朝ごはん食べない?
子供のころから好きな
僕の育った六郷の家は、その純和風の
とりわけ僕は昆布出汁を好んでいた。六郷の家が炎に燃え落ちて長い年月が流れ、自身で料理を作るようになってから……僕は、それを思い出した。そして、かつて僕が口にしていたものはそれなりに値の張る素材によるものであったことを知った。当初はこだわりをもって作っていたものの、一人暮らしも長くなると、
そうして幼少期の記憶を日常に紛れ込ませることは、僕にとってある種の救済であり、そして同時に、何かからの逃避であったのかもしれない。
(……)
いま、澄んだ昆布出汁の香気が僕の覚醒を促している。添えられる香りは、食欲をそそる味噌と……胡麻だろうか。そこに炊きたての白米が加わりさえすれば、他に何もいらないだろう。
とんとんとん、と、軽快なリズムで木を打つ音が響く。まな板の上で食材を切る音。
僕の意識が完全に覚醒する前に、身体は空腹を自覚する。いい匂いだ。そういえば、昨日の夜は何も食べていなかった。あまりにも色々なことがありすぎた。
色々なことはあったが――誰かに朝食を作られる覚えはない。
「……!?」
跳ね起きる。
身を起こした僕の眼前に広がるのは、どこまでも馴染みの光景であった。面白みも何もない、僕の自宅である。申し訳程度のキッチンが付いたワンルーム。見慣れたいつもの光景。昨日を迎えるまでの日常。
いつもと違うことは、キッチンに立つ少女の存在であった。セーラー服姿にエプロンという取り合わせ。両親が忙しくて、仕方なく家事をこなす家庭的なお姉ちゃん、というのが、その最初の印象だった。
少女はちょうど包丁を置いて、火にかけられたフライパンに卵液を流し込んだところだった。
「お。起きた?
アザレアは、こちらを横目に見てそう呟く。左手でフライパンを支え、右手は菜箸を器用に操ってくるくると卵焼きを丸めていく。その手つきは慣れたもので、淀みがない。
――両手?
僕の記憶が確かであれば、アザレアは、ユリ――花さんに、片腕を落とされ、生存が危ぶまれるほどに傷付けられていたはずだ。
僕はそこで思い当たり、布団を上げて自身の身体を確認する。……僕の両脚は、果たしてそこにちゃんと存在していた。
花さんに切断されたはずの両脚。フレーバーという未知の力による破壊を受けて、僕は命が凍えるほどの血を流した。最後に「先生」は僕にコンティニューしろと吐き捨てた。
「……」
眼の前の世界には色がある。アザレアがエプロンの後ろから覗かせるスカーフの赤も、卵焼きのつややかな黄色も、何度その上で意識を失ったか数えきれないベッドの焦げ茶色も、きちんと、僕の眼に色彩を与えてくれる。
――夢? そんな。
どちらが、何が、どこから……どこまでが、夢だ?
