誰もいない世界を否定する

六郷ろくごう宗弦そうげんの顕現と時を同じくして、現実世界のボトムは抜けた。


六郷の家のみならず、世界の各地で地面を割って漆黒の【無】が噴出していた。水風船に細い針で穴を開けたように、あるいはコップから水が溢れ出すように。あらゆる生命を、そして生命なき構造物を――そこにある存在を、ことごとく無に帰していった。


世界は【完結】に向かう。



◆◆◆◆◆



六郷の屋敷。


黒い影を見上げ、僕が唸るように吐き出した言葉は複雑な感情を帯びていた。


「生きて……いたのか」


瞳も表情も存在しない黒い影はゆらりと揺れる。


「生命体としては既に終了している」


僕にはまるで、それが笑みを浮かべたようにも感じた。


六郷われわれは……純然たるに過ぎない。そも、我々に生死という概念はない。形と自我を持ち、人間として世代を重ねるうちに、我々自身もそれを忘れていたが……」

「……何を言っているんだ?」

「夜介、ひとたび【ボトム】に沈んだお前であれば理解できるだろう」


父の姿をしたものは、重い音を発して僕の鼓膜を震わせる。いや、もしかするとその音は、僕の頭に直接響いているのかも知れなかった。


「先程の男は愚にもつかぬ芥子粒けしつぶであったが――が発動させた【トップ】は本物だ」


はじめ僕は――その「あの娘」という言葉は、部屋の中に倒れているメルトを指したものと思った。だがすぐに、そうではないと悟る。この影は、ゆかり姉ちゃんのことを云っている。


眼の前の黒い影と対になる存在。闇と正反対の性質をもつ、輝かしいもの。


先生の記憶を覗いた僕は、【ボトム】の虚無こそが並行世界のカーネルであり、【トップ】により創造される白黒の世界は核を覆う外殻シェルであることを理解していた。ATPI というプロトコルは、六郷の血族と同等の【フレーバー】を持たない者たちにも、シェルを通じてカーネルへのアクセスを可能にする技術であった。


これまで並行世界リバースの中心にあるどろどろとしたボトムを押し留めていたものは、ゆかり姉ちゃんが【トップ】によって創造したモノクロの薄皮であった。


「あの分家の娘は六郷という人間のまがい物でありながら、自らの感情に突き動かされた。あの男ヒラサカに従属することを選び、そして十四年前の夜、我らの【完結】を妨げた」


ゆかり姉ちゃんの感情が、比良坂の方に傾いてしまったこと。そればかりは父の計画の外に位置していたのだろう。父にとって、自らを【純然たる現象】と呼ぶこの無機質な存在にとって、人間の感情という不確かなものに左右される戦略は「賭け」以外の何物でもなかった。


そして「賭け」に負けた六郷の家は焼き捨てられ、どろどろと蠢くあの【黒い液体】はモノクロの世界の奥底へと追いやられた。


「我々は十四年に渡り、並行世界のボトムに封印されていた。だが、ようやく……六郷われわれの【完結】が始まる。夜介。お前は殻を破り、あの夜を続けることを選択した」


湖の薄氷の上で遊ぶ無知な子供のように、人々は ATPI を利用して薄皮の世界を奪い合った。ゆかり姉ちゃんが同化したことでやっと形を保っているだけの、脆い並行世界を。

だからこそ先生はメルトを守りながら、同時にリバースが壊れないように守り続け、十四年のあいだ、すんでのところで【無】が現実世界を侵食しないように食い止めていたのだ。


それをにしたのは何か?


僕だ。


僕は【ボトム】の本質に気が付いていなかった。あれは、道具として使っていいような代物ではなかった。あの天才、一を聞いて十を知る百合崎花が初めて【ボトム】を眼にした時、彼女は何と言っていた?


――【ボトム】は無を司る? ……どうも、少し違うみたいですね。あなたはいま並行世界の奥底ボトムから、を引き出した――


そうだ。僕は白黒の世界という薄皮を破って、黒い帰無の斬撃――リバースティック・エフェクトを、地面から引き出した。何度も何度も、弱々しい卵の殻にヒビを入れたのは、ゆかり姉ちゃんが命を賭して創造した守護を破壊したのは、他ならぬ僕自身であった。


全身の力が抜けていく感覚。


「僕のせい、なのか……」


それに答えたわけではないだろう。父の姿をした影は、淡々と僕の名を呼んだ。


「夜介」


確固たる事実を告げるように。静謐なる重さで、その影は言葉を落とす。


「――!」


どくん、と心臓が跳ねる。弾かれるように顔を上げた僕は、その黒い影の、顔にあたる部分の闇を凝視した。


はるか高みに座す主人であり、大いなる絶対者であり、逃げることも眼を背けることも叶わぬ存在であるはずの父が――正面から、


ただその現実のみがすべての理性を飛び越えて、僕の脳髄を貫き通す衝撃をもたらした。


「何者も存在しない世界への渇望――個を捨て、世界そのものたらんとする欲求。世界に回帰したいという切望。六郷の血の行き着く先はそこにしかない。それはすべての生命が有する原始の本能であり、最後に還る場所でもある」

「……」

「お前は、世界を【完結】させることができる」


世界を完結させること。先生の記憶の中、幾度となく語られたその言葉は、いま現実となって僕の眼前に現れた。完結の担い手は他ならぬ僕自身である、と。


十四年前、僕は【ボトム】に適性があると語った父を思い出す。僕と父は、ともに【ボトム】に適性がある、と。だから一時的にことができる、とも。


……何のために?


