物理で殴る、が最適であると
地面を擦る音が足元から接近する。急速に嫌な予感が背筋を這い上がり、とっさに横っ飛びに避けることが出来たのは僥倖だったと言える。
――破壊音。
体勢を崩しながら振り返ると、自動ドアのガラスはボーリングの球をぶつけられたように穴を開けられ、その破片を撒き散らしているところだった。
ガラスが重力に従って散らばり終えると、誰もいない世界は静けさを取り戻す。あちら側の世界では突然窓ガラスが割れて騒然としているはずだが、この「裏側」では通行者の驚愕の声が上がることはなく、集まって写真を撮り始める野次馬もいない。
いったいこれは何だ?
追手のグレースーツが店舗の出入り口をくぐって現れる。男の手のひらから伸びた白い紐のようなものが、ガラスを貫通している光景を目にする。ボーリングの玉を力いっぱい投げつけたような先程の破壊は、このひょろりとした紐によるものらしい。
紐の白さには明らかな違和感があった。陰影がなく奇妙にのっぺりとして、仄かに発光しているように感じる。太陽光のすべての波長を反射して白く見えているというよりも、まるで、漫画の紙の上に修正液をぶちまけた跡のようだ。その異物は僕に害を及ぼし得るものであると本能が告げていた。逃げる方向を確認するためにあたりを見渡す。
――逃げる?どこへ?
この「裏側」の世界こそが、僕しか存在しない、僕すらも存在しない……完全な逃げ場所ではなかったか。誰もいない世界。そこに無遠慮に踏み込んできた男は、何の説明も猶予もなく、僕を追い立てる。
こんなことが許されてはならない。
それでも僕が出来る精一杯の反抗は、男から逃げ回る以外の選択肢を持たない自分自身に歯噛みすることだけであった。
相手から僕の姿は見えていないはずである。しかし、この場に留まって相手をやり過ごすという冷静さは、僕の頭からとっくに失われていた。よろけた透明な身体を立て直して、得も言われぬ焦燥に駆られて再び走り始める。
割れたガラスを踏む、じゃり、という音に気が付いたのだろう。すぐさま男は僕の方に腕を伸ばした。腕をガイドレールのようにして、白い紐が生き物のように伸びる。
「――っ!」
紐の行方を最後まで見届けることなく僕の意識は転倒していた。舗装路で、肌をすりおろされる痛み。
地面に這い蹲って自身の足元を見ると、あの白い紐のようなものが、僕の足首と思しき空間に丸く巻きついていた。まるで本当に身体を拘束されているように、僕は足をその場から動かすことができない。
「捕らえた」
男が電話の向こうに短く報告する。僕の「足」がガラス戸と同じ運命を辿らなかったことに安堵しながらも、相手の目的がわからない以上、こうして自由を奪われるのはやはり最悪の状況だろうと微かな安堵を打ち捨てる。
グレースーツの男はそのまま、地面に這いつくばる僕の方に足を進める。身体を緊張させた瞬間――
どこかから、柔らかな、落ち着きを感じさせる男性の声が響いた。
「
声とともに、グレースーツの伸ばしていた白い紐は破裂音を上げて切断された。僕の「足」の数十センチ先で千切れた紐は、そのまま、空間に溶けるように消える。
その切断を成したのは、視界の端から素早く伸びた新たな闖入者の革靴であった。革靴の先は白く輝いていたが、すぐに、何の変哲もない革のテクスチャに戻ってしまう。
「――!?」
僕が地面に倒れ込んだまま白に塗り潰された空を見上げると、そこには、白髪の初老の男が僕を見下ろしていた。
男の顔には年齢を感じさせる皺が刻まれていたが、ぴんと伸びた背筋から、老人と呼ぶことは躊躇われた。手にした銀装飾の施された杖は、弱った足を支えるというよりも、ファッション性を重視したもののように見える。老紳士、という呼び名がしっくり来る。
どうやら彼が僕の足に巻きついた紐を蹴り飛ばし、消滅させたらしい。
グレースーツの男は、ちらと割れた自動ドアを振り返る。
「干渉が派手すぎたか?……いや、それにしては反応が早い。貴様らも気付いていたか」
独り言なのかこちらに聞かせようとしているのか判断が難しい大きさで呟く。その表情に浮かぶのは、苛立たしさと敵意、そしてわずかな困惑であった。「紐の手」とは逆側の手に保持していた電話に小さく何かを告げたかと思うと、それで会話を終えたのか、機器を懐に仕舞い込んだ。
