんだんと大きくなり、カークの姿が現れた。

 だが普段よりも若干小さい。全てを体の構築に使わず、尻尾を細長いワイヤーにして、ジェフェリーの手に繋いでいたからだ。

 カークはチヅルの体の上を足場に歩く。そして、体に巻き付いていた触手を残らず食い千切ると、再びワイヤーのみの存在へ形を変え、チヅルの胴体に巻き付いた。

 ワイヤーが強い力でチヅルを引き付ける。宙に浮いたチヅルは僅か数秒後、ジェフェリーに抱き抱えられる格好となっていた。


「助けに参りましたよ、姫。どこかお怪我はございませんか?」

「……あんたにこんな形で抱かれてるのが気分的には最悪だけど、その、ありがとう」


 俯き加減で徐々にか細く、最後には消え入りそうになる声だったが、そのお礼は確かにジェフェリーに届いた。

 ジェフェリーはゆっくりとチヅルを降ろす。


「後は俺とカークで十分だ。チヅルはここで見ていてくれ」


 武器を失っているチヅルでは、もう何も出来ない。それを理解しているチヅルは小さく頷く。


 ジェフェリーは懐にしまったリモコンをもう一度取り出す。そして、今度は左側のカバーを外し、ボタンを押し込んだ。

 大爆音が周囲に轟き、トリピングの背から5メルセルクはあろうかという巨大な火柱が上がった。ようやく火の気が落ち着こうとしていた矢先の爆発で、さらにトリピングは悶え苦しむ。


 だがこれだけではまだ決定打とならない。火はトリピングを覆っている粘膜を除去するが、それだけでは気絶させる事が出来ない。

 ジェフェリーは最後の一撃を決めるため、一際高く大空へ飛び上がった。空へ昇りながら、両手を天にかざす。その両手から、片刃の肉厚な刀身を持つ大剣が姿を現した。峰は煌くワインレッド。刃に近付くにつれて、その色味は白銀へと近付いていく。形は大きく反っており、峰には3つの噴射口が取り付けられていた。


「いくぜ、必殺! カークファングブレイドォォォ……」


 噴射口から白炎が噴き出した。その力を受け、ジェフェリーは車輪のごとく回転して落下する。その様はさながら流星の如く。白い尾を引きながら、凄まじい勢いで加速していく。


「大! 円! 斬!」


 その勢いのまま、刀身をトリピングへと叩きつけた。衝撃で大気が震え、下の水は大時化のように荒れ狂う。その影響を受け、葉は荒れ狂う嵐の中に浮かんだ小さな小船のように大きく揺れた。


 強烈な一撃を食らったトリピングは、寒気がするほど喜色悪い音を立てて、その口から何かを吐き出した。それは先程食べたダライアのどろどろに溶かされかけた死体だった。


 それきり、トリピングはピクリとも動かなくなった。もう動き出す様子は無い。ようやく倒す事が出来たのだ。

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