「お前は、私のバックアップとして必要だった」

「……バックアップ、だと?」

「そうだ」


黒い影の表面が、わずかにゆらりと動く。


「私の代における【完結】が理想であった。だが、それが叶わぬ場合に備えてお前をした。十四年前の夜、まだ人間としてのを失わぬように六郷われわれから分離させておいたのはそのためだ。果たしてお前バックアップは十全に機能し、こうして――再び我々を地上へと呼び寄せた」


呼び寄せた。


僕が。


世界を【完結】させる、この果てしない暗闇を。地の奥底から呼び戻してしまった。


(……)


目眩。頭の奥ががんがんと痛んで、吐き気がする。


「夜介。お前が、この世界を【完結】させるのだ。世界に存在するすべての生命、形あるものをボトムに沈めることができるのは、私とお前だけなのだから」

「……」

「そして……」


父の言葉に誘われるように。悪い夢を見ているような心持ちで、僕は呟く。


「僕は、それを望んでいる……」


父の姿をした黒い影は肯定するように、あるいは僕のすべてを覆い隠すかのように、その表面を波打たせた。


夜のボトムから響く音は、果たして僕と影、どちらの言葉だったのか。


「「誰もいない、世界を……」」


その音は黒の中に吸い込まれるようにして、小さくなって、消えた。


空間に静寂が満ちる。


僕は自分の手のひらを見つめる。開いて、閉じる。そこには何もない。この手の中には何ひとつ存在しない。それでいいのだろうか。何もないことが終着点であり、だからこそ僕は世界のすべてを、何もない地平に引きずり落とす力を――ただそれだけを、持っている。


(……)


――そのとき僕は、父の足元から黒い影が広がってゆく光景を目にした。


するすると。


【ボトム】フレーバーの司る闇が、僕ではなく、メルトの身体へと伸びてゆく。


(……あ)


その光を映さぬ漆黒は音もなく広がりながら二次元平面を走った。そして無慈悲な喪失の暗闇が、倒れているメルトに喰らいつこうと――


――瞬間。何か考える前に、僕の身体は勝手に動いていた。


「……っ!」


畳を蹴る音は、鈍く爆発するような響きを伴っていた。爆発音は僕の足元からである。次の刹那、僕の姿は既にそこにない。


どずん、と、二人分の体重が屋敷の壁を揺らす。


「――痛っつ……」


思わず声が漏れる。僕の腕の中には、力なく呻くメルトの身体がある。僕は彼女の身体がどこもボトムに侵食されていないことを確認すると、胸を撫でおろした。


僕の両脚は白い光を纏っている――【アップ】のフレーバーによる脚力の強化である。僕は【アップ】を利用して瞬間的に加速し、二次元の黒い液体に飲み込まれようとしていたメルトをギリギリのところで抱き上げて、そのままの勢いで壁際まで離脱したのだった。咄嗟の、それも初めての【アップ】を使った加速であったために、壁に激突する形で停止することになったのはなんとも情けない。


そして水仙が語ったように、確かに現実世界でもフレーバーの力が発動できるようになったらしい。


さっきまでメルトが身体を横たえていた場所には、二次元の闇がずぶずぶと蠢いている。その波紋は、まるで餌を求めてのたうっているようにも見えた。


憤怒も愉悦も悲哀も何もなく、黒い影は声を響かせる。


「夜介。には……もう価値がない」

「……価値?」


僕は腕の中にいるメルトを――いや、両親から与えられた「比良坂みのり」という名を持つ少女を見下ろした。


「それは、ゆかりと呼ばれた分家の娘ではない。その身に宿したこうの力は確かに膨大ではあったが、愚かにも神になろうとした先の男に吸い尽くされている」

「……」

「既にには何もない。何故、救おうとする?お前の血が求めるものを思い出せ。……感情に、惑わされるな」


感情に惑わされている……そうだろうか?僕自身、自らの行動を説明できなかった。ただ、そうなるのはいやだと思ったから、抵抗をした。わかることはそれだけだ。


僕は小春を助け、メルトを助け、花さんを殺すこともできなかった。何もできずに、どこにも行けない。それどころか僕自身、彼女らに何度も救われてここにいる。


たとえ何一つ、価値も意味もないとして。六郷による世界の【完結】はすべてを塗り潰すことがゆるされるのか?


(……いや)


六郷は世界そのものを無に帰そうとする。そこには「先生」のような切実な目的もなければ、水仙のような野望も存在しない。六郷にこそ、意味も理由も存在しない。


ただ林檎が木から落ちるように、あるいは氷点下で水が氷と化すように――純然たる機構システムであり、意志の伴わぬ法則ルールである。六郷の起源オリジンがそこにあるのだとすれば、それは人間が戦い続け、克服し続けてきたものに他ならない。


「……」


僕はもう一度、メルトの顔を眺める。このちっぽけな存在は、軽くて透き通っていて……今にも世界の重圧に潰されてしまいそうな危うさを孕みながらも、確かに生きている。それ以上に、どんな価値が必要だろうか?


