最後に「何もない」だけが残る

まばゆい白光を背負った水仙は、両手を顔の前にかざし、興奮を抑えきれないように肩を震わせた。


「はは……ははははは!!素晴らしい……!」


ピクリとも動かないメルトの身体を視界の隅に収めつつも、僕は眼前の水仙の変貌から目を離せずにいた。


「世界をもう一度創造できるほどの力……。これさえあれば」


息苦しいほどに、光が空間に張り詰めている。花さんは空間に光球をばら撒くことで敵の動きを制限していた。これはその強化版、とでも言えるだろうか。身体を 1 ミリでも動かせば切り裂かれてしまいそうな緊張に、瞬きすら躊躇われた。


僕は呟く。


「野望、と言っていたのは……それか」


水仙は目を細めてこちらに視線を向ける。つい先程まで穏やかな笑みを浮かべていた口元は、悪意と侮蔑に歪んでいた。


「ええ。ここまで来れば、人として生きてきた時間に関係はありません。だからこそ何十年も待つことができました。この枯れた命が尽きるまでにたどり着けばよいのですから。夜介様。お膳立てして頂いたこと、感謝しますよ」


口調だけは慇懃無礼さを崩していないが、そこには、これまでの老紳士然とした空気とはまったく異質の刺々しさが含まれている。


「生まれながらの、六郷の血だけが絶大な力と価値を持つ新世界……そんなものは許されない。世界のすべてを私のこの手で切り開かなければならない。血筋も才能も限界を決めるものであってはならない。何もかも、思い通りになるべきなのです」


水仙は手を僕に向ける。


「メルトを使ってあなたを【ボトム】の海から引き上げさせたのは、新世界に六郷の血が混ざることを避けるためですが……それ以上に、持てる者がゴミのように死ぬ最後を以て新たな門出と――」


――その瞬間。


真っ白な輝きの中で、水仙の足元が黒に淀んだように見えた。


「……?」


水仙が饒舌に語るその口を止めて怪訝な表情を浮かべたのは、ほんの一瞬。


次の瞬間には、と音を立てて、水仙の下半身が黒い淀みの中に沈み込んでいた。


「――なっ!?」

「……!」


僕はこれを知っている。僕自身が適正を示した【ボトム】のフレーバーである。


だが、


「何だこれは……!」


底なし沼に足を踏み入れたかのように、水仙の身体はと【無】の中に取り込まれて行く。


水仙は右手を掲げて、太陽のように眩しい光を拳に集めた。僕は、それを直視することが出来ずに眼を覆う。白光を纏った水仙の拳が、黒の沼の中に打ち込まれて――


――そして、それだけだった。


水仙の全身全霊の一撃を受け止めた黒い沼は、その表面にわずかに波紋を立てただけで、何事もなかったかのようにを再開した。


水仙は右手を沼から引き上げようとするが、叶わない。水仙は最後に残った左手を掲げて、そこに先程よりも強い光を集める。が、どぷんと水面が跳ね、その手は光ごと黒の中に取り込まれる。


ずぶずぶと身体が黒の中に飲み込まれていく。


水仙はもはや優雅さの欠片もない顔を歪め、喚き散らした。


「馬鹿な、馬鹿な馬鹿な馬鹿な馬鹿な馬鹿な!!!こんなものに……」


憤怒と混乱とに彩られた水仙の顔だけが黒い水面に浮かび、怒声を上げる。


「六郷……貴様らァァァ!!!」


――、と。水仙の全身が完全に【ボトム】の沼の中に飲み込まれる。そうして、部屋の中には静寂が戻った。


「……」


僕は黒を見つめている。水仙を飲み込んだ水面はゆらゆらと揺れていたが、それもやがて止まる。


……「先生」の記憶の中。


炎の中でゆかり姉ちゃんの両親を飲み込み、ゆかり姉ちゃんと先生に襲いかかり、そして二人の娘の身体を貫いた【黒い液体】。まるでそれ自体が意志を持つかのような、顕現した【無】。


十四歳の僕は、ゆかり姉ちゃんの手によってその中から助け上げられた。そして、僕はまたメルトによって自ら溶け込んだ【ボトム】の海からサルベージされた。


無力な僕は何度も救われる。


何度も救われて何度でも逃げ出して、それにも関わらず、終わったはずの過去が、燃え落ちたはずの因縁が、世界のボトムからやってきた黒色が――こうして僕の目の前に現れて、何もかもを喰らい尽くす。


そうして最後に「何もない」だけが残る。


「誰もいない、世界……」


それは何かに呼びかけたわけではない。しかし、僕の言葉に呼応するかのように、まるで雑踏の中で不意に名前を呼ばれた人間のように……黒い液体は、とその水面を硬直させたように見えた。


そうして、黒い液体はその体積を「縦方向に」増してゆく。物理現象に逆らうように、液体がゆく。


「……」


底無しの黒は人の姿を形成する。大きな、僕より一回りも大きな男の姿。


僕はその姿に見覚えがあった。その黒いシルエットの「口」に相当する場所から発された声も、もちろん、僕の記憶にあるものに相違なかった。


「夜介」


僕の父親は、無表情と沈黙の仮面を被った暴君であった。

尊大なる父親は、恐怖でもってその仮面の下から世界を支配していた。


「……父さん」


六郷宗弦。


六郷家当主。ただそこに在るだけで絶大な存在感を持つ、僕にとって逃げ出したはずの、燃え去ったはずの過去。十四年前に終わったはずの因縁が、いま再び僕の前に立ち塞がろうとしている。


――そんなことより、


僕は先生の言葉を反芻する。


ラスボス戦のあとに何が待っているのか。決まっている。すべての黒幕との最終決戦だ。

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