グレースーツは、一定の距離を保って初老の男と対峙する。
第二の侵入者に、僕の頭は混迷の極みにある。混迷の中、どうやら彼らは友好的な関係にないこと、そして初老の男は、その立ち位置から見て僕をグレースーツから守ろうとしているらしい、ということをうっすらと理解する。
初老の男は、僕の身体のある空間の方に、銀色のリングをぽんと投げてよこした。
「とりあえず、これを。位置が把握できないと、守り辛いものでして」
男が差し出した銀色のリングは、紛れもなく、グレースーツがその身につけていたものと同じであった。文字盤も液晶もない、つるりとした輪っか。
その時の僕は、ほぼ思考停止状態にあった。言われるがままに、その銀色のリングを見えない左腕に重ねる。
すると音もなく――透明だった僕の身体が、像を結ぶ。
白黒の世界で始めて実体を持った僕は、自身の身体を見下ろして、ようやく現実感を取り戻す。
「なん……なんですか、あんたら」
かろうじて僕の口を衝いて絞り出されたのは、何の面白みもない間の抜けた質問だった。実のところ、それは質問ですらなかった。何かを言わなければならない焦りと、何もわからない当惑の狭間ですり潰された呻きである。
初老の男はちらと僕を振り返り、何かをおもしろがるように、手に持つ杖を地面にココンと軽く打ち付けて微笑んだ。
「
「……スイセン?」
「詳しい話はあとですが、少なくとも」
老紳士――水仙――は、グレースーツから目を離さずに穏やかな口調で物騒な言葉を吐いた。
「あちらの方に、殺されたくはないでしょう」
◆◆◆◆◆
先に動いたのはグレースーツだった。
その身をゆらと前傾させたかと思うと、一瞬で身体に加速を乗せ水仙に向かって駆ける。手からはそれを超える速度で白い紐が伸び、横合いから薙ぎ払うように水仙を襲った。
水仙の穏やかな双眸は、空気を切って迫る紐を横目で捉えていた。紐を待ち受けるように左手で掲げられていた杖は、グレースーツの紐と同様に白く発光している。しかしその杖は、蛇が枝に巻き付くように、白い紐によって素早く捉えられた。
否、老紳士が、杖で紐を巻き取ったのだ。
紐と杖の衝突から一拍遅れ、お互いに片手を封じられた状態でグレースーツが水仙に肉薄する。水仙の懐に潜り込むグレースーツの拳はやはり白い光を纏っており、老紳士の肉体を破壊する明確な意志を持って拳の連撃が繰り出された。
それをことごとく至近距離で躱す水仙の動きには淀みがない。白く光る拳を流れるように捌き切った彼は一歩踏み込み、グレースーツの男の腹部にゼロ距離で掌底を打ち込んだ。グレースーツは打撃の瞬間、後ろに飛び、勢いを殺している。しかし相殺は完全ではなく、飛び退ったあと、腹を押さえて軽く呻きを上げた。
水仙は攻撃と同時に左手の杖を振り払っている。その衝撃で白い光が弾け、紐はまたしても空中に霧散して消えてしまっていた。
「中途半端なことは、やめた方が無難です」
「……」
水仙は、距離をとって体勢を整えようとするグレースーツに向かって語りかける。
「あなたのフレーバーも私と同じ【アップ】でしょう。ならば、身体や道具を強化して物理で殴る以外の用途には不向きです。そんな枯れ枝のような紐を練り上げたところで、容易に打ち破られることがわかりませんか」
一撃でガラス戸を粉砕した白い紐を枯れ枝と称する水仙の口調は、できの悪い生徒をたしなめるようであって、敵意や闘志とは無縁の穏やかさを持っていた。
一方のグレースーツは力の差を見せつけられたことの屈辱か、それとも別の何かへの苛立ちか、眉根を寄せながら再び白い紐を生成してその手から伸ばした。
「枯れるのは貴様だろう。老人が」
吐き捨てるように、手を横薙ぎに打ち払う。水仙は再び襲い来る白い紐に軽く呆れたように微笑むと、先程と同じように白い光を纏う杖を掲げて備える。しかし紐の軌道が先程とは異なっていた。グレースーツが手を払った角度でそのまま横薙ぎに進んだかと思うと、途中で、紐はばらりと何本にも分裂する。分裂したそれぞれの紐は、ホーミングミサイルのように角度を変えながら水仙の身体へ来襲した。