(僕は……)


僕はメルトの身体を横たえると、彼女を守るようにして、父親の形をした黒い影を見据えて立ち上がった。対峙する黒は果てしなくおおきく深く――それでも。


――


僕は周囲に【チャーム】の光球を浮かべると同時に、両手両脚に【アップ】の光を纏わせる。


対峙する黒い闇は、六郷ろくごう宗弦そうげん――父親の声で空気を震わせた。


「夜介。六郷われわれを否定するか」

「……そうだな」

「その道は行き止まりだ。世界は既にボトムに侵食され始めている。我らの【完結】を止めることはできない」

「だから――見殺しにしろってか!」


僕は叫びながら、人型の闇に向かって【チャーム】の光球を打ち出す。破壊の力を秘めたその光は、どぶっ、という鈍い音を立てて黒い水面に飲み込まれた。


無駄か。


僕は【アップ】の脚力で身体を加速させる。心の奥底で警告をあげる怖れを捻じ伏せ、黒い人影に向かって駆ける。あの人影に攻撃が通るのか、そもそも干渉することができるのかすら不明だ。それでも不可能かどうかは……やってみないと、わからない。


と、しゅるしゅると畳を這って接近した黒い影が目の前で立ち上がる。僕の行く手を阻む漆黒は、意志を持つかのように腕を広げて、僕を飲み込もうとする。


「――っ!」


僕は横手に飛んで、襲いくる漆黒から逃れようとした。


が、わずかに遅い。


波の勢いを弱めようと、僕は【チャーム】の光球を……


(……違う)


それでは、だめだ。


先程のようにすぐさま光球が飲み込まれてしまう未来を想像して、とっさに【ダウン】の黒盾を張り巡らせる。傘のように展開された【ダウン】の盾は黒い波を受け止めた。


――よし、防げる。


だが、息つく間もない。足元から黒い影が伸びてくる。僕は【アップ】で強化した脚力で跳ねて距離を取った。……これでは、近付けない。


「……無駄なことを」


影の声が頭蓋を揺らす。


これが無駄かどうか判断するまでに、まだ出来ることがある。半分自棄やけになりながら、僕は再び【チャーム】の光球を生み出して、影の頭部と思しき場所に連続して打ち込む。どぷっ、と、光球は黒い水面に飲み込まれる。それを何度か繰り返すうちに、わずかに影の輪郭がブレたように感じた。


だが黒い影が発する言葉には、いささかの揺らぎもない。


「夜介。無駄だ、と言っただろう」


言葉の静けさと相反するように、影の攻撃性が牙を剥いた。メルトの横たわる床が沸騰するようにぼこぼこと湧いたかと思うと、次の瞬間には漆黒の鋭い円錐が突き上げられる。


「……っ!」


僕は再びメルトの身体を抱えて、地面より突き上がる破壊から遠ざかる。


かせを捨てろ。お前には必要ない」


何に逆らっているのか、どこを目指しているのか。僕が手を下さずとも世界は【ボトム】に侵食されるであろうと、影は語った。もしそれが事実であれば、確かに、この抵抗も無駄な足掻きなのかも知れない。


(それでも……)


それでも、僕はこうせずにはいられない。


たぶん、僕は認めなければならないのだ。案外、誰かのいる世界が好きだということを。


「ならば、知るがいい」


そう云って黒い影は腕を広げる。


その瞬間、大地はひっくり返った。……いや、そのように感じた。


屋敷の部屋の中、見渡す限りの床を割って、黒い【ボトム】の波が噴出していた。地という地が黒に染まり、現実世界を侵食する。六郷の屋敷は黒に飲み込まれ、地響きを立てて倒壊していった。


「お前が守ろうとする世界など、いとも容易たやすく崩れ去ることを」

「――っ!」


再び……十四年越しに、僕の生家は崩壊してゆく。その光景に思うところがなかったわけではない。だが今だけは、腕の中にいるメルトを守らなければという考えで頭がいっぱいだった。僕はメルトの身体を抱えたまま【ダウン】の盾を展開し、建物の瓦礫から身を守る。


――と、僕の足の感覚が、突如、


視線を落とした僕が眼にしたのは、黒い【ボトム】の沼に、僕の足首までがどっぷりといる光景だった。


「……う、ああああ!」


黒い水たまりに飲み込まれた足先は、冷たいような温かいような、いや、まるでそこに何も繋がっていないような――感覚が、背筋を這い登ってくる。


自身の喪失に意識を奪われたその瞬間。闇のとばりの向こう側から、あるいは地の底から、遠大えんだいなる絶望を伴って父の声が響いた。


「――終わりだ、夜介」


四方から、容赦のない【ボトム】の攻撃が迫りくる。


目の前に迫る消失を直視することができず、僕は目を閉じて――

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