スタバから駅までの間、信号はふたつ
スタバから駅までの間、信号はふたつ。それが僕と花さんの歩く距離であった。
結局花さんは小一時間、控えめに質問を挟みながら、僕の語る六郷の家の話を聞いてくれた。嬉しい思い出、家族はどんな人だったのか、何か遺品はないのか。
ゆかり姉ちゃんの消失はどちらかとえば僕の内面的な話であるため、伝えてはいない。そもそも
どんな思いを抱いて、何を考え、ゆかり姉ちゃんの消失にどう折り合いをつけようとしてきたのか。僕は思い出すことが出来ない。
隣を歩きながら、花さんはちょっとしゅんとしている。自身の好奇心を抑えられなかったことを恥じているのかも知れない。
「色々根掘り葉掘り聞いてしまって、反省してます」
「いえ、僕もたぶん……誰かに話したくなる時があるんです」
確かにそれは嘘ではない。僕は誰かに、家のことを聞いて欲しかったのかも知れない。
たまには蓋を締めている箱の中身を取り出して外気に晒さないと、腐ってしまう。でも、もしかするとこのまま蓋を開けずに墓場まで持ち去り、腐らせたほうがいいのかもと思う。
僕は彼女に話したことを少し後悔し始めていた。
「六郷さんは、わたしに聞きたいこと、ありませんか」
「じゃあ……仕事速いのって、何かコツでもあるんですか」
僕は話題を切り替えるために、自分でも次元の低い質問だと思いながら、スタバを出て隣を歩く彼女に聞いてみる。キーボードを置き、こうして歩いていると普通の女性にしか見えない。頭一つ低い彼女のつむじを見下ろして思う。
「さぁ、どうなんでしょう……」
「よくわからない?」
「速いかどうかって、たぶん、相対的な話ですよね」
「ええ、まぁ」
僕が夜までかかるはずの作業。彼女は自分のタスクを片付けたあと、ほぼ同量の僕の仕事もついでに終わらせた。確かにそれは間違いなく、僕との比較が前提となる相対的な速さだ。
「だから……どうして速いか、って聞かれてもわからないですけど、わたしは、やることをやるのが得意なんだと思います」
やること。僕は彼女の言葉を翻訳しようと試みる。
「……作業が得意だから、作業が速い、ですか?」
「言葉にしてみると、なんかトートロジーっぽいですね。うーん」
「あと、花さんって仕事のより好みしないですよね」
なんとなく花さんの仕事ぶりをみていると、そう感じる。
どんなタスクが発生しようと、それがいかに困難に映ろうと、彼女は躊躇わない。困難を解して並べて揃えて晒して見せて、それを食べ尽くす。
「しない、です。わたしは自分を……やるだけの人間、だと思ってます。それが誰かの役に立てば嬉しいですけど、結局、わたし自身は眼の前に置かれた問題を解くのが好きだし、それしかないと思ってるんです」
へへ、と少し照れたように笑う。
「そのうちに速くなったのかも」
「なるほど」
やるだけの人間。僕はそれが謙遜であることに気付きながらも、それ以上深追いすることをやめた。彼女がただの手の速い作業者でしかなければ、社運のかかった重要プロジェクトを任されたりはしないはずだ。
誰であれ自己認識と客観的な強みは、一致しないものなのだろう。
◆◆◆◆◆
ところで。
僕はその頃には、ある程度の実験を終えて「裏側」に入る力を活用していた。
活用したと言っても、僕は元来心持ちの小さな男である。大それた話ではない。日々の満員電車を快適に過ごすために「裏側」に入って移動したり、集中して考え事をしたいときに静かな世界へ引きこもったり、といった程度のものである。
世界の裏側を歩くのは楽しい。
雑踏も喧騒も存在せず、風や太陽といった自然現象はその色を失いながらも元と変わらぬ営みを続け、ただ世界の形だけがそこにある。そして僕だけが、世界に一方的に干渉する特権を持つ。
本来この強力な能力をフルに活用すれば、そして目的意識を持って計画してしっかり準備を整えれば、殺人や詐欺窃盗、諜報、身代金誘拐まで、文句なしの完全犯罪が可能だろう。
うまく立ち回って、ビジネスで莫大な利益を得ることもできたかも知れない。毎晩遅くまで、そして週末まで、こうして働き続ける理由はどこにもなかった。そう考えた瞬間、別れ際に手を振るさっきの花さんの姿が脳裏に浮かぶ。僕はすぐにそれをかき消す。あまりに傲慢というものだ。
あとは……そう、小さな犯罪に手を染めていたことを告白しなければならないだろう。
何故なら「彼ら」と出会ったのも、僕がくだらない悪さの泥に手を浸している、まさにその瞬間であったからだ。
◆◆◆◆◆
駅で花さんと別れたあと、僕は電車には乗らずに商店街へ引き返す。そしてチェーン経営の大型古本屋へ入った。ざわつく店内と薄い人の熱気が僕を打つ。
少し時間が出来たら読みたいと思っていた、おもしろいと評判の漫画があったのだ。それは何年か前に連載が始まったポスト・アポカリプスもので、たまたま生き残ってしまった女の子二人が限られた設備と材料で色々なご飯を作って食べる料理漫画だった。
どうやらその作品の中には世界が滅んだ理由や大いなる謎といったものは描かれないようで、サバイバル飯を紹介するために人類が滅んでいる必然性はほとんどなく、作者は単に廃墟が描きたかっただけではないか、と僕は感じた。