一本の杖では対処が追いつかないと判断した水仙は、紐の追跡を逃れるべく地面を蹴り、駆ける。それを追いかけて打ち下ろされる紐の鉄槌は、ずどっ、ずどっ、と重い音を響かせながら次々に地面を破壊していく。水仙はグレースーツの懐に潜り込もうと隙を伺うが、天より打ち下ろされる何本もの紐が接近を許さない。
「当たれよ、老いぼれ!」
「面倒ですね」
瞬間、水仙は動きを止めると杖を投げ捨て、両の手に白い光を灯らせた。そのまま、立ち並ぶ白い紐の格子に向けて直進すると、両手で次々に打ち払いながら歩を進めていく。紐が破裂して消滅しては、新しい白い格子が打ち下ろされ、それが薙ぎ払われる。人の背丈ほどもある雑草が無慈悲に伐採されていくようだ。上空からの紐を払い落とし、正面から突き出される紐を弾いて反らし、グレースーツに向かって進む水仙の歩みは優雅ですらあった。
「――っ!」
「【アップ】のフレーバーは分散させればさせるほど、強度は下がります。紐の数を増やしたところで、枯れ枝は折れやすくなるだけです」
反撃に蹴り上げられるグレースーツの脚には、この馬鹿げた強靭さで歩みを進める老人から距離を取りたいという思いが乗ってしまっていた。半身を切って至近距離まで接近に成功した老紳士の腕がゆるりと動くと、重心のぶれたグレースーツの身体は合気道のように高く放り投げられ、宙を舞う。
放物線を描くその身体に、最速最短、直線距離で接近するのは地を蹴った水仙の追撃の拳だ。
「言ったでしょう」
水仙の拳は先程の掌底とは異なり、白い光を纏っていた。グレースーツは白い紐をその手からぞろりと生やすが、一手遅い。
「物理で殴る、が最適であると」
水仙の拳が、グレースーツの身体を芯で捉えた。
◆◆◆◆◆
――どしゃり、と音を立てて、グレースーツの身体は地面に転がり落ちる。
僕は一連の攻防を、呆然と見守るしかできなかった。水仙はちらりと僕の無事を確認すると、転げた杖を拾い上げ、持ち手に付いた土を払う。拳を受けて吹き飛ばされ、地面に這いつくばっているグレースーツを眺めて、僕は乾いた口から言葉を吐き出すことに成功する。
「……死んだんですか」
「紐を盾にしたようなので、生きてはいるでしょう。もう少し強く殴ればよかったですね」
だんだんわかってきた。この人、見た目は紳士っぽいけど「パワーを高めて物理で殴る」系の脳筋だ。
僕は何と言うべきかわからず、素直な感想を漏らす。
「何というか……こういう世界観とは思いませんでした」
「いつでも世界はこうでしたよ。あなたは、孤独な世界に癒やされていたかも知れませんが」
「……」
世界観。誰もいない世界を願ったら脳筋紳士とスーツが殴り合う修羅の国であった件について、とでもタイトルが付けられるだろうか。いずれにせよ、わからないことが多すぎる。水仙と名乗るこの老紳士は何者で、どうして彼らは僕の名前を知っているのか。僕の姿を取り戻したこの銀のリングは何なのか。それに……
「……う……ぐ……」
と、生存を断定した水仙に反応したわけではないだろうが、グレースーツは地面に手をついてよろよろと身を起こし始めた。確かに、生きているらしい。その腕を上げ、またしても白い紐を生成する。
水仙が身構えた瞬間、勢いよく――グレースーツの腕が、真下の地面に向けて振り下ろされた。
どすっ、という鈍い音を立てて、白い紐は足元の舗装路に突き刺さる。
そして紐は土の中を掘り進み――僕の足元から、地面の爆発を伴って突き上がった。
ただし、既にそこに僕の姿はない。
「ちょっ、おっ、水仙……さん!」
「舌を噛みますよ」
流れる視界の中で、土塊を巻き上げる白い紐の破壊はぐんぐんと遠ざかっていく。
脳筋紳士、じゃない、水仙の肩に抱えられたまま、僕は路面の破片が地面の爆発で巻き上がり落ちてゆく様子をスローモーションのように見ていた。
――とても、初老の男が人間をひとり抱えて走る速度ではない。身体を強化……と言っていたか。脳の冷静な一部分がそんなセリフを想起する。
水仙は僕を肩に乗せて走る。しばらくそのまま移動したかと思うと、突然どこかに向けて呼びかける。
「メルト、もう検知しているでしょう」
『はい』
水仙の言葉に、間髪おかず、女性の声が応える。それはどこから聞こえているのか判然としない。音はまるで、世界全体に響いているようにすら思える。それでいて耳元で囁かれているような静けさを持つ、消えてしまいそうな声でもあった。
