第三幕
interlude #02
それを残さずに食べたから
六郷ゆかり。
彼女は神社の境内でベンチに寝転んで、何をするでもなく、空を見上げながら風をその身に受けている。
その健康的に日に焼けた身体からは、汗と、プールの塩素の香りが漂う。夜介が近付くと、ゆかりはこちらを向いて笑った。
「やっくん」
小学生の夜介は、少し飛び上がってベンチに乗ると、ゆかりの頭の横に座る。ゆかりの黒い髪は陽の光を受けて紫に透き通って見えた。プールの塩素材かと思えていたその香りは、いつのまにか、爽やかさと甘さの共存する柑橘系の
――場面が変わる。六郷家、離れの部屋。
ゆかり姉ちゃんは泣いている。ハンドボールの試合で負けてしまったのだ。中学最後の大事な試合。オレンジ色と、黄緑色のユニフォーム。たまたま両チームのユニフォームのデザインは同じで、色だけが違った。ゆかり姉ちゃんは試合中、敵と味方を見間違えてパスを誤り、ギリギリのせめぎ合いを続けていたチームの敗北を決定的なものにしてしまった。
スポーツバックを部屋に投げ出して、ゆかり姉ちゃんはその上にうずくまる。長く静かに、嗚咽を漏らしている。それは試合に負けて悔しいからではなく、チームメイトへの責任感でもなく、もっと根源的な、まるで自身の存在を嘆くような――深い絶望を感じさせる嗚咽であった。
僕はそんな彼女を見たくなかった。
だからスポーツバックからオレンジ色のユニフォームを取り出して、それを隠してしまおうとした。悲しみの原因になったこれが見えなくなれば、ゆかり姉ちゃんも泣き止んでくれるかも知れない。
「だめだよ、やっくん。それ、大事なんだから」
ああ、見つかってしまった。ゆかり姉ちゃんは僕の手からユニフォームを奪い取ると、それを胸に抱きしめる。彼女自身を泣かせたはずのそれを、とても大事そうに抱きしめる。
僕はそこで、ゆかり姉ちゃんの意図に気が付く。そうだ、ぎゅっと小さく縮めてしまえば、ユニフォームの色の違いなんてわからなくなる。ゆかり姉ちゃんがユニフォームを見間違えても、きっと仕方がないことなのだ。
ぎゅっと抱きしめられたユニフォームは、ゆかり姉ちゃんの胸の中で丸々としたオレンジ色の果物になっていた。なるほど。こうしてしまえば、絶対に安心だ。ゆかり姉ちゃんはそれを白い手で器用に剥いて、口に運んでいる。美味しそうにそれを飲み下すと、もうひと房ちぎり取って、僕に笑いかけた。
「やっくんも食べる?」
僕が頷くと、ゆかり姉ちゃんはみかんの果実を差し出す。手を伸ばして受け取ることもできたけれど、ぱくり、と口で直接食べることにした。ゆかり姉ちゃんの指に、僕の唇がすこし触れる。つるつるとした爪のテクスチャすらも、唇で感じることができた。
口に含んだみかんを歯で噛み潰すと、みずみずしい汁が溢れる。
赤い汁。それは夜介自身の血液だ。
込み上げる鉄の味にみかんの房を吐き出すと、それはみかんではなく、夜介の切断された足であることがわかった。根本から切断されたその脚を、いったいどうしてみかんの房などと思い違えたのだろうか? 僕は、しまった、と思う。子供のふりをしてゆかり姉ちゃんの手からみかんを直接食べてしまったものだから、脚が千切れてしまったのだ。
「おいしい?」
ゆかり姉ちゃんは僕の脚が千切れたことに気付いていない。バレてはいけないと、僕は必死で脚を再び口に含み、何でもないような顔をして血と肉を飲み込んだ。うん、おいしいよ。それらは僕の身体の中へとじんわり広がり、しっかりと吸収された僕の脚は、じわじわと切断口から生えてくるはずなのだ。
僕は出来るだけ気を引くために学校や友達のおもしろいことを喋って、ゆかり姉ちゃんに気付かれる前に、両脚がちゃんと生え揃うように、はやくはやくと願っていた。
――また、場面が変わる。屋敷の廊下。月明かりの熱帯夜。
すっと背筋を伸ばしたゆかり姉ちゃんは、廊下にぽつんと立っている。風呂上がりなのか、黒い髪はしっとりと濡れている。白い手がするすると
いけない。
僕は導かれるように、閉じられた襖の前に立つ。僕はあの夜、薄い紙に隔たれたこの部屋の中へと足を踏み入れることが出来なかった。なぜなら僕の足はすっぱりと、トカゲのように根本から千切れてしまったのだから。
でも今はそれができる。ゆかり姉ちゃんが、白い手で僕の両脚を差し出してくれたからだ。僕はそれを残さずに食べたから、きっと今なら襖の先へと進むことができるだろう。するすると襖を開いていく。月光は、闇に紛れていたい僕の一挙手一投足を、うるさいほどに照らし尽くす。それでも僕の手は止まらない。その先に何があるかわかっていても、止めることなどできなかった。
眼前に広がるのは、牢獄のような、コンクリートの小部屋だった。蛍光灯に照らされる室内。中央に鎮座する大きな水槽は水で満たされていて、中には――ゆかり姉ちゃんが眠っている。きっとゆかり姉ちゃんは、いまその身体と魂がどこにあるのか、わからなくなってしまっているのだ。元に戻してあげないといけない。それが僕のやるべきことなのだと、魂の使命なのだと、はじめから決まっていたのだ。
水槽に向かって足を踏み出す僕の身体は、意志に反してがくんと止まる。骨ばった大きな手。先生は僕の頭をボウリングの球のように掴み、銀眼鏡の奥から僕を見下ろして不機嫌そうに告げた。
「クソガキが――コンティニューしろ、つったろ」
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