呆然とする僕に、アザレアは手を止めないまま声を掛ける。
「おはよう。ちなみに、状況わかってる?」
その声には、彼女と出会った当初の敵意が感じられない。フラットな、というよりも、どちらかと言えば好意に属する色合いですらある。僕はむしろそちらに戸惑いを覚えた。
そもそも、アザレアが僕の家で味噌汁を作っている、というこの状況自体が理解不能だ。
「……いや、わからん。色々と」
「まぁ、とりあえず」
普段めったに付けない部屋のテレビは、とある大学の研究棟で爆発事故があったことを報じている。そこに映るのは、アザレアに導かれて入っていった、あの「高エネルギー物理第二実験棟」である。奇跡的に負傷者は出ておらず、警察は実験中の事故とみて調べを――と、アナウンサが淡々と報じる。
そのすべてを BGM に、セーラー服の少女は手元のフライパンをぴっと指差した。
「朝ごはん食べない?」
◆◆◆◆◆
白米。昆布出汁の味噌汁、具はワカメとキノコと溶き卵。丸いフライパンで器用に形作った卵焼き。ほうれん草の胡麻和え。冷蔵庫の備蓄と、近所のスーパーで買ってきたらしい食材を組み合わせて拵えた朝食は、シンプルながら僕の喉を鳴らすには十分な魅力を放っていた。
アザレアは白米に生卵を割り醤油を回しかけ、いただきまぁす、と、控えめながらもやや弾ませた声で唱える。
僕もそれに
「……卵率、高くない?」
「文句ある?」
「いや……ありがたいけど」
「じゃあいいじゃない。卵好きなの」
「そうなのか。まぁ、僕も好きだよ」
だから、卵は常にひとパックは常備するようにしている。まさかここまで遠慮なく消費されるとは思わなかったけど。
僕は卵焼きを一口かじってそれを味わう。火の通り過ぎていない柔らかな卵に、ほのかな甘み。食の好みが近いらしいことになんとなく嬉しさというか、可笑しさを覚えて呟いた。
「美味い。……卵焼き、甘いのいいよね」
「わかる」
そう答え、アザレアも卵焼きをもぐもぐと頬張った。口の容量が小さいのか心持ちハムスターのように頬が膨らんでいて、その様子にはどこか幼さが感じられる。年相応の、と言うべきだろうか。
一生懸命に卵焼きを味わっているセーラー服の少女に、僕は呼びかける。
「……で、アザレアさん」
「ほはう」
「え?」
ごくん、と頬張っていた卵焼きを飲み込み、アザレアは言い直した。
「……こはる」
「こはる?」
「だから、あたしの名前。
姉である花さんは、確かに彼女のことをその名で呼んでいた。
百合崎小春。
やるべきことをやるだけの天才、ただひたすらに「おもしろいこと」を渇望する【百合崎花】の、たったひとりの妹。
昨日フレーバーの使い方を教わっていた時には、断固として僕に【アザレア】以外の呼び名を許してくれなかったことを記憶している。この年頃の子は、やっぱり考えていることがわからない。僕にできるのは、ただそれを肯定するだけだ。
「そっか」
「なんか【ハイゼンベルク】も無くなったし、ご飯食べながら横文字は正直キツい」
僕は、思ったより常識的な感性に基づく彼女の主張に苦笑いする。常識的。普通。お姉ちゃんはどうして普通でいられないの、と、アザレアは……いや、小春は姉に問いかけた。
「じゃあ……小春さん」
「だから、さん要らないって」
なかなか話が進まない。
「わかったよ。じゃあ、小春」
「よし」
何がよしなのかわからないが、小春は満足そうに目を細めて、味噌汁をすすった。
「で、何を言おうとしたの」
「ほんとブレないな……いいけど。昨日の……昨日でいいのか? あれは僕の夢じゃない、ってことでいいんだよな?」
先程、彼女は確かに【ハイゼンベルク】と口にした。少なくともその存在は、僕の妄想が生み出したものではない。
「夢なわけないでしょ」
小春は呆れたように目を閉じ、欠損していたはずの腕で味噌汁を飲む。
僕はそこにきちんとくっついていることを確かめるように、僕自身の脚の付け根に手を当てる。そのまま右手だけでほうれん草の胡麻和えを口へ運んだ。
「ちょっと、片手で食べない」
「……へい。……なんというか、小春……も僕も、君のお姉さんに、殺されかけてたと思うんだけど」
「……」
無言で、小春は味噌汁を飲み干した。かきこんだ具をもぐもぐと噛みながら、今度は口の中にものを入れたまま返答することなく、僕の顔を凝視して口を動かしている。
おそらく僕に対して食事マナーを指摘したから、彼女自身も気を付けようとしているのだろう。そのあたりの振る舞いから、何となくこの少女の素の性格が滲み出しているようだ。
小春は、その小さな口に含んだものを食べ終わると口を開く。
「いいよ。どうせそこから話すつもりだったから、何があったか説明する。あたしも自分のこと以外は後から水仙に聞いたんだけど――」
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