ともあれ確かに内容は面白く絵柄も好みだったので、僕は一巻を読み終わったあたりですっと目を閉じて、裏側に入った。既刊の二巻と三巻も棚から拝借して、近場のカフェで座って読もうと思ったのだ。
そのくらい力を自然に使えるようになっていた。同時に、これは東京という街のいいところでもあるが、すぐ隣りにいる他人が突然いなくなっても誰も気にしないのである。たとえ違和感に気が付いたところで、僕が世界の裏側に入っているなどと想像する人間なんて、どこにもいない。
そのような思い上がりがなかったとは言わない。
(……よし)
棚に並ぶ色とりどりの背表紙は、裏側に入ったことで、すべて白黒に変わっていた。同時に、あらゆる人間がいなくなり、店内のざわつきは一斉に立ち消えている。
静けさを感じながら、見えない手を棚に伸ばして、二巻を引き抜こうとした。
――視線。
身体の血の気がさあっと引いていくような感覚を覚える。耳の奥では血管がどくどくと音を立て、異常な事態への対処を促すアドレナリンが分泌されている……ように、存在しない身体で感じる。
僕は棚の方に向いたまま、自身の右隣を見る。誰もいないはずのその世界の中で。
身体ごとこちらに向いて男が立っている。
確かに僕は先ほど「裏側」に入った。白黒の世界、誰もいない世界の中で、その男だけが身体を伴って存在している。そいつはこちらを、つまり僕の身体があるべき空間を無言で凝視していた。
「……」
そっと、二巻を元の位置に戻す。僕の動きでかたりと音を立てる本棚を、その男は横目で確認した。瞳の奥が乾いていくようだ、と僕は思った。
こいつはさっきから隣に居ただろうか?わからない。その格好はごくありふれたグレーのスーツ姿で、視界に入ってもそれと意識することは難しいだろう。
グレー。その印象が強いため見落としていた事実に、僕は遅まきながら気が付く。
――男には、色がある。
肌のくすんだ土色や腕時計の銀。彼の纏う色は「裏側」の中で唯一、白黒の調和に染め上げられていなかった。素人の作った雑なコラージュ写真のように背景から浮かび上がるその姿を見て、男はこの世界にとっての
相手はどうやら僕の身体が見えているわけではないようだが、確実に僕がそこにいることを認識しており、恐ろしく温度の低い瞳でこちらを観察していた。猛禽類に見下ろされる鼠のように視線に射竦められ、その場から動くことができない。
(……)
どれくらいそうしていただろうか。主観的にはたっぷり一時間も経過したような気持ちになった頃、男は、ふっ、と息を吐くと、こちらから目を離さないまま電話を取り出す。そうしてどこかにコールする。こうして静かな世界にいると、小さな音でもよく響く。ぷつ、と男の電話が繋がったかと思うと、女の声がそれに応じた。
「発見した。こちらも転移したが…。姿が見えない。……いや、違う。それはない。最初から身体が構成されていないパターンに見える」
店内に薄く流れ続ける BGM を聴いて息を潜め、白黒の世界でひとり、色を持つ男からのかくれんぼを続ける。かくれんぼで見えなくなることができれば、無敵だろう。そうは思うのだが、ここまで至近距離だと、さすがに何も出来ない。
「……そうだ、可能性はある。フレーバーの現れ方はリングよりも個人差が大きいが……そう、エイティーピーアイも無しだ。そこは聞いていた通りだった」
電話を持つ方とは逆の手につけた腕時計が目に入る。男が「リング」と言いながら、それを電話の相手に示すように軽く揺すってみせたからだ。無意識にだろう。それをよく観察した僕は、腕に巻かれた銀色のものは腕時計などではないことを発見する。それは継ぎ目のないつるりとした輪っかで、どこにも時計盤や液晶のようなものは見当たらない。
男は再び周囲に目を配り、今度は完全にこちらから目を離して、諦めを含むトーンで電話口に言葉を吐き出す。
「おそらく追跡は難しい。気取られた可能性もある」
沈黙を続けたことが功を奏してか、男は僕が未だ目の前で息を潜めているとは思わずに、見失ったものと判断したらしい。
しかしそこで緩みかけた緊張の糸は、続く男の言葉で、大きな音を立てて引き千切られることになる。
「十年以上前の残りに、どれほどの意味があるかと思ったが――腐っても六郷か」
かたん。
――小さな音でも、よく響く。よろめいて棚に(存在しない)足をぶつけた僕は、その音で以て周囲へと自らの存在を主張することになってしまった。
「――っ!」
男がこちらに向き直る様子を視界の隅で確認しながら、僕は出口に向かって走り出す。男は電話の相手に向かって何かを短く叫びながら僕を追う。
六郷。
あいつらは、僕を
もしかすると、その四年前に消えたゆかり姉ちゃんについても。
他の客がタイミングよく開いた、自動ドアの隙間。そこを僕の意識が潜り抜けたとき、追手の男は銀色のリングをカチンと爪で弾いた。
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