「敵は追ってきていますか?」
『いいえ。既に元の世界へ帰還したようです』
「ありがとう。敵の戦力は削っておきたいところでしたが、夜介様を保護することが先決です」
そう言うと水仙は、もう急いで移動する必要はないと考えたのか、その場に止まって僕を地面に下ろす。グレースーツの男に転ばされてから地面に這いつくばり続けていたので、脚で大地を踏みしめる久しぶりの感覚に、ちょっとよろけてしまう。
水仙はそのまま歩き始め、僕はその後を追う。
「お怪我はありませんか」
「ええ、まぁ……。というかええと、メルト、さん?」
『はい』
先程と変わらぬ声が、僕の呼びかけに答える。それはどこから響いているのかわからない、それでも、ただそこにあるだけの声であった。
僕には聞いておかなければならないことが沢山あった。
さっきの男は、あの白い紐は何か。水仙にしても、何故あんなことが出来るのか。そもそも、あなたたちは誰なのか。
色々聞きたいことはあったが、僕が選んだのは――
「あなたは一体?」
その声の主――メルト――への興味であった。自分でも理由はよくわからない。何故か、その声から懐かしいものを感じたからだと思う。
『……ええ、と』
意外にも、それに対してどう答えたものか困惑したような声色が返って来た。先程まではどちらかというと落ち着いた女性、淡々とあらゆる疑問に答えてくれる音声アシスタントのようだった雰囲気には、今や少女のそれが混じっていた。
水仙はそっと僕の疑問を引き取って、メルトと呼ばれる女の声の代わりに、僕の疑問に簡潔に答える。
「彼女は我々の監視システムです」
監視システム。
それは、困惑した少女の声色にはあまりにも似つかわしくない無機質な響きである。しかしシステム呼ばわりされたメルト自身は、特にそれに異論を唱える様子もない。
(我々、か……)
先程から見え隠れしている、この奇妙な老紳士の背後の存在。
「我々、と言いますけど」
「ええ」
「あなた、いや、あなた達は……何なんですか? どうして僕を助けてくれたんです?」
情報がなさすぎるので、要領を得ない、曖昧な質問にならざるを得ない。と、そういえば……
「あ、ええと……助けて頂いて、ありがとうございます。すみません、お礼が遅れて」
あまりに一気に情報が入って来たもので、つい、危ないところを助けられたことを忘れてしまっていた。
水仙は、いえいえと僕の謝辞を軽く受け止めて、斜め上の白い空を見上げて沈黙する。そして、言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。
「何かと問われれば……我々に、決まった名前はありません。共通の目的を持つものの集まりです」
「目的?」
「【リバース】――我々は、この白黒の並行世界をそう呼びます」
「そして我々の目的とは、
「さっき僕を襲ってきた男が、その、連合の人間だと?」
「その通り」
正しい答えを導き出した生徒を見るように、水仙は満足気に頷く。
「並行世界統治連合。それが我々の敵であり、
そして、そこで言葉を区切る。僕はその間に彼の話を噛み砕き、飲み込む。
連合という言葉から、映画『マトリックス』のエージェント・スミスのように、均一なグレースーツの男が無数に湧き上がる図を想像してしまう。現実の世界とは別個に存在する、並行世界。そこに攻め込む悪の組織。世界を守るために戦うヒーロー。そういったものが現実に存在しているというのか? この科学万能の世界に。
常識的な疑念は、先程の人知を超えた戦闘と、他ならぬ僕自身が世界移動を繰り返してきたという事実の前に霧散した。
僕の眼の中で理解と疑念と想像とが一巡したことを読み取ってか、一呼吸おいたあと水仙は言葉を続ける。
「先に、我々に名前はないと言いましたが――名前がないというのは、色々と不便です。ですから、敵が我々を呼ぶ際に使う名を、我々自身がそのまま使うこともあります。すなわち」
水仙は大仰に両手を広げ、誰もいない、静かな白黒の世界を示す。
「ハイゼンベルク、と」
それは世界の指揮者のようであり、同時に敬虔な崇拝者のようにも見えた。
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